第16話 開戦前夜

 我らが偉大なるゼウス、神々の王の下知のもと、出撃、すなわち開戦の日が決まった。

 あの惚けた老いぼれは、一房の青い葡萄を片手に言ったものだ。

「今年最初の葡萄が赤く色づいた朝に戦の幕を開けよと、ミマスにも伝えた」

 ゼウスは自分の言葉が、敵であるミマスに対しても絶対的であると分かっている。たとえミマスがそれを認めていなかったとしても、王の中の王、神の中の神の言葉に背いて戦を仕掛けてきたとなれば、それは勝利の後に禍根を残す。

「神々の王の命令に背いての奇襲に成功して勝った」などと欠片でも思われることは、ティタン、真の神の血統を自負するミマスにとっては堪え難いことだろう。

「デーメーテルに申し付けた。赤くなった一粒の葡萄をつぐみに持たせてミマスに届けよ、と」

「あたしと弟の軍は、どうしたらよろしゅうございますか、ゼウス様」

 あたしの言葉は、いちおう、形だけでもお伺いを立てておくだけのつもりだった。

 しかし、あたしはその瞬間、伸び放題で見苦しい、白い眉毛の絡まりあった奥に隠されている、神の中の神の本質に触れた。

「こちらは正統な戦いを受けて立つだけじゃ。向こうが攻めてくるのならば勝手にすれば良い。お前とアレスは、まずはそれを迎え撃て」

 いつもと同じ、かすれた聞き取りにくい声だったが、ゼウスは淡々と続けた。

「あの愚かな若造めに、我がオリュンポスを取り囲ませてやるがいい。そこから先は、お前たちが存分に働いてくれるであろう」

 わざと敵を、こちらの総本山まで引き入れるつもりなのか。

 自らが堂々と、動かぬ餌になるとでも言うのか。

「さすがはゼウス様です。戦に慣れておられます。感服しましたわ」

 あたしはすべてを了承した証に、両手を組んで礼拝の姿勢を示した。

 老いぼれのくせに、やるじゃないの。

 あたしの率直な感想に、ゼウスが気付いていたかどうかは知らない。しかし彼自身、今やこのオリュンポスからは、浮気以外の理由では一歩も出ない色ボケジジイになり下がったが、最初のティタノマキアがきっかけとなって生まれ、ギガントマキアの主戦場を渡り歩いただけのことはある。

 あたしたちは、オリュンポスの、この虹色の雲が全てを守ってくれて、自分たちは安全な城を確保しているのだと勘違いしていた。いや、単なる思い込みだ。確かに人間風情にとっては、このオリュンポスには近づくことはおろか、特別の恩寵を賜ったものしかその山陰を見ることもない霊峰だ。

 だが、今度の相手は、あたしたちと同じ純潔のティタン。純粋な、最古の神々の血をいまだに守り続けている連中だ。

 奴らにとっては、この美しい虹の雲など何の障壁にもなりはしない。ミマスの属していた『さいはてのティタン』の一族は、親子、兄弟姉妹で契りを結び、子孫を残してきた。近親同士による後継者づくりによってその血はいっそう濃いものとなっているだろう。ミマスが最も誇りを感じ、自らの存在の基盤としているのもその血だ。

 それゆえにヘカントケイルたちのようなおそろしい魔力の塊の怪物も生まれたが、その異形をすら誇らしさに変えるだけの、特別な魅力を持った男には違いない。ミマスは侮れない。それほどに優秀なティタンならば、あたしならばなんとかして自分の側に引き込みたいと思うだろう。


 それでも、避けられない戦ならば。

 戦の女神としてこの男の脳髄から生まれ出た、あたしが決着を付けるしかないのだ。神々の戦いを終わらせるのはこのあたし、戦の女神アテナだ。

 ようやく分かった気がする。知恵の女神たるメティスが、この男の内部であたしを作り上げた、その理由が。

「アレスに伝令を」

 あたしは思わず鋭い口調になっていたかもしれない。

「オリュンポスの防備を固める。迎え撃てとの、ゼウス様のご命令だ」

「承知しました」

 駆け出していったのは、昼の間は暇を持て余している月の女神、すなわちアルテミスだった。この美しい乙女は、すっかりあたしの副官か秘書気取りで、よくこうしてあたしにくっついて回っている。彼女はアレスから弓矢を習い、その才能を認められもした。

「ついに最後の決戦ですわね」

 あたしの言葉に、耄碌ジジイは光り輝く玉座の上から、まるで上の空で答えた。

「そうなればいいがのう」


 そして、その日はすぐにやってきた。

 デーメーテルが色づいた葡萄をミマスに贈った、その暁に、天然の要害を捨ててまで、敵は打って出てきた。

 ティタンたちの動きは素早かった。約束どおり、日が昇るまでは決して手を出しては来なかったが、夜のうちに兵力の分配と配置は済ませていた。ミマスには勝つ自信があったのだろう。腐敗しきったオリュンポスを攻滅ぼし、ゼウスの首を高々と槍先に突き上げて、己の城塞へと帰還を果たすつもりなのだ。

 そうはさせるものか。

 実際、あたしたちはミマスとその策士たる妻の敷いた布陣を、ほぼ完璧に、夜明け前に把握することができた。何しろこちらには、夜をまたにかけて移動する月の女神がついているのだ。あたしの妹分気取りのアルテミスがもたらしてくれた情報は、実に役立った。

「ふうん、さすがだわね」

「そうだね。いい戦略家みたいだ、ミマスとそのかみさんとやらは」

 アレスは報告を聞いて、口元だけで笑った。

「一番守りの堅そうなところに突っ込んでくるなんて、本気でオリュンポスを潰すつもりだ。精鋭ぞろいのアテナねえさまの軍の腕の見せ所だよ。頑張って」

「気楽にいわないでよ」

 そう。ミマスの敷いた陣は、あたしが守っているオリュンポス山の東側を一気に攻め落とすためのものだった。あたしたちの軍を取り囲むように、三つの陣が組まれている。それも、ティタン……あたしたちからしたら最強の巨人の軍勢で。

「ねえさまならやれるでしょ」

「任せて」

 なぜだろう。弟に微笑みかけられると、あたしは自然とそう答えることができた。

 それからアレスは、アルテミスが鹿の生皮に焼き炭で書いたオリュンポス周辺の戦略地図をトントンと指先で叩いて、もう一度笑った。

「アルテミスのことを褒めてやるのを忘れないでね。ねえさまに褒められたら、あの子きっと天にも昇る気持ちだよ、昼の青空に月が浮かぶね」

「かもね。ちゃんと褒めてあげることにするわ。で、それ、どうするの?」

「ぼくたちの頭にはもう入った。後は、ヘパイストスに任せるよ」

 弟にいわれるまで、あたしは自分がその俯瞰図を完璧に記憶していることになど気付いてもいなかった。いや、それは記憶ではない。地図で示された平面的なものではなく、このオリュンポス周辺の全域が立体的な地形として、山や谷、敵と味方の布陣のみならず、オリーブの木の一本、転がっている小石のひとつひとつまで、今この瞬間、見ているかのように頭の中で再現できた。

 それはきっとアレスも同じだ。だから彼は、これをヘパイストスに渡すと言った。

「そうね、向こうに策士がついてるなら、こっちには技術の神がついているわ」

「軍議はいますぐ? それとも夕食の後?」

 弟の皮肉っぽい笑みに、あたしは落ち着きを取り戻していた。

「これと一緒に、アルテミスから鹿の肉も届いてるんでしょ。なら、晩餐を頂きながらにしましょうよ、あんたの彼女の作る料理は最高だもの」

 台所の方から、肉の焼ける香りが漂っていることも、可愛らしい子供らが母に甘えて料理の邪魔をしているのも、やっと気付いた。いや、視界の中には入っていたのだが、あたしはたぶん、それを無意識に拒絶していたのだろう。

 そんなあたしに、弟の皮肉は痛烈だった。

「そりゃあ今夜の料理は最高だよ。アフロディーテが特別に手をかけてくれた。さすがに、ヘパイストス殿も同席する。ぼくら家族で食べきれない分は、一切れずつになっちゃったけど、兵士たちに配らせたよ。葡萄酒もたっぷりつけてね」

 アレスは笑顔だったが、それはひどく悲しげに見えた。

 月の女神アルテミスの仕留めた鹿を、愛の女神アフロディーテが手ずから料理し、軍神アレスが酒を振る舞う。

 その意味を、弟は……人間の兵士たちと共有しているのだろう。

「今生では最後の晩餐になるかもしれないんだ。そのくらい、べつにいいでしょ」

 死に行くものたちのための宴か。

 兵舎の方が賑やかになってきた頃、あたしたちは揃ってオリーブの根元から作られた円卓のまわりに座り、アフロディーテの手作りの鹿肉の煮込み汁を食べながら、思いつくままに、ありとあらゆることを話し合った。

 翌朝の夜明けまで、眠りに就こうとするものはいなかった。


 あたしは座がお開きなるとすぐに、戦の支度を始めた。夜明けとともに自らの役目を終えたアルテミスがかけつけてきて、まるで侍女のようにあたしの側に侍って、黄金の鎧であたしの身を飾り、ゼウスから拝領した剣と盾を捧げ持ったり、あれこれと戦装束の支度を手伝ってくれた。

「厩からお知らせがございました、馬はどれも完璧な仕上がりでございます。どの子になさいますの?」

「ミカヅキは代え馬に、クジラの岩の陰に繋いでおいて。出陣はアカツキに乗るわ」

「分かりましたわ、おねえさま」

 アルテミスは本当に気のきく子だった。しかも、これから自分の基盤であるオリュンポスが戦火にまみれるというのに、動じた様子も全くない。渡された武器も鎧も、隅々まで手入れが行き届いていた。本来ならばあたしは、自分の武器を他人に触らせなどしないが、アルテミスに関しては、彼女の学びの機会だと思って許している。

 今も、彼女は集中した表情で、あたしの武器を扱っている。それを心から名誉なことだと持ってくれているようだった。

 そのとき。

「アレスおにいさま」

 彼女はびっくりした様子で、不意に顔を上げた。彼がいつからそこに立っていたのか、アルテミスは気付いていなかった。

 もちろん、何の前触れも許しもなくあたしの部屋に入っていい人間は、ひとりしかいない。

 弟はアルテミスに向かって、彼独特の、穏やかだがどこか遠くを見ているような微笑を浮かべて、労いの言葉をかけた。

「ご苦労だったね、アルテミス。だが、俺が入ってくるのくらいは気配で察してもらわないと困るな。お前はもういい、少し休みさない」

「とんでもありません。アレスおにいさま……いえ、アレス様の弓兵のひとりとして、わたしも出陣致します」

「はてさて、役に立つかな?」

「必ずお役に立ってみせます」

「ならば許す。アルテミス、三日月の金銀の弓と流星の矢を装備しろ。俺は倅のフォボスに馬の口取りを任せるが、フォボスが功に走った時には、お前が俺の隣に着け。下馬の必要はない。俺の馬は、俺に似て気が荒い。敵より先に味方の馬に蹴られたのが初の傷では、女神の名折れだ。何より俺がアポロンに焼き殺されかねん、いいね」

「はい、承知致しました」

 いつもどおりのアレスの、皮肉混じりで軽快な言い方にも、アルテミスは緊張しきった表情と声で小さく頷いただけだ。

 すると。弟はアルテミスに手をかして、あたしの武器を並べていた彼女を立たせ、その肩を包みこむように両手を置いて、悪戯っぽい、どこか挑発的な声音になった。

「そんなに肩に力を入れるな、アルテミス。戦の前は誰でも気が急くものだ、ましてや初陣ならなおさらのこと。だが、集中しすぎるのは良くない。落ちつきなさい」

「でも……」

 不服げに、いや、それは戸惑いだったのかもしれないが、アルテミスが何か言いかけたのを、弟はあえて遮った。

「俺の倅はああ見えて、もう何度も実戦を経験している。なかなかやるんだぞ。だが、お前も筋がいい。俺が教えた弓の腕、どちらがより上達しているか、この目で見極めてやろう。己の戦支度を始めなさい、本気でついてくるならば……いや、もちろん一緒に来るんだろうからな」

「はい」

 アルテミスの顔に、やっと自然な笑みが戻った。

 そうか。そうだったの。

 アルテミスがあんなにせわしなくあたしの支度に没頭していたのは、初陣が恐ろしかったのだわ。

 弟がいなかったら、あたしはそんな簡単なことにすら気付かなかっただろう。あたしは戦うために生まれたきたけれど、彼女はそうではない。なのに、それを隠して……あたしの世話に集中することで、恐怖を紛らわせようとしていたのだ。

「では、支度して参ります」

 アルテミスはあたしたちに丁寧にお辞儀してから、足早に部屋を出て行った。

 次に顔を会わせる時には、おそらく……銀の鎧に満月の盾、光り輝く三日月の弓で武装した、女神アルテミスの顔になっていることだろう。

 彼女が廊下を小鳥のように駆けて行くのを見送ってから、アレスは後ろ手に扉を閉めた。

「姉上。お支度はよろしいか」

 わざとらしい厳めしさで訊ねる弟に、あたしはいつものように笑って見せた。

「いいわ」

 いつもと何も変わらない。

 あたしはただ戦うだけのこと。

「あんたこそ、そんな格好で戦に出るつもりじゃないわよね?」

 アレスはといえば、まだゆったりした布を巻いただけの、むしろくつろいだ風情で、今にもアフロディーテの寝室にでも行きそうにすら見えた。

「鎧を着るのに時間はいらない。ぼくはね」

 と、言ってから、彼らしい皮肉を付け加えて、あたしの緊張もほぐしてくれた。

「貴婦人が着飾るのには時間がかかるもんだって、アフロディーテのおかげで身に染みて思い知ってるからね。気にしないで」

「そうね」

 言われてみればそのとおりだ。

 女神が冥府の王の招待に応じるのに、どれほどの時間を割いて化粧し衣装を選んだか、考えるだけで待ちくたびれそうだが。

 よくよく考えたら、あたしたちのしていることは同じだ。アフロディーテやデーメーテル・ペルセポネー母娘はその美しさでオリュンポスを生き抜いてきた。毎日が戦争だったのは、あたしたちだけではないのだ。

「アフロディーテに挨拶はいいの?」

「もう済ませた。彼女は全部分かってるよ」

「そう」

 あたしは頷いてから、ゼウスから拝領の黄金の兜を手に取り、しっくりくるところまでゆっくりと冠った。

 それはまるで羽か雲でできているように軽く、あたし自身の体の一部のように自然に馴染んだ。

「いいね、お似合いだ」

「ありがと」

 あたしたちは互いに笑いあい、そしてあたしが一瞬だけ笑みで目を細めているうちに、目の前にはすべての装備を整えたアレスが立っていた。

 赤鉄鉱の鎧に銅と黒瑪瑙の飾り、漆黒のマントに、オリュンポスじゅうの神々の祝福を受けたオリハルコンの剣が、鞘の中からでも輝きを放っているのが見えた。

 その早変わりを見届けただけでも、あたしは満足しそうになったほどだ。

 こうして見ると、弟は本当に父に似ていた。あたしたちの育ての親、あの強くて優しい、だいすきなアロセウスおとうさまに。


 そして、窓からは。はるか遠く、明けの明星が、海辺の断崖に張り出した葡萄の木の枝の葉先に、今にもこぼれ落ちそうな水滴のごとくひっかかっているのが見えた。

「じゃあ、行きましょうか」

「うん、そうだね」

 時は来た。

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