第22話 パラス・アテナ

「お呼びですか、ゼウス様」

 翌朝、一番にあたしに呼び出しがかかった。ほぼ夜明けと同時にクレスの一匹がやってきたが、あたしは寝坊だからといって追い返させ、午後になってようやく参内した。

 当然だが、ゼウスは怒り狂っていた。やはり先日同様、普段の耄碌ジジイの姿はなく、矍鑠とした姿で玉座から立ち上がり、重々しい声であたしを糾弾しはじめた。

「なんのつもりじゃ、アテナ」

「あら、お父上様は何をお怒りなのです? ……あ、本日の寝坊のことはお許しを請いますわ、昨夜はうっかり、朝までアポロンのところで、生まれたばかりの太陽の鳩の雛を見せてもらっていたものですから」

 と、わざと大袈裟に頭を下げて、額の前で両手を組んだ。

 実際、それはほぼ事実だ。

「アポロンとアテナが、朝まで黄金の鳥小屋で一緒だったか」と問われれば、アポロンのみならず神殿のものは全員「はい、その通りです」と証言するだろう。アポロンの妹も、それからアポロンの仲のいい友であるヘルメスも途中から合流して、あたしたちは可愛い鳩やら兎やらを見ながら、葡萄酒を浴びるように飲んだ。

 あたしは万が一の返り血も死の香りも恐れて、新しく運び込まれたワイン壷に飛び込んではしゃいで見せたものだ。

 しかし、ゼウスは眉の奥の目で鋭くこちらを見つめながら叫ぶ。

「ミマスとその連れ合いをどこに隠した! お前が逃がしたことくらいお見通しじゃ!」

 まあ、そう来るだろうと予測してはいたから、あたしはわざとらしく肩をすくめて、空とぼけてみせた。

「それは心外ですわ、あたくし身に覚えのないことで責められたくありません。あたくしてっきり、ミマスとロナケイアは、お見苦しいからお父上様が……いえ、失礼しました、ゼウス様がお片付けになられたものだとばかり思っておりました」

「まことか?」

「はい。お疑いなら、アポロンにお訊ねください、あたくし、彼から鳩を一羽もらえることになりましたのよ。太陽の鳩って、本当にかわいくて美しかったですわ。金と銀と白の羽毛の伝書鳩、その飛んだ軌跡には虹がかかるなんて、そんな素晴らしいペットは初めてですもの」

 楽しげに脱線してみせても、ゼウスは乗ってこなかった。

 いま彼の瞳が発しているのは、いつもの、ぼんやりと遠くを見ているような濁りと淀みではなく、洞察力と高い英知に裏付けられた策略を感じさせる、まさに雷光のようにほとばしる輝きだ。

 純粋な威厳とでもいうべきものが、実体を得てこの世に権限しているのを、目の当たりにしたあたしは、正直のところ衝撃を受けた。

 それでもあたしは、いま現在の畏怖よりも将来のことを考えられる程度には、このオリュンポス神殿流の駆け引きに慣れはじめていた。

 ここでのルールは極めて単純だ。

 脅えた顔を見せた方が負け。

 だからこそあたしは、いかにも嬉しそうに鳥の雛やらウサギやら子犬やらの話を続けてから、不意に思い出したようなふりをした。

「ああ、そうだわ。それじゃあ……きっと新しい冥府の犬の係がしくじったのよ。ケルベロスを散歩させていた時にでも、あのバカ犬が目の前の肉をうっかり食べてしまったのですわ。新しく傘下に入ったヘカントケイルやキュクロプスをもうちょっと訓練なさるように、お父上様からハデス様に申し上げた方がよろしいかと存じますわ」

 しれっとした顔で言ってやったつもりだったが、ケルベロスの名を出したのはいささか失言だったらしい。

 垂れ下がった灰色の眉の向こうから投げかけられるゼウスの視線は、もはや全てを察しているようだった。その口ぶりも、感情に任せたただの大声ではない。

「なるほど、アレスにやらせたのか」

「そんな。あたしが可愛い弟に、そんな真似なんてさせるとお思い? ましてや、きゃつめらどもはオリュンポスの、いえ、あたしたちの父上であらせられるゼウス様の敵です。あたしと弟が命を賭けて死闘をつくした相手ですわ。弟は、あの二人をその場で処刑し、首と心臓を持ち帰る方がいいと言っていたんですよ。ゼウス様、あたしたちはこの件に何のかかわりもございません。お誓いしますわ」

「いいや、昨日からアレスを見かけぬ。挨拶にも来ぬ」

「弟の居場所なら、アフロディーテにお聞きになったら? 戦でしばらく離れていたから、今頃は家族で……いえ、二人水入らずで仲良く過ごしてるんでしょう。この調子なら、五人目も生まれるかもしれませんわね。楽しみだわ」

 できるだけ明るく振る舞ったあたしの態度と言葉には、ゼウスを納得させるほどの説得力はなかった。

 否、むしろ、あたしたち姉弟の結束を知っているゼウスにとっては、この弁明は逆効果でしかなかったかもしれない。

「わしを侮るのも大概にせよ、アテナ! 思い上がるな、この愚か者が!」

 そう叫びながら、ゼウスは手にした雷の杖を床に鋭く打ち付けた。迷うことなく。

 雷の錫杖の先端に飾られた巨大な金剛石から、杖から床へ、それからあたしへと、『神の雷』が激しい光とともに襲いかかる。

 その凄まじい速度から身をかわすために、あたしは真上へ、謁見の間の天井を目指して跳んだ。

 大理石で作られた天井には、ちゃんと保険がかけてある。

 アラクネねえさまの糸だ。

 たった数本の蜘蛛の糸が寄り合わせられただけの命綱だが、あたしの体重を支えるにはじゅうぶんだった。あたしは左手でその糸をつかみ、片手だけで自分の体を引き上げた。そのとき、ゼウスにはきっと、あたしが宙に浮き上がったように見えたことだろう。

 彼の放った雷は、行き場を失い、あたしの影のあたりでパチパチと派手な音を立ててから、しょんぼりと消えていった。

 そして。

「愚かなお父上。愚かなゼウス様」

 あたしにもついに、本物の覚悟が定まった。

 この男は、実の娘であるあたしにすら、自らの最大の武器を容赦なく使ったのだ。彼が神々の王となり、この大地の派遣を握ってから、神の雷から逃げ果せたものは、あたしの知るかぎり、あの偉大なるヘラクレスだけだ。

 そちらが本気なら、こっちもそうしよう。

 いや。あたしはずっとこの時を待っていた。待ち続けながら、畏れていた。だが、彼に迷いがないのなら、あたしが迷う必要もない。

 あたしが音もなく謁見の間の床へと降り立ったとき、きっとあたしの顔には、育ての両親からよく言われた、「おてんばな悪戯っ子」のふてぶてしい笑顔が浮かんでいたに違いない。

「ゼウス様。あんたの一番の失敗はね、あたしの両親……アロセウスとうさまとルアルエかあさま、ふたりの顔に泥を塗ったことよ。泥どころか、牛の糞を撫で付けてくれたわよね」

「ルアルエ? はて。誰じゃ」

「あたしの母、いえ、養母の名前なんて、とっくにお忘れでしょうね。ルアルエはあたしの乳母として、あたしを育ててくれたひとよ。そして、あんたがアレスを孕ませた女」

 そこまで告げても、ゼウスはただ怪訝そうな顔をするばかりだった。

「だからもう一度だけ教えてあげるわ。あたしのかあさまはルアルエ。元剣闘士であんたの衛兵隊長だったアロセウスの妻、アラクネとアレスの母よ。惚けたふりをしても無駄。本当に惚けたのなら、あたしがあんたの胸に、両親の名を刻んでやる。あんたがくれたこの剣でね」

 きっと、ゼウスはとぼけているのではなくて、本当に忘れているのだろう。いや、かあさまの名前すら知らなかったかもしれない。犯した女や少年など、それこそ星の数ほどいるはずだから。

 しかし、その結果としてアレスが生まれたことは、彼は知っているはずだ。

 だからこそ、あたしと一緒に弟を両親から奪い去り、ここへ連れてきたのだから。

「あんたにしてみれば、田舎の中年女の肉置きをつまんでみたくなっただけでしょう。それでアレスができちゃうなんて、そのときのあんたは思いもしなかったはずよ。メティスの預言なんて、すっかり忘れていたのよ、目先の欲望に目がくらんで。さぞやいい気分だったでしょうね、自分の娘を育てている女をおもちゃにするのは」

 わき上がる情欲を抑えきれずに、ゼウスは最も卑怯な手段で母をものにした。夫であるアロセウスとうさまの姿に成りすまして、コイツはいけしゃあしゃあと母を抱いた。

 だが、大きな間違いだ。それをこれから教えてやる。

「あたしの母、メティスはあんたに言ったはずよ。あんたの子供が、あんたを殺すって」

 そのとき、あたしは嗤っていた。勝利の笑みではない。目の前の、神の王が無様に床に突っ伏すのを見て、おかしくてたまらなかったのだ。

「あんたのふたりめの子供があんたを殺すという預言を信じて、あんたはメティスを食った。だからあたしが、あんたの頭から生まれる羽目になったのにね」

 その一番肝心なところを、ちょっとした興味と肉欲に負けてこの男は忘れた。

 ざまあみろってやつだ。

 玉座の前に這いつくばりながら、何度も杖を頼りにして立ち上がろうとしている老人に、あたしは手を貸すつもりはなかった。ついでに、その玉座が以前と同じく山羊革張りで、ミマスたちの背中の皮膚でないことにも満足していた。

 よかった。

 ヘーラーの命令なんて、ヘパイストスが聞くわけがないけれど、それでもほっとした。


 長い静寂の後、ゼウスはよろよろと立ち上がってから、それでもなお、神々の王としての威厳を示さんとした。

「アレスを……アレスを殺せ。アテナ、命令じゃ」

「ごめんなさい、ゼウスお父様、それは無理なの」

 あたしはまたわざとらしく、親しげな口調と笑顔を作って答えた。

「ゼウスお父様も、うちの弟が、アフロディーテと愛し合ってるのはご存じでしょう? 彼女が、あなたのお父様に敗れたウラノスの娘だということも」

 と、口にしてから、あたしはさらに猿芝居を続けた。

「いえ、娘というのは正確ではないのでしたわね。そうよ。あんたの親父クロノスがウラノスに最高の屈辱を与えるために、切り落として海に捨てたのは何でしたっけ? 品のいい言い方だとどうしたらいいのかしら、男の象徴?」

 ガイアにそそのかされたクロノスが、実父であるウラノスの横暴への復讐として、血のつながった父であるウラノスの性器を切り落として海に捨てたというのは、この「神々が治める人間の国」においては、知らぬ者はいない事実だ。それはもはや伝説となり、親から子へと語り継がれていく物語になっている。

「でもね。その、捨てたウラノスの性器からこぼれた精液が、海水の中で怨嗟の塊となって彼女を作ったの。そういう意味では、アフロディーテは、ウラノスそのものだと言ってもいいわ」

 それがアフロディーテ、美と愛の女神の美しさの本質なのだ。彼女はウラノスが抱いていた全ての負の感情、すなわち憎悪と敵意と嫉妬、そして絶望から生み出された。

 だからこそ、あんなにも美しいのだ。

 本来死ねぬはずのものが、己の魂を手放す瞬間がどれほどの輝きを放つか、あたしはそれを目の当たりにしたばかりだったから。

「その彼女が、あたしの弟に呪いをかけてくれたの。とても素敵な呪いを」

 あたしは何もかも、正直に話した。事実の方が、ゼウスには理解しやすかっただろう。それは思想や思考ではなく、純粋に体で感じるものだったから。

「ええ、そうよ。ミマスとロナケイアを死なせたのはあたし。二人の心臓から、不死の神の核、あの『かがやき』を取り出して、彼らが永遠に海の底で静かによりそっていられるようにしたのはアフロディーテ。それを手伝ったのはヘパイストスよ。そして、全てを見届けたアレスは、あたしに言ったわ」

 あたしは目を閉じ、ほんの、半日前のことを思い出そうとする。できるだけ正確に。

 けれどもできない。あまりにもつらすぎて。

 アフロディーテとヘパイストスが仲睦まじやかに、白い珊瑚礁の砂浜から、宵の明星の方へと向けて、小さなふたつの『かがやき』を打ち寄せる波頭に乗せ、西風と海に託した時。

 この正式な夫婦は、くつろいだ様子で微笑みあい、そして波間の光へと溶けて消え果てていくティタンの魂の破片を見送って泣いたのだそうだ。砂浜に膝をついて子供のように抱き合いながら、声をあげて泣き、それから打ち寄せられたもののなかから、乾いたヒトデの死骸を見つけたヘパイストスは、それを妻に贈ったのだという。

 その一部始終、その、あまりに美しい夕闇の中の、神々の別れの儀式を、葡萄の木の陰から弟は見ていた。

 アレスは理解してしまったのだ。あえて言うならば、この世の全てを。


 そしてアレスは、可愛いあたしの弟は、あたしは想像すらしていなかった、同時に弟にとっては長年の悩みの一つだったらしい事柄を、ようやくあたしたちに打ち明けてくれた。

「ねえ、アテナねえさま」

「何よ、辛気臭い顔して。みんなまあまあ、うまくやったじゃないの。心配ないわ」

 あたしの言葉に、弟はそれがまるで慶事のような、あたたかな微笑を薄べた。

 そして、ついに。

「もともと人間だったアラクネねえさまを女神にすることができたんだ。だったら、アテナねえさま。ぼくをただの人間に戻すこともできるよね?」

 と、訊いた。

 彼の念願は、天に星座として祀られることでも、自分の都市と神殿をもち、自らの信者に崇められる御柱の神のひとりとなることでもなかった。

 つらいというより、呪わしいほどの出生の秘密を抱えて、人の世に育って。

 でも、それが弟には……たぶん当然のことだった。いや、彼にはそれしかなかったのだ。

 もちろんアフロディーテは反対した。

「いやです、あなたを失うのはわたしも死ぬ時と、そう決めております。あのティタンの夫婦のように、潔く。わたくしが心から愛しているのはあなただけですもの」

 しかし、アレスには覆しようのない負い目があった。愛する女性のために、いや、愛の女神として目覚めたアフロディーテに、不幸にも恋してしまった少年を、猪を使って、狩人のやり方で暗殺した。人間のやり方で。

「本当は、あなたはただ、あの子がかわいそうだったんだろう。初めてぼくを見つけてくれた時のように、孤独で、さびしくて、世界のどこにも居場所がないって思っている少年に、そんなことはない、わたしがここにいると言ってあげたかった、ただそれだけだと、いまは分かっている」

「あなた」

「でも、ぼくはそれすら許せなかった。あなたに優しい言葉をかけられた時のあの子供の目が、恋の光に輝くのを見て、嫉妬に駆られた。まるで、昔の自分を見ているようだったから。きっとあの子は、あなたを愛する。真実、愛の女神となったあなたは、ひとりの女としてではなく、女神アフロディーテとして彼に愛を分け与えるだろう。それを一生の思い出として、彼は立派に生きていくはずだった。でも、そんなことは許せなかった……ずっと、ぼくひとりのあなたでいてほしかった。だから彼の未来を奪った」

 嫉妬や怒りは、戦の高揚に似ている。

 アレスは、皮肉にもヘーラーが名付けたとおり、『雷よりも速きもの』だった。

 そういう銘の、一振りの剣。

 美しい暴虐の神という、神々のための武器として、彼はオリュンポスに迎えられたのだ。

 戦っている時のアレスはいつでも美しかった。残酷であればあるほど、味方はその姿に酔いしれ、憧れ、さらなる狂乱を呼び覚まされた。

 でも、なんて悲しいことだろう。

 武器は、人の命を奪って初めて芸術品となる。

 おそらくアレスがほんものの軍神になりえたのは、その罪もない少年を無惨に殺した時だ。

「もう、あの子に償うことはできない。でも、あの子と同じ立場になることならできる」

 そう微笑んだ弟の横顔は、あたしにはとても悲痛で、それが余計に美しく、いとおしく見えた。

「ぼくは、ただの人に戻り、遠くからアフロディーテのことを、愛の女神として崇めるだけでいい、アフロディーテはヘパイストス様の妻として尽くすだけでなく、ぼくみたいに孤独で、ただ誰かに抱きしめてほしいだけの子供たちや若者たちを慰めてやってほしい。エロスの母となったアフロディーテは、これからは魂だけでなく、心と肉体の愛を繋ぐ女神になるはずだから、ぼくは邪魔なだけだ」

「いや」

 アフロディーテは震える声を必死に絞り出した。

 そして、まるで彼女の方が聞き分けのない子供のように、床にうずくまり、アレスの足首に両腕を回して呟く。

「絶対にいや」

 彼女は泣くまいと堪えているようだったが、無駄な努力だった。その目からは大粒の涙があふれ、虹色の真珠となってこぼれ落ちては、木の床板の上でパラパラと空しい音を立てた。

「ごめんよ、愛しい人」

 アレスは彼女の手を取り、アフロディーテの傍らに、きっといつもそうしてきたのだろう、ごく自然な仕草で彼女と視線が合うところまで身を屈めて、優しく肩を抱いた。

「でも、容易いことなんだ。ぼくがただ人間に戻るだけでいい。あなたに出会う前のぼくに。そうすれば、あなたはもう自由だ。水晶の鎖も蜘蛛の糸も、あなたを縛ることはない」

 悲痛な決意の言葉に、アフロディーテも必死な眼差しを向けた。

「確かに、胸を打たれる若者もいました。少しでも助けになりたいと思った少年もいたわ。でも、それはみんな、あなたに似ていたからよ」

 そして、ついに。彼女は真実を告げる。

「本当のことを言うと、わたしはいつも嫉妬していたの」

「誰に?」

「あなたのおねえさま。アテナ様に」

「あたし?」

 アフロディーテの……この世の美そのものである女神の言葉に、あたしは戸惑った。あたしが彼女に勝っていることなんて、腕力くらいだ。アフロディーテのたおやかさ、情の深さ、繊細さ、それからいかにも女性らしい容貌。内面のみならず外見も、むしろあたしの方が嫉妬すべきものだった。

 しかし、彼女が言いたいのはそんなことではなかった。

「あなたとおねえさまの世界には、わたしには絶対に入れない小部屋があって、そこでだけあなたは本心を語っているように感じていたの。特別な、ふたりきりの部屋よ。わたしはその外から、分厚い窓越しにあなたの本当の素顔を見ているだけなんだって。辛くて、苦しくて、でも誰にも言えなかった。外では、幸せな女のふりをしていました」

 そんな……アフロディーテの気持ちなど知らなかった。いや、恋したことなどないあたしには、永遠に理解できない感情なのかもしれない。あたしはただ、アレスが彼女といる時はほんとに幸せそうだから、それでいいと思っていた。

 恋に身も心も捧げた女にとっては、恋人が心を許す相手は全てが敵なのだ。それが何者であろうと、たとえ姉であっても。

「あなたが誰より愛していたのはわたしじゃない。おねえさまよ」

 

「それでもいいわ、あなたはわたくしのもの」

「でも、あなたはぼくのものじゃない。ヘパイストスの妻だ」


「分かってくれ、アフロディーテ。ぼくは、ヘパイストスみたいに強くも、心が広くもない。あなたが少しでも心を惹かれる相手がいたら、ぼくはまたそいつを殺して、それからまたずっと後悔するだろう。子供たちの養育は任せる。父はもう、この世での戦を終えたから、新たな戦場を求めて天界に行ったと言ってくれ。母とヘパイストス殿をよく守り立て、アテナのために全てを捧げよと」

「いやです」

「出会った時に、あなたは言ったよね。ぼくはならず者、あなたは娼婦だって。本当にそれだけなら、もしかしたらぼくはしあわせに、ミマスの剣の下に死ねていたかもしれないね」

 アレスはすがりついてくるアフロディーテを抱きしめ、その髪に顔を埋めながら、一筋の涙を流した。

 それは、『軍神』の思いのすべてが詰まった一滴だった。

 すなわち、彼の……神の血を引くものが心に秘めている神聖な核、オリュンポスのものたちが『かがやき』と呼ぶものだった。

 真っ赤な血の色をした、一個の宝石として、それはアフロディーテの胸の谷間へと落ちた。

「せめてもの思い出にしては、よく似合ってるよ、愛しいひと」

 それはまるで首飾りのように、彼女の肌の上で輝いていた。アレスの鼓動と同じ速度で脈打ちながら。

 とても美しかったわ。それを両手で自分の胸に押し当てたアフロディーテの姿も、もう一度彼女を抱きしめたアレスの姿も。誰かを星座にできるだけの力があったなら、あたしは迷わずその瞬間の二人を天に上げただろう。『恋人座』とかなんとか、適当な名前をつけて。

 でももちろん、あたしにはゼウスのような力はない。そして同時に、アレスの言い分をそのまま実行したらどうなるかも分かっていた。

「あなたは軍神として、神としてご活躍なさってこられました。そんな方が、もとの人間に戻ったらどうなるでしょう? 身も心も耐えきれずに、壊れてしまうわ」

 アフロディーテの言うとおりだ。

 ただの人間に戻った途端、彼の体は急激に老い、いままで神の力で癒されていた傷がその身を覆い、皮膚は裂け骨は砕けて、苦しみながら死ぬだろう。ヘラクレスがヒュドラの毒で死んだ時も、自らに火を放ったほどの苦痛だったとか。

 神の力を得るためには、それを手放す時に大きな付けを支払わされる。

 しかし。

 弟はそれも覚悟していた。

「だってこれからは、アテナのもたらす平和の時代だよ。軍神は……暴力のための神は、もう必要ないでしょ」

 アレスは、アフロディーテの足下に跪いて、礼拝の姿勢を取ったわ。弟のあんなまなざしを見るのは、あたしは初めてだった。本当に、いまにも泣き出しそうな少年のように、手の届かないところにある美しい花を見つけてしまった子供のように、綺麗で悲しい目だった。

 その姿を見ているのが辛くて、あたしはアポロンのところへ逃げ込み、馬鹿騒ぎをして、太陽の馬車に乗せてもらって自分の部屋まで戻った。

 途中、はるか下界を見下ろすと、昇ってきた太陽の光ですべてがの影が長くのびはじめるまで、絵のように変わるまで、何一つとして動くものはなかった。

「人の子として死なせてくれ。それが弟の、ただひとつの望みだった。それが、あの晩に起きたことの全てよ」


 あたしがその夜のことを話し終えると、ゼウスの顔に輝きが戻った。

「では、ならば、アレスは……」

 もう自分を脅かすものはいない。たったそれだけの希望で、神の神、神々の王がこんな表情をするのか。

 やっぱりあたしはひとを見る目がないようだ。一瞬でも、このジジイが耄碌なんかしてないと思ったのは、とんだ勘違いだったらしい。

「ざーんねーん。ちょっと期待しちゃったでしょ? でも、アフロディーテがそんなこと許すわけないじゃない」

 あたしはとうとう、本性を出した。

 相手だって命に縋り付く無様な老人の素顔をさらけ出したのだから、あたしが意地悪な悪戯娘の根性悪なところを見せてやったっていいだろう。

「彼女は、いかにもティタンらしいやり方で、弟に有無を言わさずに手元に留めたの。止める暇もなかった。アレスの流した血の涙、『かがやき』の宝石を、彼女は飲み込んだのよ。あんたがメティスを、ガイアが我が子たちをそうしてきたようにね。そして、アレスの『かがやき』を、彼女は自分の心臓の中に隠してしまった」

 あの瞬間のアフロディーテは、本当に幸福そうで、神々しかった。心臓を宝石で刺貫く苦痛より、愛するものの魂を自分の内側に迎え入れる快楽に恍惚としてすらいた。女の体が男を受け入れるのは当たり前のことかもしれないけれど、神性のかたまりを魂ごと所有なんて、愛の女神にしか味わえない、素晴らしい体験だろう。

「痛かっただろうってアレスが訊いたら、彼女なんて言ったと思う? 四人も子供を産んだのよ、なんてことないわって笑ったの」

 そのときゼウスは一瞬、複雑な表情を見せた。

 きっとそのとき彼は、あたしを産んだ時のことを思い出したのだろう。頭が痛い、誰かこの瘤を切り落としてくれと喚いて、アロセウスが彼の側頭部を切り開き、あたしを取り出した時のことを。

 ずっと忘れていた、すべての元凶を。

「だからもう、アフロディーテが死ぬ時まで、アレスは首を刎ねられようが性器を切り落とされようが、肉の一片になるまで切り刻まれても死なない。必ず蘇って、彼女の傍に戻る。彼女を生み出したウラノス、全盛期のティタンがそうであったように」

 恐ろしい運命、なんて素敵な呪い。

 あたしは心からウラノスに感謝する。あなたの怨嗟が、こんなにも素晴らしい贈り物をあたしたちにくれた。

「そして、あの美しい海が枯れるまで、アフロディーテは死ぬことはないわ。ウラノスはティタンの中のティタン、その肉も何もかも、腐ることも滅ぶこともない。彼女を作り上げた精液はほんの一部で、捨てられた性器の残りはすべての海へと散らばった。だから海はウラノスの力を蓄えている巨大な倉庫、無限の力を生み出すことのできる最高の宝物よ。兄弟での陣取り合戦の時、あの気の強いポセイドン様がどうしてアッサリ陸を諦めたか、これで分かったでしょ? そのころから、あんたやっぱりちょっとアタマ悪かったのね……ああそうか、メティスを食べる前だったんでしたっけ、お父様?」

 あたしにここまで言われても、ゼウスはもはや何も言い返そうとはしなかった。

 知恵の女神を内在していても、この程度の器の男だ。

 どうしてあたしは、あたしたちは、こんな男を恐れていたのだろう。

「アフロディーテのために、弟は永遠の命を受け入れたわ。そのかわり、永遠の苦しみも嫉妬もね」

 うちの弟の方が、こんなクソジジイよりずっといい男だ。アロセウスとうさまの方が、ずっと男らしい男だった。アフロディーテがアレスを、ルアルエかあさまがアロセウスを愛した理由が、なんとなく分かる。

「まあ、そんなやりとりが……うちの弟の好きな言い方だと、愁嘆場ってヤツがあったってわけ」

 あたしはそういうの嫌いだったけど、あれはそう悪い見物ではなかった。そのあと、アポロンのところへ行ってそんな話を聞かせたら、彼はゲラゲラ笑っていた。

「女ってやつは、好きな男のためなら何でもするもんさ」

 アポロンの妻ももとは人間で、彼のために人間をやめてしまったくらいだから、たいして驚くほどのことではなかったらしい。

 あたしはどういうわけか、その恋ってものに身をやつしたことがないから、アフロディーテの行動は衝撃的だったけれど、それを聞いて、何かがすとんと収まるところに収まったような気がしたものだ。

 何もかもがすっきりした。そういうことだったの、って。

 それに、弟が生きることを選んでくれたのは純粋に嬉しいと思っている。

 いくつになろうが、神様になろうが、アレスはあたしの可愛い弟だ。


「そしてあんたはやっぱりちょっと耄碌してるのよ。あんた自身が、あんたを殺せる力をアレスに与えてしまったんだもの。これって、流行言葉だとなんて言うんだっけ、アレスに聞いてくれば良かったわ。自業自得? お笑いぐさ?」

 あたしの冗談めかした言葉が、本当は脅しなのだということくらいは、耄碌ジジイにも通じたようだ。

 ゼウスは喉に何かが詰まったように息苦しげで、とっくに死者の仲間入りを果たしたような顔色をしていた。

「あ、アレスにわしを、殺させるというのか、お前は。お前は、アテナ、わしの……娘じゃろうに」

 確かに、あたしは雷神ゼウスと英知の女神メティスの間に生まれた子供だ。

 だが、あたし自身が、それだけであることを拒否する。事実と真実は違う。あたしの父は猟師のアルセロスで、母は機織り職人のルアルエだ。

 そして、可愛い弟と優しいねえさま。それがあたしの認めた、あたしの家族。

 だからこそ、その言葉を口にすることに、もう恐れも、ためらいも感じなかった。

「そう、殺させるわ。いつかね。気が向いたら」

 そう言い放ってやった時のゼウスの顔を、あたしは一生、いや、この先永遠に忘れることはないだろう。

「簡単に死ねない体っていうのは、本当に厄介なものね、ゼウス様。あんたはこれからずっと、あたしたちの影に脅えながら眠ることになるわ。いつ殺しにくるか、明日の朝は目覚められるのか、寝台に罠が隠されていないか、食事に毒が盛られていないか、ちょっとした炎の揺らめきでさえ暗殺者が入ってきたように感じるようになる。そのうち、壁の染みまでアレスやあたしの顔に見えてくるかもしれない。さぞや悪夢にうなされるでしょうね」

 ゼウスはそれでも、自らの杖にすがりながら、玉座へと戻ろうとした。それが、最後の自分の威厳のよりどころででもあるかのように。

 神々の王という座がそもそも虚飾だったと、すべては運命ではなく策略の故だったと、ついに彼は気付いたのだ。

「ガイアは、ウラノスを殺したクロノスを恐れていた。だから、孫であるあんたを……どこのどんな女よりも、メティスやヘーラーや、人間の女たちでは決して与えられない満足で、誘惑し操った。みんな知ってるわよ、あんたが自分の祖父と父、両方の妻だったガイアと、特別な関係だってことくらいはね」

 近親相姦はこの世の常だ。神々の純血を保つためには、姉弟や兄妹はもちろん、親子ですら契りを結び、新たに子をもうけた。それが……神の血を守るはずの配偶が、いつでも結局は、強敵となった子供世代による親殺しという悪循環を引き起こした。

「でも、よく考えてみた方がよろしくてよ? あたしたちから、ガイアはあんたを護るつもりがあるのかしら?」

 この大いなる大地そのものであるガイアは、海に溶け散ったウラノスや、この世の果ての平穏の園に暮らすクロノスとは違い、いつでもここにいる。あたしたちが踏みしめているのが、我らの大いなる母だ。その気になれば、数百の神々や怪物や妖精を飲み込み、再びその胎内に閉じ込めることができる。

 しかし、いまここにガイアの視線はなかった。眠ることなどない女神が、いまは我が孫であり愛人でもあるゼウスに対して、かすかな注意をすら払ってはいない。

 その事実に、ようやく彼も気付いたようだ。

「誰もあんたを護れない。メティスは預言と知恵の女神よ、その預言は絶対に覆らない」

 あたしに植え付けられたのは、愛する男に裏切られたメティスの嫉妬と憎悪だ。ゼウスの頭の中であたしを成長させたのも、知恵の女神ならではの巧妙な計略だった。あたしには、ゼウスが頭で考えていることが分かる。

 そういう意味では、あたしも実の母に利用されただけの、ただの手駒なのかもしれない。

 血統書付きのティタンは、自分の目的のためならば、どんな命でも道具としか見ていないということを、あたしはあの熟練の戦略家であるロナケイア、最後のティタンの片割れから学んだ。

「あんたは永遠に脅えながら生きさらばえ続ける。退屈なだけの毎日からやっと抜け出せたわね、おめでとう、お父様」

 そう言って微笑んでやると、神々の王であるはずの男が、まるでただの老人のように震えているのがはっきりと見えた。

「こ……この、罰当たりめが」

 そう吐き捨てるのが精一杯なのが、可笑しくてたまらなかった。神罰を与えることなど簡単なはずだろうに。神様のくせに。こんな小娘一人を相手に、何もできやしないだなんて。

「これがあたしの復讐よ。あたしの大事なアロセウスとうさまとルアルエかあさまを弄び、そして、あんたに……あんたなんかに、生きながら食われてもいいと思うほどあんたを愛していた、あたしの母メティスを裏切った、あんたへの復讐」

 彼は愛を利用した。各地の女神や女王、王妃や姫たちを我が物とすることで、自らの勢力を強め、ついには神々だけでなく人間たちの神となった。しかし、それは常に他の女への裏切りだ。

 ヘーラーがあんなにおぞましい嫉妬の女神になってしまったのも、すべてはこの男のせい。そして、この男を最初に愛の虜にし、その後も永遠に最愛の存在で居続けたガイアのせいだ。それを知っていながら、ガイアが自らを助けるつもりがないことを知って初めて、ゼウスは愛を武器としたことの報いを、我と我が身で感じたことだろう。

「おのれ……おのれ、アテナ……」

 喉の奥でごろごろと呪詛を呻きながら、ゼウスはその場に凍り付いたように動かなくなった。杖にすがっているとはいえ、まだ立っているのはさすがに立派なものだ。

 そうよ、立っていて頂戴。せめてその程度の傲慢さが残っていてくれなくては、これからの出し物が台無しになってしまうもの。

「さあ、ご覧になって、ゼウス様!」

 あたしが高らかに宣言すると同時に、玉座の置かれた壇上から下は、一瞬にして巨大な都市の街並へと変わった。

「アテナイ市ですわ」

 これがあたしの街だ。あたしの作った世界だ。

 あたしが立っていた床は、いまや純白の大理石でできた神殿のバルコニーへと変わっていた。ここからなら、町の様子がよく見える。

 同時に、このアテナイ市にすむもの全ての人々の目に、あたしたちの姿が写っている。

 彼ら彼女ら、すべて人の子らが、誇らしげに顔を輝かせ、高らかに謳う。

「パラス・アテナ! パラス・アテナ!」

「女神アテナに栄光あれ!」

「我らが女神、我らがアテナ様に永遠の信仰を捧げます!」

「パラス・アテナ!」

 あたしのちょうど足下のあたりには、ヘパイストスがあたしにそっくりに作ってくれた黄金と象牙の女神像が立っている。あたしがいないときでも、この像があたしの民の心の支えになるだろうと、造形の神は自信たっぷりに語ったものだ。

 あたしがこのオリュンポスに顕現させたのは、単なる幻ではない。いま、この玉座の間とアテナイの神殿は実際につながっている。

 空間を繋ぎあわせる門の作り方を教えてくれたのは、あたしの本当の母メティスだ。あたしがまだ母のおなかのなかにいたころ、つまりゼウスの胎内に閉じ込められていたころ、ゼウスが他の女とせっせと子づくりに励んでいる間、メティスはあたしにそれを感じさせないために、彼女の持つありとあらゆる知恵と知識をあたしに教えてくれていた。

 その全てを思い出したのは、奇妙なことに……あの純粋なティタンの末裔、ミマスの命を刈り取った瞬間だった。まるで、あたしに彼の持つ神性が流れ込んだかのよう。

 いや、違う。その激流が、あたしが自ら封じ込めていた女神としての『かがやき』の殻にひびを入れ、あたしはその輝きから逃れることはできなくなったのだ。

「パラス・アテナ!」

 その叫びは祈りそのものだ。かつてのあたしならば、その祈りの原因について考え、彼ら彼女らと共に悩んでいただろう。だが、いまはもう違う。

 あたしに祈ればいい。それだけで、お前たちの心は軽くなる。お前たちの悩みや苦しみは、あたしがすべて消してあげる。お前たちを苦しめるものと、あたしは戦い、そして勝つのだ。

 人々の心が手に取るように分かるというのは、いまのゼウスには残酷なことだっただろう。

「ここではもう、わしは、あるじたる神ではない……の、だな……」

 そう。ここでは、誰も彼のことなど見ていない。

 あたしの民だ。あたしを信じ、敬い、あたしに祈りを捧げる。アテナイはあたしのもの。もはやゼウスも、ガイアですらも力を及ぼすことがない世界を、小さいながらもあたしは勝ち得た。

 これから、もっともっと街は大きくなり、人は増え、アテナイはこのオリュンポスよりも強大な力を誇る都市となるだろう。あたしにはその自信があった。

 そして、ゼウスも同じことを確信したようだった。

「わしの負けじゃ、アテナ。そなたは見事に復讐を果たした」

 よろよろとバルコニーへと近づき、ゼウスは居並ぶ民衆の姿と、美しい街並を眺め降ろしてから、しわだらけの首を伸ばして、周囲の風景を……並んだ山々、青い森、光に満ちた空、彼が若き日、メティスに語った理想郷そのものの景色を見た。

 あたしが作りたかったのは、結局それなのだ。彼が作ろうとして作れなかったものを、あたしはただ作ってみたかっただけだ。

「だがこれも、うたかたのこと」

 ゼウスが預言のように呟くのを、あたしは聞き漏らさなかった。

「クロノスがウラノスを、わしがクロノスを滅ぼしたように、お前たちがギガンティスやティタンの末裔を殺したように。わしらへの信仰もやがては失われる。新しい神が現れて、また世界がひとつ終わり、新しい世界に生まれ変わるであろう。そのとき、ようやくわしは死ねるのかもしれぬな」

「ざーんねーん。あたしは、あんたたちと違って、ガイア様のお言いつけは聞かないの」

 彼の聞き取りにくい言葉は、しかし真実なのだと、あたしはやはりどこかで知っている。

 この栄光は、永遠には続かない。そもそも永遠なんて、どこにも存在しないのだ。未来どころか、明日、いや、ほんの一瞬先のことだって、あたしたちには分からない。

 それでも。

「いつか信仰は失われても、このおはなしは永遠に残るわ。あなたのおかげよ、ゼウスお父様。夜空の星と星とを蜘蛛の巣のように紡いで、星座となった英雄たちと神々のおはなしは、天に刻まれた神話になった。人は代わり、星はめぐっても、この大地と空があるかぎり、あたしたちは人間たちの心から消えてしまうことも、忘れ去られることもない」

 星の光は、蜘蛛の巣に囚われた蝶のように、空に縫い付けられたまま、ずっと瞬き続ける。

 あたしは、ゼウスによって天へと上げられ、星座となったものたちのことを思っていた。理不尽な扱いにも耐えた天才アスクレピオスのこと、勇敢で優しかった戦士オリオンのこと、ただ無垢で美しかったが為に連れ去られたガニュメデ、それから、かわいそうなエウリュディケとオルフェウスの竪琴のこと、白い羽を黒く塗られてしまった烏のこと。

 まだ起きていない未来の出来事まで、アテナは星を見て知ることができた。星と星とをつなぐ筋を、アラクネねえさまが長い脚を使って糸で繋いで、どの星の並びに、誰、あるいは何がどのようにして嵌め込まれるのかを、あらかじめ教えておいてくれたから。

 どれもが、素晴らしい物語だった。一度聞いたら忘れられない、誰かに教えてやりたくてたまらなくなる悲喜劇、心を揺さぶる力を持ったおはなしを、人は人へと伝えていく。ただの噂が五年で事実になり、十年でちょっとしたむかしばなしになり、百年先にはおとぎ話となる。ならば、やがてすべては伝説となり、千年、二千年の後には、揺るがぬ神話となるだろう。

「だからあたしは、このパルテノンを作ったのよ」

 この場に立てば、誰もが一瞬で理解する。かつてここに、あたしやアレスや、オリュンポスの神々を信じる民がいたことを。彼ら彼女らがどんなふうに生まれ、どのように生き、どうやって愛し、いかにして死んでいったのかを。

「この神殿は、世界の終わりまで残る。アテナの預言よ」

 時が経ち、あたしを信じるものたちも消え失せ、何度取り壊されようと、その時代に寄り添うようにしてこのパルテノンは蘇る。ガイアの長い手によってたとえ深い土の下に埋まることになっても、人々はこの神殿を求めて不毛な丘を掘るだろう。

 そのとき、この大理石の破片でも見つかったとしたら、またパルテノンは再建される。あたしを信じていないものたちによってであろうと、ここに存在することに意味があるのだ。

 神話、すなわち神々がもたらした無数の呪詛の証拠として、永遠に存在し続ける。

「ですからどうぞ、安心して長生きしてくださいませ、偉大なるゼウス様。あなたの息子にだけは、どうぞお気をつけて」

 あたしが悪意に満ちた笑みを向けても、ゼウスはただ呆然と、ただひとつの単語を繰り返すだけだった。

「パルテノン……パルテノン……」

 そう。その名は『すべての神の座所』を意味する。

 このオリュンポスは、もはや用済みだ。

「では偉大なるゼウス様、ごきげんよう」

 あたしが片手を振ると、今度は目の前から、ゼウスがいたはずの玉座の間が消えていた。

 あたしの目に映るのは、ただあたしのことを、熱狂と信頼と陶酔に満ちた表情で見つめる、数万という人間たちだけだ。

 いや……違う。

 その大群衆の中には、人間に姿をやつしたヘルメスやアポロンが混ざっていた。当たり前のように、アフロディーテがアレスの子供を抱いていた。ゼピュロスの姿はなかったが、あたしの髪が優しく西風になびくと、金色のかがやきが人々へと降り注いだ。

 ここにはもう、あたしを愛しているものしかいない。

 それで十分。

 そのはず、だったのに。

「これでよかったのかしら、アラクネねえさま」

 あたしは、姉に長け聞こえるように、ほんの小さな声で囁いた。

「どうしてかしら。勝った、って気がしないの」

 太い円柱の飾りの陰から、すーっと銀色の糸が下りてくる。その先には、小さな黒と赤につやめく、一匹の蜘蛛がいて。

「ああ、そうか。そうよね」

 その蜘蛛が器用に糸で巣を編み始めるのを見て、あたしはようやく笑えた。

「あたしは戦の女神だもの。復讐の女神じゃなかったわね」

 アラクネは糸でそう伝えてくれた。

「でも、やり遂げたわ」

 そうだ。アラクネの言うとおり。

 これは勝ち負けではない。成さねばならない運命だった。

 親殺しによって生まれ変わってきた血筋の、おそらくあたしたちは最後の世代になるだろう。だからこそ、やり遂げることに意味があった。

 終わったんだ。

 アレスが言ったとおり、これからは『アテナの平和』の時代がやってくる。それは同時に、『戦の女神』アテナの時代の終わりでもある。

 ギガントマキア、ティタノマキアと、戦い続けて、あたしたちは学んだの。

 人間たちは、もう彼らだけでやっていける。あたしたちが運命を動かすことは、ただ歯車の動きを変え、世界をゆがめてしまうだけだ。

 だから、あたしはもう何もしない。あたしはただ見守るだけ。

 ちょっとした知恵ならヘパイストスが、ちょっとした勇気ならアレスが、ちょっとした愛ならアフロディーテが、彼らに分け与えてくれる。

 あたしにできることなんて、何もない。

 だからこそ、人々の視線を受けながら、あたしはこんなことまで言えたのかもしれない。

「このアテナイの市民に幸多からんことを」

 たったそれだけで、人々を満足させるにはじゅうぶんだった。

 人々の姿の先には、このアテナイの街並と、それを囲むアッティカの美しい風景が広がっていた。

 高台からづく平野は、既に白い大理石で統一された建物の連なる都市となっている。すぐ近くまで入り江になった海の輝きも、見渡すかぎり青い空も、ふくよかな女の体のようになだらかな山々の曲線も、道ばたに咲く名も知れぬ雑草の花の一つに至るまで、すべてがこの街の引き立ててくれている。

「いいところだわ。とうさまとかあさまも、ここに住ませてあげたかった……いいえ、あたしたち、ここに生まれたかったわね」

 そんなことを呟きながらあたしが指を伸ばすと、黒光りする小さな蜘蛛はあたしの中指の先におりてきて、いくつもならんだ大きな目でこちらを見た。

 これがあたしの姉。

 あたしのためだけに、人としての人生、女としての幸福の全てを捨てて尽くしてくれた、優しいアラクネねえさま。

「あたしたちが滅んでも、アラクネねえさまの子孫が、ずっとその先の先まで、あたしたちを綺麗な糸で繋いでいてくれる。もう離れることなんかないのよね。別れることも、寂しい思いをすることも」

 ここにはもう、すべてを焼き尽す嫉妬も、無駄な犠牲も、狡猾な策謀も、争いの種は何一つとしてない。

 穏やかな愛と、それを受け止める優しさと、正しい判断と、それらがもたらす安らぎで満ちている。

「アラクネねえさまもずっと一緒よ。あたしとアレスと、あの子供たちと」

 できることなら、あたしもずっと、ここにみんなと一緒にいたい。

 心からそう思った。

「ねえ、アラクネねえさま。百年先も、千年先も、もしかしたら万年先も。きっと、この世のどこかでは毎朝、誰かが……朝露に濡れた蜘蛛の巣を見て思うんでしょうね。世界はこんなにも美しいんだって」

 神々のいない世界がいつか来ても、人の心があるかぎり。

 あたしたちは、消え去ることはない。

 アフロディーテを作ったウラノス様がそうだったように、あたしは滅んでも、あたしを作っていた『かがやき』はあたしの見たものすべてに宿って、これからも永遠に生き続けるのだ。

「じゃあ、復讐はおしまいね。これからは、好きにしましょう。アテナイはあたしの街、あたしたちの家だもの」

 あたしは詰めかける人々に手を振ってやった。

 ひときわ歓声が大きくなる。

「あら。アレス」

 あたしも気付かぬうちに、弟が隣へ進み出ていて、アラクネを乗せている手を下から包み込み、力強い掌で天高く突き上げた。

「パラス・アテナ! パラス・アテナ!」

「アテナイ市に栄光あれ!」

「パラス・アテナ!」

 人々の声が消えることはなく、いつまでも響いていた。

 そう。いつまでも。いつでも。いまでも。




 西暦二〇一六年現在、ギリシャ共和国アテネ市において、アクロポリス神殿は世界文化遺産に登録され、修復工事が行われている。この修復に、かつて彼らがオリハルコンと呼んでいたもの、すなわちチタニウム……『ティタンのもの』が用いられていることを知っているのは、恐らくアラクネただひとりであろう。

 きっと、彼女ならばこう書いて、この物語を締めくくっただろう。


「皮肉なものですが、そのようにしてわたしの妹の栄華は、いまでもたくさんの人間たちによって支えられているのです」


      (完)

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女神の復讐 猫屋梵天堂本舗 @betty05

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