第21話 猛将の最期

 かくして、あたしたちは命令を遂行し、勝利をおさめ、オリュンポスを死守した。

 もちろん、命令のうちに「ミマスとその参謀である妻の生け捕り」が含まれていたのも、あたしはしっかりと守った。

 ゼウスにしてみれば、一度は反旗を翻しても、元を正せば同じティタン、古き神々の同胞なのだから、『新しい王』たらんとしたミマスの話を聞くくらいの耳は持ち合わせていると思ったからだ。

 しかし、それは全くの誤解だった……ゼウスはそれほど温厚な神ではなかった。

 たくさんの神の血を引く者と、人間たちと怪物どもが死に、ミマスとその妻は捕らえられた。この戦いで流れた血は大地に染み込んで海まで運ばれ、ポセイドンの館の上を赤く染めたとすら言われる。

 しかし、そんなもの、このゼウスにとっては修羅場のうちにも入らないことを、あたしは忘れていた。


 手枷と首枷をつけられ、両足に重りのついた鎖を巻き付けられたミマスと、後ろ手に手枷をされたロナケイア、まだ顔の傷の痛々しい、策士であり妻でもある女が、オリュンポスの謁見室の床に跪かされたとき、偉大なる神々の王であり続けることを確約されたゼウスは、彼らの惨めで不当な扱いを見ても、顔の皮膚一つ動かさなかった。

 そして、ゼウスの下した裁定は、身も凍るほどおぞましいものだった。

「この愚かな反逆者どもの両手と両足を切り落とし、大理石の台に据えよ。その目が決して閉じられることのないように、まぶたを眉に縫い付けて、昼の間は常に太陽神アポロンを、夜は月の女神アルテミスの美しい輝きを見つめ続けるが良い。よいみせしめになるであろう。その置物は、我がオリュンポス神殿の入り口の左右に置く」

 と、いつもの耄碌した姿など嘘のように、ただ冷たい笑みを浮かべながら言った。

「ヘーラーや。クレスたちを呼べ。あやつらならば、このものどもを殺さずに手足を切り落とせるからのう」

 クレスというのは、その名の通りクレタ島の精霊たちの一団で、神々の王と王妃の信頼を受けて、他の精霊やニンフたちよりもずっと厚遇されている。なぜならば、どこにでも飛んでいける上に、実父であるクロノスに命を狙われ続けていたゼウスのことを、その出生の時から守り抜き、面倒を見てくれた一族なのだ。ゼウスにとっては育ての親同然であり、ヘーラーにとっては優秀な衛兵であり斥候でもあった。

 しかし、神々の血統ではないが故に、神を殺すことはできない。すなわち、ゼウスが彼らを指名した理由は、あたしやアレス、あるいはアポロンあたりのへそまがりが、この虜囚の夫婦を「うっかり」殺してしまわないように、先に布石を置いてきたのだ。生きながらさらし者にするためには、うっかり慈悲の死を賜ってしまうようなものに拷問を任せるわけにはいかないということだろう。

 ヘーラーも実に楽しそうな笑顔で頷いた。

「すぐに呼びますわ。それに、このものたちを彫像がわりに門扉のところに飾るのなら、台座が必要でございましょう。あなたもびっくりなさるくらい立派なものを、ヘパイストスに命じて作らせますわ」

 じっさい、あたしはこんなにも嬉々としたヘーラーを見るのは初めてだった。彼女はこの純血種のティタン、すなわち稀に見る貴公子を前庭の飾りにするのを、心から喜んでいるようだった。

 しかも、もっと恐ろしかったのは……普段は女房の尻に敷かれた耄碌ジジイのはずのゼウスが、いまは妻のはしゃいですらいる様子にすら興味無さげに、冷酷で無慈悲な雷光の神、神々の王にして世界のあるじとして、当たり前のように振る舞っていることだった。

「これ、ミマスとか言ったのう。そちは、不死の妻が万一命を失う時は、妻の手を取ってやるのが約束だったそうじゃな。だがその心配はもうないぞ、そなたらは永遠に、このオリュンポスを飾る彫像となって生き続けるのじゃ。握ってやる妻の手も、もはやなくなる。そしてそなたらは、手を伸ばせば今にも触れ合えそうな場所に飾ってやろう。腕がなければ、太陽に焼かれた目で互いを見ることしかできぬ。そこの醜女も、いちおうはティタンの成れの果てじゃ、潰れた目が生え揃えばそれなりに見えるのじゃろうからな」

 妻を侮辱されたことで、ミマスが怒りに耳まで赤くなるのを、ゼウスは面白そうに眺めていた。

「ああ、そうじゃ。おのれらに新しい手足が生えぬよう、毎日朝夕にそなたらの傷口を一切れずつ削いで、冥府で新しい持ち場で働くヘカントケイルの夕飯に出してやることにしたわの。おのれの従僕どもは忠義が篤いのう、偉大なミマス様のお恵みじゃと、奴らは喜んで食うつもりだと、ハデスが笑っておったわ」

 聞いているだけで吐き気がこみ上げてきたが、あたしは気力を振り絞り、拳を握りしめて耐えた。

「ああ、そうじゃそうじゃ、もう一つ忘れておった。そっちの女は、わしとヘーラーをさんざんにこき下ろした檄文を書いた本人だと言うではないか。あれは実に小賢しかったな、ヘーラーや」

「ええ、本当に」

「ならば、その女の言葉には人心を惑わす恐れがある。水銀を飲ませて喉を潰させよ、二度と下らぬことを口走れぬようにしてしまえ」

「いいえあなた。それでは生温いですわ。舌を切り落とし、毎日少しずつ舌が伸びたところを、カラスに食べさせましょう」

 クソババアが。

 これほど仲睦まじく、楽しげに語り合うゼウスとヘーラーを見るのは初めてだった。

 こんなことで。こんなおぞましいことで。

「ああ、それから、玄関先に飾るついでに、この裏切り者どもの背中の生皮を剥いで、なめしに出しましょう。ティタンの革で玉座を貼り直したら、あなたもきっと、座り心地がよくなりますわ」

 この、クソババアが!

 一瞬、自分の指先が剣吊り革の方へ伸びかけていた。思いとどまれたのは、彼女の視線があったからだ……いまはまだひとつしかない、ロナケイアと目が合ったのだ。

 彼女はただ悲しげにあたしを見て、かすかに微笑んだのだ。ロナケイアは、どこかもう、こんな世界などはるか遠くに置き去りにしたかのように、落ち着き払っていた。

 その澄んだ目のせいで、あたしは我に返れた。

 それに、こちらの一瞬の殺意など、感じたところでゼウスは気にしないだろう。

「よし、わが愛する妃の言うとおりにしよう。彫像の土台作りはヘパイストスに任せた。よい飾りを頼むぞ」

「すぐに伝えておきますわ。見栄えの良いように致しましょうね」

 実際にその言葉を投げつけられているミマスの屈辱と絶望に比べたら、あたしの怒りなど安っぽい同情でしかないことくらいは弁えていた。

 だって、あたしが彼らをここに連れてきたのだもの。彼らの願いを無視して、生きさらばえさせてしまった。

 きっと、いや、間違いなく、ゼウスとヘーラーのあのわざとらしいほど浮ついた会話は、あたしに恩赦の口出しをさせないための、計算ずくのものだったのだ。

 その責任は、あたしが取らなくては。

「ごめんなさいね、ミマス。あたし、あいつらがあそこまでやるとは思ってなかった……ごめんね」

 あたしにはそれ以上の言葉はかけられなかった。何を言えばいいのかすら分からなかった。

 しかし。

「戦の女神が謝ってはならぬ」

 ミマスは、既に怒りも屈辱も飲み込んだ様子で、きっぱりと言った。

「私はあなたを恨んではいない。戦争に勝敗は付き物じゃ。我らは戦って負けた。それだけのこと」

 そう微笑むミマスは、ひどい虜囚の恥ずかしめを受けているというのに、下らない残虐な拷問の話ではしゃいでいるゼウスよりも、はるかに尊厳に満ちて見えた。

「妻もそう思っているよ」

 隣に引き据えられているロナケイアも、残った片目を伏し目がちにしながら頷く。その、かすかな笑みを浮かべた彼女の姿は、夫の言うとおりに美しかった。あたしはこのオリュンポスに来てから、美しい女神やニンフたちをたくさん見てきたけれど、こんなにも清廉で、研ぎすまされた刃物のように美しい笑顔は、初めてだった。

「不死というのがこんなにも残酷なのだと、私は知った。これからは人間の時代だ、生れ落ちた瞬間から死というものへと進んでいくだけの生き物が、その死を恐れ、その恐怖を武器にまでした」

 夫の言葉を、その妻であり軍師でもある女が、敗軍の将にふさわしい言葉で締めた。

「わたくしどもは、人間というものを見誤っておりました。しょせんむしけらとしか思っておりませんでした。それに、わたくしは、手勢の同胞をすら、勝利のための駒としか思っていなかった。それ故に負けたのです。その罰を、わたくしは謹んでお受けいたします」

 あたしには、本当に何も、かける言葉が見つからなかった。

 ただ、自責の念と後悔に打ちのめされるのだけはいやだったから、絶対に泣かないと決めていた。

「立派だわ、おふたりとも」

 なんとか脳裏から拾いだした言葉は、そんな陳腐なものだったけれど。

「有難いお言葉に感謝する」

 ミマスはそう言うと、妻とともに、あたしへ一礼した。

 まだ、この二人をどうやっていい彫像にしようか話し合っているゼウスとヘーラーに挨拶もせず、あたしはただ広間を出て、部屋に戻った。

 あれ以上、あそこにいるのは耐えられなかった。

 あたしは部屋に入ると、正装のマントと上着と長靴を剥ぎ取るように脱ぎ捨て、床に放りながら寝室へと向かった。

 あたしの寝室、ヘパイストスが作ってくれた水晶の鎖の天蓋のあるベッドと、ポセイドン様が下さった深海珊瑚を使った燭台だけがある、あたしだけの空間に入って、ようやく。

 あたしは肺に入っているありったけの息を、声に変えて叫んだ。

「うわああああーーーーっ!」

 あたしは臆病者だ。ゼウスとヘーラーに面と向かって歯向かうこともできない、オリュンポスの犬だ。こうして自分の寝台で、枕に顔を埋めて叫ぶことしかできない卑怯者だ。ただ取り乱してわめくだけなら、誰にだって……戦の女神でなくたってできる。

 ミマスとロナケイアの高潔な態度に、あのときあたしは本気で、いますぐゼウスを殺さねばと感じたのに。あたしならばそれができたのに。

 いや、いまから行こう。あの老人どもを殺さなくては、あたしのこの後悔は晴れない。

 そう思ったとき。

 剣に手をかけようとしてやめたのは、きらきらと垂れ下がる水晶の鎖を見たせいだ。

 透明な輝きが虹色に散らばって、あたしの部屋をきらめきで飾ってくれているのに、改めて気付いた。すっかり見慣れすぎてしまったせいで、当たり前のつもりになっていたが。

「そうよ……そうよ、クソババアめ。いい思いつきだわ」

 ヘパイストスに台座を頼むと、あのクソババアはぬかしていた。

 だけれど、ヘパイストスは、あたしたちと一緒にミマスと戦った。ヘパイストスは何年もの時を費やして、共にミマスを倒すことだけを考え、すべてを分かち合った最高の戦友だった。その彼が、そう簡単にヘーラーの……醜さ故に自分を捨てた母親の命令に従うとは思えなかった。

 そこまで考えて、あたしはやっと泣けた。いや、自分が泣いていることに気付いたと言った方がいいかもしれない。

 あたしはヘパイストスの水晶の鎖の一本を握りしめて、声をあげ、のたうち回りながら泣いた。

 ミマスとロナケイアのためだけではなく、彼らとあたしたちのために死んだすべての命のことを考えたら、いくらでも泣けた。

 泣きたい日は、泣けばいいのよ。

「ありがと、アラクネねえさま」

 あたしは不意に頭の中に入ってきた声に、少しだけ笑えた。そして、ちょっぴり嬉しかった。アラクネの声が少しでも聞こえるようになったことに。

 それから一晩中泣いた。誰も、あたしを訪れるものはいなかった。


 三日後には、ミマスとロナケイアの体は、黒曜石の台座にオリハルコンの釘でその身を直接打ち付けられ、両手足を切り落とされた姿で、オリュンポスの山門に飾られることとなった。

 物見高い連中が集まってきて、無惨な夫婦の姿を眺めては嗤った。

「あれが最後のティタンだってよ」

「へーえ、おっきいなぁ」

「でっけえけど、あのメス、いいオッパイじゃねえか」

「目ん玉潰れた女はご免だね、それにあんなにでかい図体じゃあ、おいらなんかガバガバだろうさ」

「そりゃそうだ、ヒャッハッハッ」

 下品極まりない言葉に四六時中晒されても、ミマスとロナケイアは身動きどころか、表情ひとつ変えなかったそうだ。

 いや、実際、このふたりが率いたティタンの末裔との戦いを少しでも味わったものならば、これは当然の報いだろう。思いつくかぎりの罵詈雑言を投げつけることしか、ただの人間である彼らにできることはないのだ。


 そして、アポロンが太陽の馬車を降りた。

 暗い夜がやってきた。いつもならば、彼の妹が月の船で夜空をめぐるはずだが、今夜は新月、月の女神アルテミスは休養日だ。ほんのわずかな月明かりもない。

 ついでに、夕方から、雨雲がいくつかこのあたりへと流れてきている。星の光は薄く、かすかなまたたきにしか見えない。

 かくして、闇の時間は訪れた。

 唯一、いくらか明るく光る宵の明星が浮び上がると、すぐに、クレスの精霊たちが銀と水晶でできたナイフを携えてやってきて、夫婦の周囲を嗤いながら飛び回り、その体から再生しかけた肉や骨を切り取っていった。

 真新しい鮮血の香りに、脳の奥の方がくらくらする。

 あたしは、それまでじっと身を潜めていたニレの大木のうろから飛び出そうとした。

 そのとき、あたしの前を塞ぐものがいた。

 あたしはとっさに剣を抜き、目の前の人影を殺そうとした。しかし、そこにいたのは、あたしのよく知っている人物で……あたしの剣の切っ先を軽く腕輪で受け止めてから、聞き慣れた声で言った。

「ここにいると思ったよ、ねえさま」

「アレス、あんたいつから気がついてたの」

 そう、そこにいたのは弟だった。闇夜に紛れるように青黒のマントに身を包み、深くフードをかぶって、彼はそこに立っていた。

「止めようとしても無駄よ」

「止める? まさか」

 アレスは声をひそめて、いつもの悪戯らしい笑みを浮かべた。

「ねえさまも気がついてたんでしょ。あれっぽっちの台座、ヘパイストスが三日もかけるわけがない。今夜しかないと踏んだんだ」

 弟は当たり前のように言ったが、もちろんヘパイストス本人から打ち明けられたのではないだろう。

 しかし、あたしの考えはアレスと同じだった。ヘパイストスほどの男になれば、いつ、何が行われるかを予想して、そのお膳立てをするくらいお手の物のはずだから。

 だからいま、こうしている。

「ヘパイストスが作ったのは、白樺の土台に黒曜石を貼り付けて鉛を重石にしただけの台座だよ。あいつ、帳簿が細かいから、それを見ればすぐに分かる。だけど、いくらねえさまでも、この台座ごと動かすのはひとりじゃ無理だよ。さすがに、ハリボテでも黒曜石は重い。その上にはティタンが乗ってるんだからね。手伝いがいるでしょ」

「どうして、手伝いなんて……」

「愁嘆場は大好きだって言ったよね、ぼく。それを見物に来ただけさ」

 あたしの問いにも、アレスはにこりと笑っただけだ。

「今夜のうちに終わらせたいの」

「そうだね。新月だから、アルテミスも見ていない」

 弟は、すっかり灰色の雲に覆いつくされた空を見上げて呟いた。

 妙なことに、季節外れの靄も出ている。

 それがすべて、西の海から立ち上る水蒸気をオリュンポス山に当たるように誘ってくれていたのだと、あたしはしばらく後にゼピュロス自身から聞くまでは知らなかったほどだ。

 おかげで、と礼を言うべきだろうが、いまこの場は静かで、昏く、悲しいくらい穏やかだった。

「我が妻、いとしいロナケイア」

「いとしい我が君、ミマス様」

 戒めどころか、台座に釘で全身を固定されたふたりは、それでもなんとかして首をめぐらし、互いに見つめあった。

「このようにみにくい姿を最後にお目にかけることが、恥ずかしゅうございます」

「何を馬鹿な。そなたはこの世の何者よりも美しい」

 痛ましい妻の言葉に、ミマスは若者らしく快活な笑いすら見せた。

「もう少しお近くで話せるようにしますゆえ、ロナケイア殿、しばし耐えてくれ」

 アレスはそう言いおいてから、ロナケイアが留めつけられている黒曜石の台座にぐいっと肩を押し付け、そのまま真横に飾られているミマスの方へと押し出した。

 確かに、彼の言った通り、ヘパイストスが作ったのはただのハリボテだろうが、それでも石で貼られた台座の上に、象より重いティタンの女の巨体が乗っているのだ。両手両腕に全身の力を込めているのが分かった。

 アレスの額にわずかな汗の粒が浮かんでいるのが見えたが、あたしは手を貸すことはできなかった。いや、ただ見ほれていたのだ。一歩、また一歩、じりじりとアレスが歩を進めるたびに、互いの体が近づいてくのを、ミマスもロナケイアも、心から喜び、幸福の極みへと近づくものだけが見せる瞳の輝きを隠そうともしなかったからだ。

 そしてようやく、アレスはふたつの台座を、ぴったりと隙間なく並べることができた。それは数分だったかもしれないし、何時間もかかったのかもしれない。ただあたしは、ふたりの肉体が……その手足を失ったいまでも、ようやく触れ合えるほど近くに行き着いた瞬間のことを、永遠に忘れないだろう。

 ミマスは愛情のこもった目で妻を見つめ、二の腕の途中から落とされた腕がまだそこにあるかのように、ロナケイアへと手を差し伸べる仕草をした。肘の関節から先を切られたロナケイアもまた、いつもそうしていたのと同じなのだろう、静かに夫の方へと、血のしたたる傷口の腕を伸ばした。

 ふたりがそのとき、互いの手と手を取り合えないのが不自然で、不快でたまらなかった。

 だが、ミマスはごく静かな声で、肩口に僅かに残った腕の名残だけで妻の体を抱き寄せようとしながら、その耳元で囁いた。

「愛しいそなたの、そのか弱い手を握っていてやることはもはや叶わぬ。だが、くちづけならばできるだろう」

「はい」

 ミマスとロナケイアは、互いにせいいっぱい身をよじり、釘打ちの傷みなど忘れたように、少しでも相手と近づくために体を伸ばして、手足のない身を寄り添わせ、唇を重ねた。

 かくして、この敗残者たちが愛を確かめあうのを見届けてから。

 まさに、雷よりも速く、アレスは剣を抜き放つと、まだ唇を合わせている二人の喉笛の間に刃を滑り込ませて、一気に手前に引き、一瞬のうちに女の首を刎ねた。

 弟はその首が地に落ちるより先に受け止め、剣先を下に向けて最低限の礼を尽くしながら、ミマスの方へと差しだす。

「ミマス殿、奥方ロナケイア様の御しるしでございます。お改めを」

「かたじけない」

 彼の口から漏れたのはそれだけだった。

 彼は無言のまま、捧げられた妻の首を見て、痛々しい姿から目を背けることはなかった。むしろ、本当に美しいものを見ているような恍惚とした微笑を浮かべて、永遠にその姿を焼き付けておくために、瞼の縫われた目で、その首と、台座にまだ固定されたままの屍を見ていた。

 ただ、ミマスは妻の顔を、肩と頬に挟んでアレスからなんとか受け取り、可能なかぎりの形で抱いて、もう一度、くちづけの儀式を繰り返した。

 それからの彼は、もはや無口な彫像そのものだった。そのくちづけで受けた妻の最後の息を、ほんの少しでも逃さぬように、ミマスはできるかぎり息を止めていたのだ。自分の肺を、妻の呼気で満たしておくために。

 あたしには、いや、あたしたちはもう、はっきりと伝わっていた。

 彼はもう、妻の魂とともに、命を手放した。

 だから、あたしにももう、迷いはなかった。

「では」

 かけた言葉はそれだけだった。

 いや、言い終わるよりも早く、あたしは剣を握りしめ、あの強敵へと駆け寄っていた。

「アテナねえさま、御見事」

 パン、パン、パン。と、弟が三度強く手を叩いて、あたしを正気へと引き戻してくれた。

 あたしは無意識に、あのときを再現していた。ミマスの首をただ刎ねるのではなくて、一騎打ちの時と同じに、顎から頭頂までを、真下から突き上げて破壊していた。あのときには、あたしの黄金の剣でもびくともしなかったミマスが、四肢のない体ごとぐらりと大きく揺れて、そのまま台座から転がり落ちた。

 その顔のすぐそばに、アレスはロナケイアの首を、寄り添わせるように置いてから、二人の瞼を縫ってある糸を切って、その目を閉じさせた。

 それから、前庭の花壇から赤い百合をありったけ抜いてきて、二人の間に撒き散らして手向けた。

 とても美しい長めだった。

 美しいティタンの戦士が、愛する姫君と寄り添いながら、静かに夜の帳の下で眠っている。

 アレスがいてくれて本当によかった。こんな愁嘆場さえ、あたしの可愛い弟は、数輪の花で最高の場面へと変えてくれるのだから。

「ありがと、アレス」

「ちょっと。お礼なんてやめてよね、ねえさま。ぼくはただ、大好きな愁嘆場の見物にきただけ。実にいい悲劇の一幕だったよ、感動的だったね」

 実際、弟はこの凄惨極まるはずの場面を、どこか郷愁を誘いすらする、美しいものに変えてくれた。

 だがあたしには、まだ解けない謎がある。

「でも、あのときは、ミマスは死ななかった。ロナケイアだって、首だけになったって生きながらえるはずよ。ティタンだもの、生粋の。指一本からだって生き延びられるわ、見せ物の恥ずかしめなど、ミマスもロナケイアも、なんとも思ってなかったじゃない。そうやって逆襲を待つこともできた。すると思ってた」

 彼ら正真正銘のティタンの純血種なら、いくらでも蘇れる。切り落とされた性器から、己の遺志を継ぐ女神を作り出すことすら可能だった連中だ。ミマスならば、いや、彼が生きることを選んでくれていたら。こんな結末を見ずに済んだはずなのに。

「なのに、どうして彼らは死んだの? あんた、理由を知ってるわね、白状しなさい、アレス」

「簡単なことだよ」

 弟はいつもの……、いや、心をひらいている相手にしか見せない、物悲しげな少年のような微笑を浮かべて、そのときのことを思い出すように、視線を傾けた。

「ヘパイストスが、彼らをこのちゃちな台座に据える時、ミマスとロナケイアの頼みを聞いたんだ。ふたりの魂の芯、あのティタンがティタンたる根拠である『きらめき』の破片を、ヘパイストスはあらかじめ心臓から取り出しておいたんだ。そしてそれを、アフロディーテが星にした。さすがにゼウスみたいに、功労者を天に上げて星座になんてできないけれどね、海の中の、本当に深い、深い……ポセイドン様でも手の届かない場所で輝くように、その破片は沈んでいった。アフロディーテの父上が、彼女を作り出した時のように」

「あんた、それを見てたの? どうして見てて、あたしに教えなかったの!」

「盗み見しただけだから、ねえさまを呼ぶ暇がなかったんだよ」

 あたしの怒りに満ちた声に、弟はまた、悲しげに笑った。

「アフロディーテとヘパイストスは、夫婦だけの秘密だと思ってる。きらきらする光が海の奥底の闇の中まで消えていくのを、ふたりは優しい目で見ていたよ。ぼくごときが、邪魔しちゃいけない」

 いや、それは悲しみではない。どうしようもない寂しさの滲む中に、遠い日の後悔の混じりあった、痛々しい微笑みだった。

「これまで、さんざん邪魔をしてきたんだ。アフロディーテとヘパイストスが、れっきとした夫婦で行う初めての儀式くらい、口出ししたくなかったんだ。許してよ」

「こっちこそ……ごめん」

 それだけ口にするのがやっとなほど、あたしはどれだけ自分が傲慢だったかを思い知らされていた。

 アレスは愛と美の女神アフロディーテの、ただの愛人の一人に過ぎない。なのに、そのアフロディーテのことを、あたしは弟の妻のように感じていた。

 何人も子供を設け、同じ神殿で仲睦まじく暮らし、互いに労りあうふたりに、あたしは自分の育ての両親を重ねていたのかもしれない。

 でも、それは……正式な結婚ではなかった。アフロディーテには既にヘパイストスという夫がおり、彼の寛大さと優しさ、何よりただひたすら妻の幸福を願う気持ちから生まれた家族だということを、あたしはすっかり忘れていた。

 あたしはヘパイストスのことは信頼しきっていたが、それは素晴らしい職人として、すなわち、あらゆる技術者たちの神としての彼への尊敬でしかなかった。あたしはいつもヘパイストスのことを、あたしやアレスに味方してくれる優秀な発明家としてしか認識していなかった。

 思い返してみれば、あたしは彼を、心の中で侮っていたのかもしれない。あたしのことを、ゼウスがたったひとりで産んだと勘違いしたヘーラーが、ひとりきりで産んだ子供がヘパイストスだ。その結果が、あの醜い姿で……それゆえに彼は捨てられた。

 あたしとは違う。あたしはメティスとゼウスの間に生まれた戦の女神、ヘパイストスはクソババアが一人で作った出来損ない。

 そんな思い上がりが、あたしになかったとは断言できない。そして、ヘパイストスがそれを察しないほど馬鹿な男ではないと、あたしは知っている。

「夫婦水入らずの初仕事が、あんなことになって、悲しかったよ」

 ああ。だからアレスは、ここに来たのだ。

 愛するアフロディーテがなさんとしたことを完成させるために。

 ミマスとロナケイアのきらめきの破片が、どこかの海の底にもあるとかいう、アポロンの光さえも届かぬ深い深い谷へとたどり着いて、そこで永遠に寄り添っていられるようにと。

「手間を取らせたわね、アレス」

 あたしはせいいっぱい考えて思いついた台詞を言ってから、横たわっているふたつの巨大なティタンの死体に視線を移した。

 これで終わりではない。そんなことくらい、弟にもよく分かっているはずだ。

 一度始めると決めた仕事は最後までやれ、というのが、あたしたちの本当のとうさま、アロセウスの教えだったから。

「アレス、この二人をアクロポリスの丘の上まで運んで」

「え?」

 きょとんとした顔で振り返った弟に、あたしは冷淡とも思える口ぶりで命じた。

「あのクソジジイとクソババアに気付かれないうちにさっさと埋めてきて。あんたの馬を使いなさい、そうすりゃできるでしょ」

「悪いけど、ぼくの馬に荷台なんてつけさせない。馬車馬じゃないんだよ、軍馬だ」

「じゃあどうすんのよ、あんたが担いで運ぶつもり? それ、夜明けまでにはまず終わらないわよ」

 死体の後始末を弟に押し付けているというのに、あたしは反論を許さなかったし、同時にアレスもまた、自分の愛馬への気遣いについては、譲るつもりはないようだった。

 そういうところは子供のころから頑固だった、珍しいまだら模様の可愛い子羊が生まれたのを、アロセウスとうさまが高く売るつもりで小さな特別の囲いを作ったのに、この子ときたら、その囲いを古くなったオリーブ油で燃やして、羊を連れて森に逃げ込んだのを思い出した。

 結局すぐに弟ごと子羊は見つかって、取引の場でとうさまは恥をかかずに済んだのだけれど、思えばあのころからアレスは薄々、自分が純粋な人間ではないこと、獣や虫や鳥、川のせせらぎにまで意味を見いだせる存在なのだと気付いていたのかもしれなかった。

 そんな彼が、思案顔をやおら明るくして、とんでもないことを口走りはじめた。

「じゃあ、こっそりケルベロスを借りるよ。あいつ、夜中の散歩が好きだし、ぼくが犬ぞりの練習だって言えばこのくらいの荷物は運ぶさ。あいつ、穴掘りも大好きだから、大きい穴なら喜んで掘るよ。それは請け負う」

「任せたわ」

 それだけしか言わなかったけれど、あたしは内心舌を巻いていた。弟は、どれほど冥府の王ハデス様に近づいてるのだろう? たまたま動物の扱いの巧いアレスがケルベロスを懐かせたのならいい。しかし、散歩の好みまで知っているとなると、いささか深入りのしすぎのような気もする。

 だが、いまはそのことについてはひとまず置こう。

 アレスが彼らの墓所の意味について、明らかに不審そうな顔をしているから、こちらから片付けなくては。

「だけどどうしてアクロポリス? ねえさまはあの激戦地のど真ん中に慰霊碑でもこしらえるつもり?」

「これで、アッティカはあたしの領土よ。このふたりの上に、あたしはあたしの神殿を作らせる」

 あたしの答えに、弟は少し驚いた様子だった。

「立派なお墓だね」

「いいえ。戒めよ」

 弟の困惑にも、あたしは既に答えを決めていた。

「わたしも彼らと同じだと言う、自分への戒め」

 あたしも気付いていた。

 あたし自身、本当の父ゼウスと、育ての父アロセウスの影響を受けている。ずっと、アロセウスだけをとうさまだと思っていたつもりだったけれど、あたしは本当は、やっぱりゼウスに似ている。無慈悲で傲慢で……他者の心など推し量るつもりのない、自分のこと以外はどうでもいい、思いやりのない女神様。

 それを忘れないために、アクロポリスから見下ろすのだ。自分のために戦い、そして自分のせいで死んだものたちの最後の姿を、あたしはその土地の上に、永遠に見るだろう。

「そんな必要はないと思うけどね。アテナねえさまは、あくまでアテナねえさまだから」

 だったら、あたしらしさって何なのよ。

 つい口から出そうになった言葉を、あたしはなんとか飲み下して、弟に向かって作り笑いを浮かべた。

「ありがと、アレス」

 すると。

「そういうところがねえさまらしいんだよ」

 弟はいつもの、寂しげな少年のような顔をして微笑み、それから黒いマントを翻して、風のように闇の底へと消えた。

 冥府の犬を連れに……あたしの後始末をするために。

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