第15話 嵐の前

「ほほう」

 その細い糸切れに目を留めたのは、意外にもヘパイストスだった。

 彼には、もはやほとんどすべての事実を話してある。隠し事は無用だったし、じつのところ、彼が妙に几帳面な性質で、部屋に蜘蛛の巣があるとすぐに掃除して取り払ってしまうのだ。かくなる上はと覚悟を決めて、事の次第を打ち明けないわけにはいかなかった。事情を察したヘパイストスは、今は部屋の四隅にだけなら蜘蛛の巣があるのを許してくれている。

 その彼がただの蜘蛛糸に興味を示すとは思わなかったが、その母譲りの緑の目は感嘆の色にきらきらと輝いている。

 ヘパイストスはその繊細な糸を両手で引き延ばし、それが商業者たちの使う結び文字に似たものだと即座に理解したようで、瞬時にしてその価値をも導きだした。

「これは実に合理的だ。素晴らしい」

「どういうこと?」

 あたしがいささかあきれ顔で訊ねると、ヘパイストスはむしろ何故あたしたちがこの有用性に気付かなかったのか不思議がる様子すら見せながら言ったものだ。

「つまり、これは数や単位の基準と記録を残せる、他人に伝えることができるというたいそうな代物ですじゃよ。大きな結び目を、たとえば一キュビットとか、あるいは小さな結び目を一パッススだとか、全てきっちりと正確に定めるのです。これは、アテナ様のお体にあわせて、キュビットやパッススの長さを定めて統一すればいい。それが決まってしまえば、後はもう簡単なもので、十分の一パッススも百分の一キュビットも作れる。そうすれば、もっと精密な仕掛けをこしらえられます」

 はじめあたしには、彼が何を言わんとしているのかさえ理解できなかった。

「これまでは、その国によってキュビットが違ったりして、つまりこれは、職人の出身国の王の手の長さや一歩の歩幅によって変わるわけですから、結局最後の細かな仕上げはわしがやらねばならなかったのですじゃよ。しかしこれらを統一すれば、わしは最後に監督するだけで済む。開戦まで後何日かは存じませんが、それまでにはいくつかのおもちゃを仕上げてご覧に入れましょう」

「あたしにはよくわかんないけど、それってすごいことなのよね、ヘパイストス?」

「はい」

「アラクネねえさま、ありがと」

 彼の答えに、あたしはわざと声に出して言った。

 あたしの態度に反して、アレスは実に興味深そうにこの話を聞いていた。

「なるほどね、長さの単位を統一するわけか。それは、軍を動かす時の役にも立つな。西の山に百キュビット幅で三キュビットの高さの馬止めを作れ、というだけで、工兵に正確に伝わるわけだ」

 弟の説明で、あたしにも少しはことの重大性が分かったような気がした。

「つまり、そのやり方を使えば、今までみたいに高さがバラバラで幅が足りない、役立たずの馬止めはできないってことね?」

「そうだよ。あと、伏兵に、あと三十キュビットまで近寄れって、伝令を出したり狼煙を炊いたりせずに済むようになるんだよ。矢にこの紐文字を巻き付けて、味方へ向かって放てばいいんだ。専用の的がいるだろうけど、ねえさまのほうには精鋭が揃ってるから手元が狂って味方を射つことはないだろう、こっちからはぼくがねえさまの足下に向かって打つから安心してよ」

「あんたの腕なら、鳩や人間に運ばせるのと同じ距離でも一瞬ね。確かにそれは便利ね」

 子供の頃から、剣術の方はあたしに分があったが、弓はアレスの方が巧かった。というより、こつこつした地道で細かい作業がアレスは好きだったのだ。矢羽根に改良を加えたり、弦の素材を何の獣の腱にするかだとか、弓の素材を継ぎ合わせるのににかわを使うか、蜜蝋を混ぜるかだとか、父……アロセウスとうさまと何度も試作を繰り返しては試射して遊んでいた。

 ヘパイストスと意外にも気が合ったのは、そういう緻密な工作の積み重ねを好む性質のせいかもしれない。もちろん弟には、造形と発明の神ほどの腕はなかったけれど、こうしたちょっとした発想への理解は、アレスが誰よりも速かった。

 と、そのとき。

「アテナ、一歩前へ!」

 突然軍人らしい命令口調で言われて、あたしは思わず右足から一歩踏み出しかけた。

「止まれ。そのまま!」

 片足を一歩分前に踏み出した姿勢であたしが動きを止めると、アレスはニヤリと口元だけで笑って、ヘパイストスに目配せした。

「これで単位が一つ決まったな」

「はい」

 と、いそいそとヘパイストスがそのあたりにあった布切れを持ってきて、あたしの歩幅の右足の指先から左足のかかとまでのところに印をつけて、直線を引いた。

「アテナ、直立! 両手を広げて立て!」

「はいはい。つまり、あたしはこれから体の隅から隅までヘパイストスに長さをはかられるわけね?」

「そこは測量と言ってあげてほしいな、ねえさま」

 あたしたちのやりとりを見て、アフロディーテは楽しそうに、音楽のような笑い声を上げた。

「本当に仲のよろしい姉上様と弟君ですわ」

 ただそそれだけのことで、すでに臨戦状態になりかけていた雰囲気が一気に和む。

 あたしはそれから、本当に指の長さから両目の瞳と瞳の間の長さ、膝から足裏までの長さと肘から指先まで、くまなくヘパイストスによって「測量」された。彼はぶつぶつと、これが何だのあれがどうだの、と呟いている。もちろん相手がヘパイストスだから許したのだ。他の誰であろうと、それがたとえ弟であっても、あたしは自分の体をべたべた触らせたりするのは好きではなかった。

「すばらしい武器が作れますぞ。いや、すばらしい機械、機構が」

 そう真剣に語るヘパイストスは、発明の神そのものだった。

 そして実際、彼はあたしの形と長さを基準にして、その技術と天賦の才をよりいっそう発揮しやすくなった。ヘパイストスはあたしと弟のどちらの部下、兵士たちと、その家族からも等しく尊敬され、崇拝されるようになっていた。


 かつては自らの望んだ息子でありながら、その容貌のゆえにヘパイストスを疎んじていたヘーラーでさえ、今では手のひらを返したようにヘパイストスを「最も優秀な我が子」と呼んではばからない。それでもなお、その異形を笑いものにした男女はいくらかいたものの、その蛮勇への褒美としてヘーラーが怒りの稲妻を落とすより先に、アレスが閃光の速さで剣を抜き、そいつらの首をさっさと刎ねてしまった。

「叩いてよい軽口と侮辱の区別もつかぬものに、このオリュンポスには居場所はありませぬ。片付けよ」

 と、厳かに命じながら、ほとんど何の音も立てずに剣を鞘に納めた時、アレスの周囲にはまだ、死者の首からは噴水のようにびゅうびゅう噴き出していた。

 しかし、彼はその片膝を大理石の床につき、恭しくヘーラーの玉座に向かって一礼すらして見せたものである。

「そのうるわしき御目に、血の穢れなどを映してしまい申し訳のいたしようもございませぬ。ヘーラー様」

 それを見て喜んだヘーラーは、アレスに「雷光より速く剣を使うもの」と礼賛の文言を下賜したほどだ。オリュンポスに来てからずっと、アレスは、彼の生まれのせいもあって、あたし以上にあのババアから嫌われていたが、その一件以来、ヘーラーからも信頼を置かれるようになった。

 弟はうまくやった。

 そう、あたしたちならうまくやれる。

「やっぱり、あんたの言ったとおりね、アレス」

 あたしは思わず笑みを浮かべていただろう。

「勝つわ」

「当然」

 応じた弟は、また自信ありげに口元だけで笑い返した。

 それで十分だった。

 あたしは勝利を確信し、今にも唇から安堵の溜息が漏れそうになるのを堪えねばならなかった。まだ実際に勝利したわけでもないのに。

 アレスの確信に近い預言は、それを聞くもの全てに伝染するようだった。それまでひっきりなしにあたしの手の爪の大きさを一枚ずつ布に写し取っていたヘパイストスでさえ、木炭を持った手を一瞬止めたものだ。

 さらに畳み掛けるように、弟の一番の理解者となったアフロディーテが、いっそう場を和ませるべく、歌うように美しい声で言った。

「ねえ、みなさま。難しいお話はそのくらいにして、お食事はいかが? 今夜は、デーメーテル様お手作りのパンもございますのよ。それに、アルテミスのところからとても大きな鹿が届きましたから、まずは腿の焼いたのと、背肉の煮込みも。腸詰めはもう少しお時間がかかりそうですけれど」

 アルテミスというのは、狩猟の女神で、近頃……といってもどのくらい前かは忘れてしまったが、出会った時からどういうわけだかあたしにやたらと懐いてきて、今ではすっかりあたしやアフロディーテの妹気取りでいる、まだ若くて元気いっぱいの、娘盛りのかわいい女の子だ。

 はじめはゼウスかヘーラーの回し者かと思ったけれど、少し話してみて、アルテミスとその兄もまた、ゼウスとヘーラーによって不幸な生まれと不遇な育ちを甘受したことを知り、同時に彼女が純粋に、あたしたちに憧れてくれていることも知った。

 あたしのことは、どんな男にも屈しない、どれほど強い相手にもひるまない、誰が相手でも言いたいことははっきり言う「かっこいいひと」と評し、またアフロディーテのことは、逆に、そのいかにもたおやかな振る舞い、女性らしさ、また母親となってもなお愛する男のために尽くす姿に「きれいなひと」と呼んだ。

 くわえて、彼女はアレスがただの無軌道な暴虐な男ではなく、戦って死んだ人間たちに対して、敵も味方も、種族も越えて敬意を払うところと、ただひとりの愛するひとと自らの家族への態度に誠実さを見いだしたらしい。以来、アルテミスはアレスの子供たちの遊び相手まで喜んで務めてくれるようになっていた。

 そういう細かな信頼が重なって、あたしたちもみんな、自然とアルテミスとその兄のアポロンを可愛がるようになった。ついでに言うと、アレスの長男のフォボスにとっては、このちょっと年上のおしゃまなおねえさんは、気になる存在らしい。

 つまりこれは、あたしたちが徐々にこの神々の世界……特に、いちばん若い神々の中で足場を固めている証拠のような晩餐の肉なのだ。なにしろ今や、不遇だったはずのアルテミスは月の女神、双子の兄のアポロンは太陽の神に列せられ、彼らが生まれたデロス島は「黄金の島」と呼ばれる聖地となっている。ヘーラーの意地悪を見かねた女神たちが結託して、この天に輝く双子の分娩のためだけに作り上げた小島だ。

「デロスの鹿なら、いただかないわけにはいかないわね。ヘパイストス、あんたも食べるでしょう?」

「いや、わしは、今はもう物差しの単位を統一せにゃならんことで頭がいっぱいじゃから、後で腹がすいたら食う。アレス殿、アテナ様、ゆっくりしていきなされ」

 ヘパイストスはきっぱりと断った。木炭やら蜘蛛の糸やらでべたべたになった手を洗うのすら面倒そうに、そのへんの布切れでちょっと額の汗を拭っただけだ。今の彼は、造形の神そのものでしかない。こうなってしまうと、誰もヘパイストスを引き止めることなどできなかった。

「では、そうさせていただきます」

 そのあたりのことはもうすっかり汲んでいるのだろう、アレスは物わかりよく微笑みながらも、自らの愛人の夫に対しての心遣いも忘れなかった。

「ではせめて、一仕事前の軽食に、こちらを」

「これはかたじけない」

 ヘパイストスに手渡されたのは、ひとつの半熟の林檎だった。彼が、熟れきって甘くとろける果物より、少し青くて酸味と苦みが強いままの方が好きなのを、アレスはこの十年近くで学んだらしい。

「ではまた」

 ヘパイストスはその林檎を尊い拝領品のように額に押し付けてから、両腕で抱えきれないくらいの布や紐の山をなんとか担いで、アフロディーテの神殿の裏口へと消えていった。

 その先に続く彼の工房で、ヘパイストスはこれから「単位」を決めるのだろう。あたしたちの間では唯一絶対の単位を、このあたしの体をもとにして。

 奇妙なものだ。

 こうして、改めて目の前に突きつけられなくては気付かないことなど、これからもいくらでもあるのだろうが、それにしても。確かに、全く同じ角度で、完璧な八角形や十二角形を作り出す蜘蛛は素晴らしい。徐々に狭められていく横糸も、その均一な螺旋の賜物だ。

 その基準が自分になるのだと思うと……少なくともあたしたちの間では、長さ、重さ、それが全て自分から出来ているのだと思うと、誇らしくもあり、いささか面映くもあった。

「アレス。あたし、神様ってやつになってよかったって、いま初めて思ったわ」

「そうなの? 随分遅かったね」

 弟は少しだけ皮肉を混ぜた笑みを返しながら、膝の上に可愛い長男、彼とアフロディーテとの愛のかたち、肉体と命を得た愛そのもののフォボスを膝の上に乗せた。

 十八年前に生まれたフォボスは、人間ならばもうとっくに大人の仲間入りをしているはずの年齢だが、まだ初々しい少年の姿のままだったし、その下の弟のダイモスはまだ子供子供していて、鹿肉の脂の焼ける香ばしい香りに、口元からよだれがたれている。

 手を伸ばしてその口元を拭ってやったり、鍋や火の方へ近づかないようにダイモスのことも片側に抱いたアレスは、本当に若々しい、優しい父親にしか見えなかった。

 まだ指しゃぶりの癖の抜けないダイモスがもごもご言うのを、フォボスが通訳気取りで言う。

「おとうさま、ダイモスは、お食事の前にお歌を歌ってほしいって」

「これ、フォボス、ダイモス。アテナおばさまの前だぞ」

 その、いささか困ったような微笑みは、びっくりするほど父に……あたしたちとは血がつながっていないはずのアロセウスとうさまに似ていた。

 そういえばあたしたちも、姉妹弟三人掛かりでお父様を取り囲んで、夕食のスープが煮えるまで歌を歌ってもらったっけ。

 そんな下らないことが、当たり前の日常が、今ではもうこんなに遠い。

 それを忘れたくて、あたしは思わず口にしていた。

「歌ってよ、アレス」

 と、言ってしまってから、あたしは都合のいい言い訳を見つけた。

「鹿肉だもの、火傷しそうなくらい熱い方がおいしいわ。どうせ、鍋が温まるまでには時間がかかるでしょ。今から『勝利の歌』を聴いておくのも悪くないわよ」

「なら、それにしよう」

 アレスはかすかに微笑み返して、両腕に息子たちを抱きながら、柔らかな声で歌いはじめた。


 さあ そろそろ陽が落ちる

 獲物を持って家に帰ろう

 今夜は御馳走だ 鴨もウサギも後回し

 獲物は立派なこの山羊だ

 女房子供も小躍りだ

 この角 この皮 このひづめを見たら


 さあそろそろ家に帰ろう

 家の明かりが見える

 いとしい家の明かりが見える

 獲物を持って家に帰ろう

 いとしい家族と御馳走を食おう


 父が……アロセウスとうさまが、大きな獲物を仕留めた時にだけ歌ってくれた、この旋律。

 どうして、『勝利の歌』なんて曲目を選んでしまったのだろう。

 弟の歌と子供たちのはしゃぎ声を聞きながら、あたしは早く、アフロディーテが食事の時間だと告げにきてくれるように祈っていた。


 そう。

 あたしたちがこれから行くのは、狩り場ではない。

 戦場なのに。

 この部屋のどこかで、アラクネねえさまをこれを聞いているのだろうか。

 ねえさま、教えて。

 アレスは十八年待ったのよね。

 なら、あたしはどれだけ待てばいいの?

 あたしのための結び目を、あなたはあと何個作るの? 何千個? 何万個?

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