第20話 勝敗

 その異様な静寂を破ったのは、雷のような堂々とした声だった。

「オリュンポスの犬めらが、ティタンの誇りを語るでない!」

「あんたがミマスね。その面、やっと拝めたわ。意外といい男じゃない」

 そう。ついにあたしたちは、敵の大将を前線近くまで引っ張り出したのだ。

「然様。我が名はミマス、新しきティタンの正統なる王だ」

 ミマスという男は、見た目だけでなく、声もどこかゼウスに似ているような気がした。いや、いまの老いぼれてしゃがれたゼウスからは及びもつかない話だけれども、若かりし日は美声だけで深窓の姫君を口説き落とせたというくらい、ゼウスは発声と言葉選びに長けていた。ティタンの全てがそうではないことくらいは、あたしは自分の母メティスやガイアのおかげで知っていたから、余計に彼が「ゼウスの若かりし日はさもありなん」という、妙な先入観のような、あるいは欠片のような確信を感じたのかもしれない。

 素晴らしく美しい青銅色の竜に堂々とまたがったミマスは、まさに神の中の神を名乗るにふさわしかった。通った鼻筋、広い額、高い頬骨に引き締まった顎、そして太い眉と濃い睫毛に彩られた、大きく切れ長のオリーブ色の瞳。

 あたしたちが本能的に魅了されるべき容貌を、彼は完璧に備えていた。よくいう『王者の相』というやつだろう。

「なるほどね。これだけの美丈夫、ガイアに飲まれて世の中を知らずに繁殖したティタンの末裔を操るなんて楽勝ね」

 言いながら、あたしも自分がただの愚か者ではないところを付け加えておいた。

「分かってるわよ。ついでに、適当に味方の数が減ってくれれば助かると思ってたんでしょう? あんたの手持ちの領地では、あれだけのデカブツ、大飯食らいを養うのは、せいぜいよくてあと半年くらいだもの」

 あたしの皮肉混じりの洞察にも、ミマスはただ、挑発的な笑みで答えた。

「いい読みだ、アテナ。しかし、半年あれば、私がオリュンポスを落とすぞ」

「さあ、どうかしらね」

 と、あたしは挑発を挑発で受けた。抜いた剣の切っ先を、馬上からでもなおはるかに高い位置にあるミマスの顔に向けて、笑って見せてやった。オリハルコンの虹色の輝きと黄金の光が、こんなに離れていてもはっきりと、男の顔を映し出す。

 しかしミマスは、小馬鹿にしたような苦笑いを浮かべただけだ。

「その程度のおもちゃで私を倒せるとでも思っているのか、小娘」

「思ってるわよ。あたしのおもちゃ職人は最高だから」

 と、言いおえた瞬間、あたしは後ろを見もせずに、ただ鋭く叫んだ。

「ヘパイストス、やれ!」

「はっ!」

 聞き慣れたしゃがれ声の、なんと生き生きしていることだろう。

 ヘパイストスの返事と同時に、突如としてそのへんにただ転がっているだけの岩から、何かがミマスの方へと一斉に滑り出す。ジャラジャラと美しい音を立て、あたしの黄金の光にキラキラと浮び上がったそれは、まるで生きているかのように、彼とその乗騎へとうねりながら進み、はるか空中にまで鎌首のない蛇のように、一気に伸び上がった。

 涼しげにすら見える拘束具によってがんじがらめにされたミマスは、さすがに低く唸った。

「ぐぬう、これは……」

 そう。水晶の鎖だ。

 かつてヘパイストスが妻の不貞を証明しようとした時に作り出したものは、もっと細くて精緻な作りだった。それは妻と間男の美しい肉体を傷つけないための最低限の配慮であったはずだ。

 だが、いま武器として作り上げられた鎖は、それとは全く違う進化を遂げていた。

「あたしのおもちゃ。綺麗でしょ、あんたにお似合いよ。男前」

 水晶はより強靭な、ひびや内包物のないものばかりで、その透明度は実際、あたしの部屋の天井飾りより優れていた。そして鎖の一目一目はティタンに対抗するために、大人の拳ほどにも大きくされ、結果として鎖そのものが、遠い密林や洞窟に住むという大蛇のごとき太さと長さを得ていた。

 それをヘパイストス、あの造形の神は、自分の作った仕掛けを、今度は閨の寝台ではなく、自然の岩の下にいくつも埋め込んだのだ。彼が遠く離れたところから一声かけるだけで、その罠は作動する。

 いまも、完璧な瞬間に水晶の鎖はミマスと、彼の乗る竜を捕らえた。そして鎖は、情け容赦も際限もなく締め上げはじめる。

 最初に悲鳴をあげたのは、不幸な美しい竜だった。その空を飛ぶ生き物にとって最も大切なもの、すなわちその翼を、水晶の鎖によって付け根から寸断されてしまったのだ。

 耳をつんざく鳴き声とともに、竜は地に落ち、青紫の血を大地の女神ガイアへの供物としながら、しばらく地上で痙攣を繰り返してから絶命した。

「おのれ、小細工をしおって」

 ミマスの体も、竜が地に落ちると同時に大地に叩き付けられたが、そこはさすがに純血のティタンだ。水晶の鎖で全身の骨がきしむほど締め付けられているというのに、彼はその鎖を両手で握り支えながら、強大な足でついに大地に立った。

 そして……

「ふむうん!」

 こちらにまで振動が伝わってくるほどの裂帛の気合いが、ミマスの体からほとばしった。

 次の瞬間、あたしは信じられないものを見た。

「何ぞこれしき!」

 ミマスはあの天才が作り上げた鎖を、自らの膂力と胆力だけでばらばらに引きちぎったのだ。

「へえ、すごい。それ切ったひと、初めて見たわ」

 あたしは素直に賛嘆の言葉を述べた。

 実際、神々の末裔の完璧な肉体の周囲を、キラキラ輝きながらはじけ飛び流れ落ちていく水晶の有様は、美しいと表現してもよかったくらいだ。

 だが、ミマスは肩にかけた毛皮に残った水晶の破片を指先で弾いてから、不敵に、そして剛胆に笑った。

「しょせんは児戯よ。行くぞ小娘、まことのティタンの純血の力を見せてやる」

「望むところよ」

 あたしはそれだけ答えると、ミマスが巨大な槍を構えるのを待った。

 槍といっても、あたしたちの知っているものとは大きさがまるで違う。柄は何千年という樹齢の木のような太さと長さ、その先端には、まだサイクロプスか、異常をきたしていない時代のヘカントケイルが鍛えたのであろう、オリハルコンよりもなお古く貴重なアダマス鉱の穂先が煌煌と輝いていた。

 ちょうど、大きな雄の灰色熊と人間の子供くらいの体格差だろう。あの槍を見るまでもなく、ミマスから何らかの一撃を食らえば、あたしが無事で済まないことは一目瞭然だった。

 それでも。

「アレス、ヘパイストス、手出しは無用よ」

 あたしが釘を刺すと、弟はいつもの悪戯坊主らしい笑みを浮かべて、さっさと下馬して手綱を息子に任せると、自分はヘパイストスが待機していた、弩の矢に点火するための台の上に腰を下ろした。

「分かってるよ。ぼくはここから高みの見物。最高の席だ」

 ヘパイストスはいささか青ざめているように見えたが、その肩を抱いてアレスが実に楽しそうに笑う。

「まあ、ひとつご覧あれ、ヘパイストス殿。ぼくのねえさまがどれだけやるか、楽しんでよ」

 弟の、まるで子供のような何の屈託もない台詞に、ヘパイストスは心配そうな表情のまま作り笑いを浮かべるのが精一杯だったようで、ただ小さく頷いただけだった。

 アレスの態度が気に障ったのか、そもそも弟が純血種でないことを知っていて嫌悪しているのか、ミマスがそちらをちらりと見たとき、その目には明らかな殺意があった。

「小童、この小娘の次はお前だ、今のうちに首を洗っておけ」

「はいはい、純血種様。お出ましをお待ち申し上げておりますよ」

 だが、ミマスは知らないのだ。こういうときの……そう、必ず血が流れる場面でのアレスは、本物の軍神なのだと。

 弟は、巨人から睥睨されたくらいでは怯んだりせず、近くをおろおろと、行き場を失って彷徨っている死者の一人に、軽い口調で声をかけた。

「おい、そこのお前、死人だろ。俺は喉が渇いた、冥府までちょっと行って、レーテーの水でも汲んできてくれ」

「姉弟揃って、へらず口を叩きおって」

 もはや『死者の帳』の外に出た死者に向かって「忘却の川の水を汲め」とは、たいそうな皮肉だ。

 それまでいいように扱ってきたはずの人間が、アレスの言葉ひとつで、ふらふらとどこへともなく歩き始めるのを見て、ミマスの瞳には更なる怒りが燃え上がった。

「死ね、小娘!」

「死ぬのはあんたよ!」

 はるか高みから振り下ろされた槍を、あたしは真後ろに飛び退って避け、槍の穂先飾りの宝石を剣の一閃で切り飛ばしてやった。ばらばらと音を立てて、青玉や紅玉、真珠の数々が地面に転がり落ちる。

「ほう、なかなかやるな」

「あんたもね」

 このときになってようやく、あたしたちは互いの目を正面から見て、互いに不遜な笑みを交わした。

 そう。目を見ることまでは出来た。だが、彼はまだあたしを侮っているし、あたしも彼を敵だと思っている。

 何より、あたしを小娘扱いしたのは許せなかった。

「このあたしを、戦意高揚のお飾りだとでも思ってたの?」

「お人形だと思っていたぞ」

 鼻で笑うミマスに、あたしは堂々と宣言した。

「残念ね。あたしも、純血種よ」

 いままで、ずっと自分の生まれを呪ってきた。だがいまこの瞬間だけは、その事実を有効に使わせてらうつもりだった。あたしは彼だけでなく、周囲にいる敵味方全てに聞こえるように言い放つ。

「英知の女神メティスと神の王ゼウスの娘アテナ、ティタンの正当な王の血統はあたしよ!」

「ほざけ、下賎の育ちが!」

 その一言で、あたしは理解した。この男は、あたしたちのことを調べつくして、何年も、何十年もこの戦に備えていたのだと。

「死ね、デカブツ!」

 あたしは大きな敵との戦い方も、育ての父であるアロセウスから聞いていた。相手の懐に飛び込んで、確実に真下から剣を突き上げ、顎から脳を破壊するのだ。そうやってとうさまは、大きな熊だって殺した。

「ぶほあっ」

 ミマスの口から、鮮血が吐き出された。いかに巨人族とはいえ、あたしの長剣ならば頭を貫通はしないまでも、脳を傷つけることはできたはずだ。

 引き抜いた剣にこびりついたものを軽く振って払いのけながら、あたしはまさに勝利の余韻に浸りつつあった。

「あたしの勝ちよ」

 だが……

 その達成感は、一瞬のうちに消え去った。

 ミマスの受けた傷が、見る見るうちにふさがっていく。

 そんなのはおかしい。あたしの武器はいかなる神々をも殺せる武器であり、あたしは確かにこの目で、ミマスの脳の一部が剣にこびりついたのも見ている。

 それなのに。

 彼は数滴流れ出したのどぶえの血を親指で拭いながら、大胆不敵に言ってのけた。

「確かに腕は悪くない」

 そのときあたしは、不意に気付いた。

 この戦いに終止符などないことを百も承知で、彼は戦っている。

 神々を殺す剣でも、首を刎ねて心臓を潰さねば死なないもの……そして、誰もそんなことはできなかったものの名に、ひとつだけ心当たりがあった。

 あたしは自分の考えが間違っていたことを、我が身を持って知った。

 こいつ、ガイアの息子だ。正真正銘の、あの偉大なるウラノスやクロノスと同じ立場の男だ。

「アレス、これは時間稼ぎよ!」

「気付くのが遅いぞ、戦の女神を名乗るには二万年ほど早いな」

 あたしが弟に呼びかけるのと、ミマスが小馬鹿にした顔で言い放ったのと、どちらが早かっただろう。

 わずか数秒の後、あたしは最も見たくないものをこの目で見ることになった。

「ぎゃああああ……」

「し、死にたくない、死にたく、な……」

「お助けを、アテナ様、おたす……ぎゃあんっ」

 あたしの可愛い、あたしの兵士たちが、口々に悲鳴をあげながら、怪物となったかつての神々の末裔たちに食い殺されていく。あたしに助けを求めながら。


 あたしたちの組んでいた方陣と、その各所に配置されていたヘパイストスの武器の数々は、完全に包囲されていた。

 それも、人類ごときの力などとうてい及ばぬ、見ただけで肉体より魂が先に殺されるような、おぞましい怪物どもの群れに。

 いや、これは群れではない。与えられた指示を正確に実行する、軍隊化された怪物だ。

 

 大地の女神、神々の母であるガイアが生んだ最初のティタンは十二人。その中には、ゼウスの祖父であるウラノスも含まれている。

 そしてそれから、彼らが生まれた。

 ガイアは息子であるウラノスと交わり、ひととおり美しい神々を産み終えると、続いて次々と異形の資質を備えたティタンを生み出しはじめた。

 一つ目巨人の三兄弟キュクロプスたちは、両目の元来あるべき場所は皮膚で覆われ、額と鼻の間あたりに巨大な燃える一つの眼球を輝かせた異様な姿の持ち主だった。

 続いてはまたも三兄弟で、並ぶと天が見えなくなるほどの巨躯の上にそれぞれ五十もの不完全な頭部を持ち、腕は百本、指は千二百本というヘカトンケイル(百の腕)と呼ばれるものたちだった。

 さらに彼女は三姉妹を産んだ。上半身はたいそう美しい娘の姿をしているが、体の下半分が牛はおろか象でも入りそうなほど太い大蛇の姿をしていた。このレレトと名付けられた姉妹たちは、顔で男を誘惑してはその長い肉の鞭とでも言うべき蛇の部分で絞め殺して、丸呑みにしたり八つ裂きにしたりしては食い散らかした。末娘には不格好な、左右比対称で使い物にならない翼までついていた。

 ガイアがこのとき最後に産んだのは、真っ黒な毛に覆われた山羊そっくりの顔に、愛くるしい乙女の裸体をさらけ出し、しかし同時にその下肢には男女の性器が両方ついているという、バケモノの中のバケモノだった。それはエンギルと名付けられ、キュクロプスやヘカトンケイルたちの欲望をひとりで受け止め、産まれてからすぐに孕みはじめ、既に数千匹という黒い子ヤギを産んでいた。

 ウラノスはそんな連中の恐ろしい形相と膂力に恐れをなし、本来ならば自らの血を分けた兄弟姉妹として扱うべきところを、冥府のさらに下にある、大地の女神ガイアでしか動き回ることは叶わぬ、溶岩の流れる洞窟へと封印した。


 母ガイアからその物語を聞いていたゼウスは、虜囚の恥ずかしめを受けていた彼らを解放して利用し、ティタノマキア、すなわち父ウラノスとの戦いに勝利した。

 実際、キュクロプスたちは素晴らしい仕事をした。彼らは溶岩の燃え盛る牢獄の中でも、誇りを失わず、鍛錬を欠かさなかったおかげで、ガイアは彼ら三兄弟に特別な武器を作る力を与えた。三兄弟はかくして素晴らしい鍛冶職人となり、神をも殺せるゼウスの雷の剣と、ポセイドンの大波の矛と、ハデスの死の錫杖をこしらえた。

 そしてまた、ヘカトンケイルたちは再び太陽の下に出られた喜びから、勇猛果敢な戦士となった。彼らの無数の腕にそれぞれに違った武器や防具を握り、それらが絡み合わないのが不思議なくらいの俊敏さで敵を屠った。

 しかし、褒め称えられるべき立場の彼らは、ゼウスがひとりひとりにねぎらいの言葉をかけている隙を見計らって、次々と大地の女神ガイアの長い腕に掴まれ、再び自由を奪われてしまった。地下の奥深くの牢獄にもどされ、ポセイドンの作った、扉のない青銅の格子によって再び封印した。

 そのときの悲嘆と絶望と怨嗟の声は、ゼウスの耳には届かなかった。すべて母なる大地であるガイアが飲み込んでしまったからだ。

 だが、いまあたしの耳には、あたしの兵士たちの悲鳴が、死ぬ運命のためだけに生まれてきた人間たちの最期の声が、はっきりと聞こえている。

「あの封印を、あんたが解いたのね、ミマス」

「私の妻・ロナケイアが解いた。彼女は聡明だ、封印されていた同胞が我らの強兵となることを予測していた。何しろ彼らは、オリュンポスを憎んでいる。己の都合で好き勝手使い捨てにされ、再び投獄されるなど、誰でも恨むだろう。地下の奥底で千年練り上げられた恨みだ、そう簡単には消えぬぞ」

 ミマスは彼らの怨嗟と執念を武器に使った。いや、彼の妻がというべきか。

 何千年も練り上げられた恨みつらみが、彼らを神の子から、醜い怪物へと変えてしまった。

「あはは、それがあんたの嫁さんの考えなら、とんだおばかさんをかみさんに持ったものね」

「我が妻を侮辱するならば、今度は私がそなたの口を串刺しにしてくれる」

 槍を握り直したミマスに向かって、あたしは嘲りの笑みを浮かべた。

「あんたたちのやったことは、ゼウスと同じよ。だからこそ、過去のティタノマキアからこの戦術を思いついたのでしょうけどね、結局、あんたの作戦は古くさいわ」

 あたしはあたしの兵士たちを助けてやれないかもしれない。あたしを信じてくれている兵士たちを、救えないかもしれない。

 でも、相手と同じ戦術で時間稼ぎならできる。

 そして、同じ方法をとるならば、あたしの弟の方がこんな男の妻より、何百倍も優秀なはずだ。

「古くさいことしか思いつかないのはあんたのかみさんの方だったわね、失礼」

 怒れ、怒れ、ミマス。

 その間、あたしの可愛い兵士たちよ。ひとりでも多く、なんとしてでも逃げ回れ。死体を盾にしてでも生き延びるのよ。

 お前たちがあたしを信じてくれたように、あたしもお前たちを信じているわ。


 敵に囲まれ、味方が蹂躙されはじめているというのに、物見台に腰掛けたままのアレスは頬杖をついたまま、いささか退屈な見せ物でも見せられているような顔をしていたが、不意に横のヘパイストスに向かって訊ねた。

「ヘパイストス、その弩はどこまで正確だ?」

「かなりの自信がございますよ」

 造形の神はにこやかに答えた。まるでここだけは、血の臭いすら漂っていないかのように穏やかだった。

 すると、アレスは精悍な顔に悪戯めいた、人によっては傲岸不遜とも取るいつもの笑顔で言う。

「ならば、あの黒山羊の……いや、それではつまらないね。あそこのティタンの兵士の目玉を射抜いてみろ。自分よりでかいヤツを倒すには目を狙えと、父から教わった」

 アレスが指差した先は、かなりの距離がある。しかし、ヘパイストスは自信ありげに応じた。

「ほほう。それは面白そうですな。承知致しました。弩を一台、これへ持て」

 ヘパイストスはかつての彼とはまるで別人だった。卑屈さも臆病さもなく、この悲惨な殺戮の続く中にあっても、普段の調練の時と同じ声音で弓兵を呼んだ。

 小柄な若い男が一人で、ガラガラと車輪の音を響かせながら、二頭立ての戦車よりも大きな弩を動かしてくる。彼はその弓兵に、やはり落ち着き払った様子で命じた。

「あの巨人様の目を射れと、アレス様のお達しじゃ。わしらの作ったものがどれほどか、古い神々に目にもの見せてやろうではないか」

「はい」

 弓兵にとっては、これは戦の功名争いよりも、仲間たちの敵討ちだったようだ。その目には、ティタンをすら殺すという決意がみなぎっていた。

 アレスは気軽にその弓兵の方をポンと叩くと、にっこりと笑って見せた。

「そう気張るな。当たるんだろ」

 まるで友人に接するような態度に、若い兵士は感激の涙を堪えねばならなかったようだ。

 アレスはそれから、自分の愛弟子たち、すなわち息子と月の女神にも同じことを言った。

「フォボス、アルテミス、お前らもやれ。ティタンの目を的にな」

「よくってよ、おにいさま。わたしが一番うまいに決まってるわ」

「バカ言わないでよ、アルテミス。ぼくがアレスとうさまから何年しごかれたと思ってるの」

 この、まるで実の姉弟のような張り合いには、アレスのみならずヘパイストスまでが思わず目を細めた。

「では、射て!」

 命令一下、弩からの三本の矢と、フォボスとアルテミスがそれぞれに引き絞った弓から解き放たれた矢が、人間を餌食としか思っていないものども目がけて放たれた。五本の矢は空を切る音とともに、荒れ狂った血の海の上を飛び、それぞれに怪物の顔に当たった。弩の矢はヘカントケイルの頭を吹き飛ばし、アルテミスの矢は巨人の頬から入って反対側に抜けた。アレスの息子フォボスの矢は、敵の眉間に突き刺さった。

 どすん、どすん……と、地響きを立てて、巨大な死体が大地の上に転がる。

 それを眺めて、アレスは愉快そうに笑った。

「みんな、惜しいな」

 それからやおら、自らの弓を持ち、ほとんど無造作に構えた。

「見てろ。こうやるんだ」

 言葉とは裏腹に、アレスの放った矢は、あさっての方角へと飛んでいく。

 斜め上に向かって、遠く、遠く……自陣に攻め込んで来た敵どころか、あたしやミマスの頭上すら越え、アレスの矢が行く。

「おやおや。これは、アレス殿ともあろうお方が、手元が狂いましたかな」

「いや」

 ヘパイストスの冗談めかした言葉に、弟はかすかに首を振り、己の矢の行く先すら見ずに、また頬杖をついて腰を下ろした。

 そして、あたしたちは信じられないものを見た。

 アレスの放った矢は、急激に速度を増してはるか上空へと突き進み、金銀の房はその速さと抵抗に耐えきれずに千切れて、細かな切れ端となってひらひらと舞い降りてきた。まるで、金銀の花吹雪が血なまぐさい世界を覆い隠そうとしているかのようだった。

 そして、次の瞬間。

 キーン、と、耳をつんざくような、金属と、もっと硬質な何かがぶつかりあう音が響いた。

 ミマスの張り巡らした『死者の帳』の天井に、オリハルコンの鏃が当たったのだ。

 その衝撃で、矢の箆は砕け散り、鏃だけが真っ逆さまに落ちる。

 落ちる。

 落ちる。

 まっすぐに、的へと向かって。

「ぎゃあっ」

 両手で顔を押さえて悲鳴をあげたのは、自陣の物見櫓からこちらを眺めているミマスの妻・ロナケイアだった。

 櫓から身を乗り出し、ミマスとあたしの方を見つめていた彼女には、まさか空から鏃だけが、自分目がけて飛んでくるなどとは思いもしなかっただろう。

 アレスの矢は、いや、鏃は、恐るべきことに、ロナケイアの右目に突き刺さっていた。

「お、御見事……」

 かろうじて賛辞を口にしたのは、ヘパイストスただひとりだった。

 何もかも、計算されつくした完璧な一撃。

 自らの言葉どおり、アレスはティタンの目を射抜いたのだ。

 きらきら輝く金銀の繊維が降り注ぐ中、物見櫓から身を乗り出していた女は、そのまま立っていることも叶わず、高さにしてちょっとした塔ほどもありそうな櫓から、真っ逆さまに大地へと落ちた。

「ロナケイア!」

 ミマスが妻の名を叫ぶ。しかし、それが戦の剣戟の音の中で、彼女にまで届いていたのか、あたしには分からない。

 ただ分かっていることは、ロナケイアもティタンを名乗っている以上、片目を射抜かれようと、大地に叩き付けられて全身の骨が砕けようとも、そんなに簡単には死ねない。それだけだ。

「ロナケイア!」

 同じ名を繰り返し叫びながら、妻に駆け寄ろうとする男の前に、あたしは馬首を回して立ちふさがった。

「まだ終わってないわ、あたしたちの勝負」

「おのれ……」

 ミマスの顔が、怒りのために深紅へと変わった。

「この小娘、あのむしけらともども踏みつぶしてくれる!」

 彼の怒りはもっともだ。最愛の妻が、いまこの瞬間、血を流しながら乾いた大地の上に横たわり、ただ呻いている。邪魔をするものがいるならば、相手が誰であろうが排除する。

「だけどね」

 と、あたしは言った。

「話はそんなに単純じゃないのよ」

 きっとそのとき、あたしの顔には、あのおぞましい実の父ゼウスそっくりの、冷笑が浮かんでいたはずだ。

 取り乱していたミマスが気付いた時には、もう遅い。

「ケタケタケタ」

「ケタケタケタケタ」

「アハハ……アハハハハ」

 なんとか生き延びたあたしたちの兵士が笑っている。そこかしこで。

 気でも狂れたように……いや、本当に狂れてしまったのかもしれないが、彼らはみな、一様に甲高い笑い声を上げていた。

「罠にかかったのがあんたたち自身だと、まだ気付いていないのかしら、純血種様?」

 あたしが笑いかけた瞬間、ミマスは全てを悟ったに違いない。

「おねえさま、出番よ」

 あたしが命じ終えるよりも早く、大地や灌木や岩や、木の切り株に至るまで、周囲にあるありとあらゆるものから、純白というよりも真珠色に近い網が一斉に噴き出した。

 それは、自ら意思を持つもののように、的確に敵だけを捕らえていく。

「ナンダ、コレ、ハ」

 できそこないのヘカントケイルの口から、驚きより戸惑いの声が出るのがはっきりと聞こえた。

 そう。彼らには、こんな武器など予想もしていなかったことだろう。すなわち投網。一本一本の太さは人の小指ほどしかない、細い組紐と細かな編み目でできた網だった。ただの麻や木綿糸なら、ティタンも異形のものどもも、たやすく引きちぎれるはずだ。

 しかしそれは、見た目よりもはるかに強靭で、ついでに、もがけばもがくほどからだにべったりと貼り付き、搦め捕ってしまうようにできている。

「どうやらあんた、あたしの調査が足りなかったようね、ミマス」

 その真珠色の網は、もはや息絶えた彼の乗騎ごと、偉大なティタンの末裔である男を飲み込み、包み込んでいた。

「これは……これは、一体……」

「蜘蛛の糸よ」

 あたしは正直に白状した。ついでに、ゼウスもヘーラーも知らない秘密を教えてやった。

「あたしの姉、そう、育ての親の子だから、血はつながってないけれどね、アラクネっていうのよ。彼女がこれを作ってくれたの」

 続く言葉は、ティタンの純血こそが神である証だと信じるミマスには耐えられないほど屈辱的だったに違いない。

「アラクネねえさまは、蜘蛛の女神になったの。もともと、かあさま譲りで織物が最高に上手だった。そしてあたしとアレスがここに……このオリュンポスに呼び戻される時、ねえさまはあたしたちをいつどこでも守れるように、いつどこにでもいられる存在になりたいって言ってくれたのよ」

 あたしの話を全て理解しているように……いや、理解しているからこそだろう、そのとき目の前をすうっと一筋の優しげな西風が通り抜け、自らの作った糸の巣でその風を受けた蜘蛛が一匹、ふんわりと飛んできて、あたしの指先にそっと停まった。

「ありがとう、ねえさま」

 その小さなコガネグモの一匹に微笑みかけるあたしを見たミマスの顔は、ついに驚愕を隠せなくなっていた。

「自ら、むしけらになることを、望んだとでも……?」

「あら、それは随分な言い草ね。蜘蛛は最高の糸紡ぎ職人で織物職人よ。そして、最高の狩人でもあるわ。アロセウスとうさまにそっくりよ、こうやって獲物を捕らえた時の目なんてね」

 アラクネねえさまは、自ら望んで、いいえ、本当はあたしがその役目を押し付けてしまったようなものだけれど、蜘蛛の女神となる道を選んでくれた。蜘蛛ならば、人間たちの作る神殿や王宮はおろか、冥府でもオリュンポスでも、どこにいたとしても不審に思われない。ポセイドンの住む海の上を渡ることさえできる。この小さな織物で、たやすく海風を受けて。

「アラクネねえさまは蜘蛛の女神となったとき、同時にすべての蜘蛛とひとつになったの。彼女がこの投網を思いついたときから、このギリシャ中の蜘蛛がヘパイストスの工房へと集まってきたわ。そりゃあもう、職人たちが腰を抜かすくらい、天井も壁も一面蜘蛛だらけだった。蜘蛛たちはありったけの糸を紡いで、この縄を編み、代わる代わる入れ替わっては、これだけの網を織り上げてくれたの」

「ちゃんと試験もしたんだよ。あのケルベロスですらが噛みちぎれなかったよ、この縄はね」

 あたしの説明に割って入ってから、アレスは口元だけで、あの悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「これからしばらくは、このオリュンポスでも、あっちこっちで害虫駆除に追われることになるだろうね。いつもは蚊だの蝿だのを綺麗にしてくれているアラクネねえさまの同胞も、さすがにこれだけの罠を作ったら疲れちゃったみたいでさ。しばらくは巣の材料ができるまで休みが欲しいって」

 そのときあたしは、ようやく気付く。

「それで、むしけらごときって馬鹿にしてた相手どころか、本物のむしけらに負けた気分はどう? ちょっと……いや、ゆっくり聞かせてよ」

 アレスがミマスを見る目の、その冷酷さに。

 そしてミマスがアレスを睨みつける時の、その怒りに満ちた視線に。

「だからアテナねえさまが教えてやったのに。お前らの作戦は古くさいってね」

「貴様が……貴様が私のロナケイアを傷つけたのだな……許さぬぞ、未来永劫許さぬぞ!」

 ミマスの純粋な憤怒、それは純粋な愛の裏返しだということくらい、アレスにはよく分かっていただろう。

 しかし。

「軍師がのこのこ物見櫓まで上がって自ら戦況を確認するなんて、飛び道具の時代にはもってのほかなんだよ。自らの兵士を信じていない証拠だ」

 煽り文句にしては度が過ぎていた。もはや、勝敗は決したと言ってもいい、その敗者に向かってかけるような言葉ではない。だが、アレスは実に皮肉めいた口調で、対決した敵の弱点を網羅していった。軽快に、かつ、獰猛に。

「ぼくだってそんなに馬鹿じゃないさ、数の計算くらいはできる。つまるところ、あんたとあんたのかみさんは内心、お味方が圧勝しすぎても困ったんだろ? このオリュンポスを取ったところで、あんな大飯ぐらいのバケモノどもを養いきれるわけがない。そこそこ味方がやられたのも、計算のうちだろ? 口減らしの口実に一番いいのは戦争だ。ああいや、お前のかみさんの計算か。だからわざわざ、その目で確かめたかったんだろう。狙いやすい的だったよ」

 的確ではあったが、弟の声にはいちいち刺があった。

「ごめんなさいね、うちの弟、口が悪いのよ」

 あたしはミマスに向かって笑いかけたが、彼は……ミマスの耳には、弟の言葉もあたしの声も、聞こえていたかどうかすら分からない。

 彼はほとんど身動きもできぬまま、それでもひたすらに妻の名を叫び続けていた。

「ロナケイア!」

 あたしの存在も、敵味方も、死者も生者も、すべてが目に入らないかのように。

 彼はただその美しい切れ長の目を潤ませて、血の海に斃れた妻のことだけを見つめていた。ティタンとしては、なんと無様な姿だろう。膝と胸だけで、まるでシャクトリムシのように、血と汚泥の中を這い、少しでも妻へと近づこうとしている。

 それは、敵も味方も、かけるべき言葉を失うような有様だった。

 新たに神の王とならんとした野心的な男の、その人生最後の努力は、自らの誇りのためでも、ティタンの純血のためでもなく、ただ愛のために捧げられている。

「いいね。愁嘆場は大好きだ」

 アレスは皮肉っぽく言ってから、やはり雷光よりも速い動きで愛馬に乗り、一気に馬首をミマスの妻が倒れている物見櫓へと向けた。

「ロナケイア!」

「旦那様!」

 呼びかけられ、思わず夫の方を向いてから、ロナケイア、この才覚に優れたティタンの女は、自らの姿を思い出したらしい。

「どうぞ、お願いです。わたくしの首を刎ねても、何をされても構いませぬ。でもこの顔は、この顔の右側だけは、わたしのミマス様に見せないで!」

 彼女は片目を射抜かれただけでなく、オリハルコンの矢で焼かれた醜い傷跡が、ロナケイアの顔の右半分を覆っている。

「残念ながら、そうもいかないようだ。あなたのご主人は、あなたに会いたがっておいでだから」

 そして、自らがその顔を射った女に近づき……ナイフを抜いた。

「やめろ、私の妻に触れるな!」

 背後から響くミマスの絶叫を無視して、アレスはその刃先を女の顔に向けると、右目の奥深くまでめり込んでいる鏃を器用に取り出し、清潔な布をその傷に当てた。

「今更謝っても仕方がないが、あなたの右目を潰したのはぼくだ。すまなかった」

 アレスはそう言って、自分よりもはるかに大きなロナケイアの体を担ぎ上げて愛馬の背に乗せると、自分はその手綱を引いて、まるでいい獲物を獲った狩人の顔で戻ってきた。

「降ろしますよ、少し痛むだろうが……まったく、簡単に死ねないってのは厄介だよね」

 気安い口調で言いながら、巨大なティタンの女の体を、同じくティタンである夫の横に下ろすと、アレスはあたしにも誰にも了解を得ぬまま、ミマスの縛めを断ち切った。

 もがけばもがくほど絡み付くはずの蜘蛛の縄を、弟が容易く切り裂いたことに、味方も、既に囚われている敵たちからも賛嘆の溜息が漏れたが。

 そう、あたしたちは知っているだけだ。蜘蛛には二種類の糸がある。ひとつめは、獲物を捕らえるための糊がべったりとついた罠の糸。そしてもうひとつは、蜘蛛自身が自らの巣の中を動くために張り巡らす、何の仕掛けもないただの糸。

 その、べたべたした罠のないところだけをアレスは器用に切り、ミマスを蜘蛛の巣から引きずり出してやった。

 だが、本人はそんなことに気付いていたかどうかさえ分からない。彼はアレスのことを一度も見ず、ただ妻だけを見ている。彼女にようやく触れたこのときも、これまでも。

「ロナケイア、ああ、私のロナケイアよ、かわいそうに」

「旦那様……申し訳ございませぬ、お見苦しいところを」

「構わぬ。目などすぐに新しく生えてくる。こんな傷など痕も残らぬ。いいや、そのままでもいい。そなたは私のために戦って傷を負った。名誉の傷だ。その傷口にくちづけさせてくれ」

 ミマスは妻を抱き起こし、その顔にあてがわれた布をそっと外すと、潰れた右目に優しく唇で触れて、その血と涙と眼球の入り交じった液体を、獣のように舐めた。そしてふたりは、嗚咽しながら抱き合った。

「お許しください、旦那様。わたくしがあなたを、この世の王にするとお誓い申しましたのに……どうやらその誓いは、守れそうにございませぬ」

「構わぬ。いいのだ。楽しかった」

 夫の言葉に、ロナケイアはなんとか笑い返そうとした。傷の方へと皮膚が引っ張られて、歯茎の奥までが見えるほどの顔だったが、ミマスはその頬に触れてさりげなく皮膚を戻し、それからしっかりと、骨が折れそうなほど……いや、既に全身の骨が折れているのだから比喩どころか冗談にもならないけれど、そう表現したくなるほど強く妻を抱きしめた。

「永遠に愛している、ロナケイア」

「勿体ないお言葉です、旦那様……」

 それだけ言うと、『ティタン最後の軍師』とまで恐れられた女は、夫の腕の中で泣き崩れた。その体を抱きながら、ミマスは繰り返しその髪を撫で、ここからは聞き取りづらい愛の言葉を連ねていた。

 血まみれの美しい男と女、いや、最高に美しいティタンの末裔が、午後の光の中、まだどこかから落ちてくる金銀の矢飾りの破片や、その周囲を覆うきらきらとした織物のような蜘蛛の巣に囲まれている様は、まるで光で描かれた絵画のようで、それがもしもあたしの可愛い兵士たちを嬲り殺し、生きながらにバケモノに食わせた張本人だと思わなかったら、あたしはこの二人に心を奪われていたかもしれない。

 しかし、そんなあたしの感傷をたやすぐ打ち破るのは、いつでもアレスだ。

「いいよねえ、愁嘆場。大好き」

「あんたちょっとお黙り」

「ごめーん」

 弟はおどけて見せたし、あたしも怒ったふりはしたが、本当のところは、アレスに感謝していた。

 互いに侮辱しあい、殺し合った相手であるミマスとロナケイアにも、弟は最低限の敬意は払った。それでいて、彼はちゃんとあたしに教えてくれる。

 忘れるな。こいつらはまだ敵だ。

 負けの実感はあるようだが、投降するかは分からない。


「それにまだ、もうひとつの誓いは生きているではないか」

「はい」

 夫の言葉に素直に頷くロナケイアの姿を見て、近くで聞き耳を立てていてよかったと思った。

 まだ何か策があるとでも言うのか、このふたりには。

 しかし、あたしそんな疑念は、ただの邪推、いや、最低の醜い思い込みなのだと、もはや静かな光をたたえただけのミマスの目を見た瞬間に分かった。

「アテナ、アレスよ。私はこの世の果ての終わりの時に、何もかもが滅するとき、死に行く妻の手を取って、その最後の一息をくちづけで吸ってから、自らの命を断つという誓いをしていた」

 彼の声は、その生まれゆえに、実に美しい。その音楽のような言葉が、まるで歌のようにあたしたちの上を流れていく。

「少し早いが、そのときが来たようだ。死を賜りたまえ、アテナよ」

 本来ならば覚悟の込められた凄絶な台詞のはずなのに、ミマスが言うと甘美にすら聞こえた。

 だけど、それはできない。

 そのことだけは、あたしに裁量権はなかった。

「悪いわね。あたし、ゼウスからあんたたちを生きたまま連れて来いって命じられてるの。その頼みは聞けないわ」

 ミマスの口元に浮かんだかすかな笑みは、あくまで主君であるゼウスへの、あたしが捧げる忠節への了承だっただろうか。それとも、あたしの判断はしょせん、無邪気な小娘の愚かさだという冷笑か。

「でも、あたしにできることはする。約束するわ」

 どうしてだろう、あんなにも長い間、この男を討ち滅ぼすことだけを考えて生きてきたというのに。

 いまのあたしは、自分が彼に悪意を持っていないことを分かってほしくて仕方がなかった。

「あんたも知ってるでしょう? ゼウスがあんたの家族、純潔なティタンが平穏に暮らせるように作らせた楽園があるわ。オケアノスのほとりの、世界の果てに。その『祝福を受けたものの島』にあんたたちが住めるように、これからも未来永劫連れ添えるように、あたしがゼウスに願い出るから、ああ、いいえ、こういうのはヘーラーに頼む方がいいかもしれないけど、どんな手を尽くしてでもあんたたちをそこに送り届けるわ。もちろんポセイドン様やデーメーテル様たちにもちゃんと根回しする。その島はね、いまはクロノス、あなたの父上がその王よ。悪いようにはしないわ。だから早まらないで」

 あたしは自分でも気付かぬうちに、必死に説得しようとしていた。


 最初のティタノマキアでこの地上に居場所を失った者たちを、ただガイアの空きっ腹の中に収めさせてしまうほど、当時のゼウスは愚かではなかった。

 周囲の尊敬を受けているもの、信仰を集めているものをただ処罰し、ガイアの胃という無尽蔵の空腹の牢獄に押し込めては、己の評判が下がるばかりか、ゼウスが誰よりも愛してやまない母の母、大地の女神、この世界の地盤そのものであるガイアの名誉を傷つけることになる。

 敗れはしたが尊敬に値すべきものは、特別な場所、ガイアの長い腕でさえ手の届かない場所にかくまっておかなくてはならない。そのためにゼウスは、オケアノス川が深淵へと流れ落ちた先の、まださらに遠くに、島とは名ばかりの、水上城塞を作った。

 砂浜には歩くだけで音のする鳴き砂を敷き詰め、『祝福を受けたもの』たちの暮らす城の周囲には、日没と同時に毎晩『嘆きの霧』……それは忘却の川レーテーからときおり立ち上る霧で、それを吸い込んだものは己の身の上に起きた悲しい、辛い出来事を全て瞬時に忘れてしまうという霧だが、それを花粉や蜜とともにあたりじゅうに撒き散らす、黄金のヨルガオを用いて生け垣をこしらえさせた。島に唯一の泉からは、そこに住まうものには飲料水ごときが必要なのかさえあたしにはよく分からなかったが、水の女神の中でも最も位の高いエウリュノメが、わざわざ地底深く、ガイアもゼウスも知らぬ水源を探り当てて、そこからわき出させたのだとか。

 それぞれの屋敷や城の間にはエメラルドが敷石に使われ、松明の代わりに、星を閉じ込めた金剛石があちこちに配されていて、一年中花や果実が耐えることはなく、鳥が飛び蝶が舞う、本物の楽園だとか聞いた。まあ、あたしはそんなところには、一度もの見遊山で行ってみたいとは思うけれど、永久に暮らすなんて無理だろうな。

 あたしの訴えを黙って聞いていたミマスは、軽く頭を下げてから、苦笑と確信の混ざりあった表情で呟く。

「その提案は有難く受け取ろう、アテナよ。しかし、ゼウスが評定の場で、我らを許すと思うのか」

「必ずあたしがなんとかするわ。でも……もし、どうにもできなかったら、あたしがあんたたちの誓いを成し遂げさせる。絶対に」

「かたじけない」

 あたしの言葉の真意を理解したのか、ミマスは再び視線を横抱きにした妻へと戻し、その血と涙の一滴一滴を綺麗に舐めてやった。途切れ途切れに愛の囁きとくちづけの音が漏れ聞こえてくるが、あたしにはあまりにも甘ったる過ぎる。

 あたし、この先永遠に、あんな言葉を言われることなんてないんだろうな。

 そんな気がしたが、別に何も感じなかった。

 そして、次の瞬間、その、生きていく上で一番大切なことの一つをはじめから拒否している自分が、急に恐ろしくなった。

 あたしはあたしの兵士を愛する。あたしの民を愛する。そのかわり、他の何も愛さない。

 不意に、あの傲慢極まりないロナケイアとかいう女への怒りがわいてきた。

 一番大事なものを持っているのに、さらにその先を、愛するものの手に握らせようとしてあの女が。


 そのとき……

「さあさあ、皆の衆、冥府での仕事のくじ引きだよ、イカサマはないから安心してくれ」

 先ほどまでの、軍神の顔とは全く別の、素っ頓狂なくらい明るいアレスの声が、あたしを正気に戻してくれた。

 弟は、あろうことか、投降した敵兵たちを集めて、その処遇を決めているようだった。アレスの前には、醜くねじれた体の巨人や凶暴で何のし付けもされていない獣などが、おとなしく列を食って、自分の順番が来るのを待っている。

 あたしとミマス、それにロナケイアが驚いたのは、彼がすっかり陽気な若者になりきっていたことだ。

「さあさあ、忘却の川の渡し守の船の管理人役は締め切りだ、次はそうだな、ケルベロスの散歩係の役があるぞ。我こそはってヤツはくじ引きだ、ただし、噛まれてもぼくに文句は言わないこと。苦情はハデス様にね」

 そんな調子で、アレスは長い列を次々に捌いて、冥府でまず訪ねるべき場所を教えてやったり、余っている仕事があるか相談に乗ってやったりと、丁寧に対応していた。自分の兵士には、戦場の事後処理を早口で指示を飛ばしながらなのだから、見ているこちらが疲れてしまいそうだった。

「次は……ええと、ハデス様の宮殿の中庭の手入れの係。これはちょっと小さいやつの方がいいぞ、中庭はティタンには狭いからな。鎌とか使えるヤツがいたら、そいつらが優先だ。おい、死者ども、生きてる時は庭師でしたなんて都合のいいヤツぁいねえのかよ」

 ただひとつ確かなのは、アレスは、美しいティタンの末裔にも、無作法で教養のない異形のものどもにも、ちっぽけな人間の兵士たちにも、ひとりひとりに向き合っていたことだ。相手が誰だろうと、分け隔てなく親身になって話を聞いてやっていた。あたしの兵士の一人……かつてはアレスのもとに集められていた占領地からの徴兵組を見下していた若者が、弟を亡くしたと泣き崩れるのを、何も言わずに抱きしめ、一緒に泣いてやっていた。生き残ってしまった彼が絶望しているのを、親しげな様子で、まるで幼なじみのように、勇気づけるのも見えた。

 その様を、残ったほうの目だけで見ていたロナケイアは、初めて夫以外にかすかな笑みを見せた。

「面白いお人方なのね、あなた様の弟君は」

「ええ、とっても面白いわよ」

 あたしの答えに、彼女は今度こそ、皮肉混じりの苦笑をはっきりと浮かべた。

「わたくしの目を潰した男が、面白いお方で本当によかったわ。わたくし、あの方のことを嫌いにならないでいられそうですもの」

 戦に破れ、その身をここまで傷つけられて、その苦痛をものともせずに笑い飛ばせるロナケイアを、あたしは内心、素晴らしいと思った。確かにこの夫婦は、血統的な意味だけではなく精神の部分でも、最後のティタンだったのだ。

「古くさい戦術、ですか。たしかに、その通りでしたわ」

 苦笑が自重に変わるのを眺めながら、、あたしもできるだけ刺のない言葉を選んで……それが成功しているかどうかは兎も角、ひとまず冷静な態度だけは保って答えた。

「そのせいで負けたのではないわ、あんたたちは」

 あたしはこの美しい男女を見ながら、頭の奥にずしんと残っている、氷のように重たい部分を口に出した。

「ミマス。あんた、本当に奥方を愛しているのね。ロナケイアも、心からあんたを愛してる」

 彼はただ、黙って頷くだけだ。その力強い掌は、優しく妻体に刻まれた傷を、ひとつひとつ数えてでもいるかのように撫でさすり、ひとりの女としてどれだけの愛を捧げているかだけでなく、彼女の軍師としての才能、ひとりの戦士としての戦いぶりをミマスがどれほど信頼していたかが分かる。

 だからこそ。

「その百分の一でいいから、あんたたちが自分の兵士を愛してやっていたら、たぶんあたしたちは負けていた……オリュンポスに新しい王が生まれた」

 あたしは出来るかぎり平然と言い退けたつもりだったが、ミマスはこちらを見もせずに、ただ確信だけで応じた。

「なぜ残念そうなのだ、ゼウスの犬が」

「犬にも犬の誇りがあるのよ」

 そう言い返すだけで精一杯だった。

 しかも、あたしの誇りは、あたし自身の、いや、あたしだけのものですらないのだから。

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