第14話 宣戦布告

 ゼウスからの開戦宣言は、やがて出た。

 その命令が下りたのは遅すぎるほどだったが、ゼウス自身は実際のティタノマキアを知らぬどころが産まれてもいない上、ただでさえ不死者が耄碌して、一日が一年にも、また百年が一瞬にも思えるようになってしまったのだから無理もない。ゼウスは、あのアテナの初陣から十年近く経っているのに、まだギガントマキアが収束したばかりという認識でいたようだ。

 しかし、今度ばかりは彼も重い腰を上げざるを得なかった。度重なるミマスからの挑発行為に、ヘーラーの堪忍袋の緒が切れたのだ。

「各地で崇められている女神たちを次々と陵辱しては愛人と成し子を産ませ、その夫面をして版図と信者を略奪するゼウスのやり方はまことに卑怯千万なり。ましてや人間の王女や王妃たちにまで同じことを行い、神々の血を薄めてまで支配を強めんとするやり方は、神々の王としてはふさわしくない。それを認めている王妃ヘーラーも同罪、いやそれ以上に重い罪人である。神々の女王としての誇りを自ら捨てたヘーラーなど女神とは認めぬ。我らは純血種の誇りをもってオリュンポスに宣戦布告する。我らこそが神であり、ミマスこそが王にふさわしい」

 ミマスは己の家来たちを使って、世界中にそう触れ回ったのだ。

「やれやれ。仕方のない小僧だのう」

 ゼウスは小指で耳をほじりながらつぶやくと、あたしに向かって退屈そうに言った。

「さっさとけりをつけて参れ」

 彼がいささか不機嫌だったのは、ミマスのこの流言のせいでヘーラーのやきもちがいっそうひどくなり、そのころ特に気に入っていた、とある人間の姫君と会えなくされてしまっていたからだ。口説き落とすまで後一歩というところだったらしいから、あたしとしてはいい気味だったが。

 そんなことよりも。

「かしこまりました、お父様、いえ、偉大なるゼウス様。必ずやご命令どおり、ミマスとその妻とやらをこのオリュンポスの床に引きずり出してご覧に入れますわ」

 あたしは嬉々として答えていた。

 やっと戦える。待ちに待った時が来た。

 体じゅうの血が沸騰するような気がした。鼓動が高まり、自然と瞳孔が開き、呼吸が速くなるのを感じた。

 あたしの顔が思わず輝いたのが見えたのだろう、珍しくヘーラーからも声がかかった。

「黄金のアテナ、戦の女神よ。その本質を見せておやり」

「はい」

 その本質、という響きは厳粛だった。正直ヘーラーのことは大嫌いだったが、あたしはその言い方はとても気に入った。

 そう、あたしは戦の女神。そのために生まれてきた。

 やっとだ。やっと戦える。

「おおおおおおおーっ!」

 そのとき、あたしの唇から激しい雄叫びが上がっていたと、後から弟に聞いて知った。


「下知が出た! 戦よ!」

 あたしは自分の声が弾んでいることにようやく気付いた。

「嬉しそうですな、アテナ様」

 ヘパイストスが笑顔で出迎えてくれる。彼もまた、あたしとは別の種類の興奮を覚えていたに違いない。

 ティタンよりもはるかに小さく非力な人間どもが、ティタンにとっては指先で捻り潰せる蟻程度の人間という弱い存在が、強大な神々と対等に戦うためには、いかなる武器が必要かを、彼はこの八年、精魂込めて研究し、試作を繰り返し、作り続けてきた。新しいものを、もっと新しいものをと。

 その苦労が報われるのだ。いや、それは確かに試行錯誤と失敗の繰り返しではあったが、彼にとっては苦労ではなく喜びだっただろう。その成果を、ついに泥人形だの岩山だのに対してではなく、ほんもののティタンに向かって試せるのだ。血沸き胸躍らぬわけがなかった。

「やっとか。待ちくたびれて、この戦にはもう飽きかけてたところだったよ」

 一番冷静なのがアレスなのが、全てを物語っていた。彼は世間では、戦争のもたらす破壊と恐怖と暴力の象徴、傍若無人な愚か者のように言われているが、だとしたらそんな愚か者が、常勝不敗であるはずがない。彼は確かに子供が遊ぶように無邪気に人を殺すが、戦のこととなると、一番冷静沈着になる。だからこそ余計に、冷酷な雰囲気に見えるのかもしれないが。

「あんたの頭の中では、もう決着はついてるのね」

「当然」

 弟はニヤリと笑った。小生意気な餓鬼のような、それでいてどうしても憎めないいつもの笑顔で。

 アレスの素顔を見たものは皆、本気で彼のことを信頼し、愛情を持って接するようになる。今ではこうして、すっかりアフロディーテの神殿の大広間の真ん中に座って、まるでここが彼の持ち物であるかのように振る舞っている。愛するアフロディーテは勿論、その本来の夫であるはずのヘパイストスも、神殿の巫女たちも皆、当たり前のようにそれを受け入れ、神殿の背後にある広大な土地は、すっかりあたしたち姉弟の軍隊の本拠となっていた。今ではここで二万人の兵士が暮らしている。

 しかし、そんなあたしの思いなどまるで気にした様子もなく、アレスは葡萄酒の杯をこちらに差し出しながら言う。

「ミマスは確かに素晴らしい将軍みたいだね。アテナねえさまとヘパイストス様の作った模型は、実に良くできてる。ヤツのかみさんがかなりの策士だというのは本当だろう。だけど、あのお触れ回りの文言は品がないな……っていうのは、アフロディーテの意見なんだけどね」

「というと?」

「でも、わたくしごときが口を挟むようなことでは」

「あたしが聞かせてって言ってるのよ、お願い」

 少し強い口調で言うと、アフロディーテは伏し目がちになりながら、躊躇いつつも、その美しい唇を開いた。

「つまり、あのように書かれては……わたくしがゼウス様の版図に新たに加わった住民だとしたら、反発致します。自らの信仰する女神や、お仕えする女王、またその夫君への侮辱だと感じますわ」

 と、彼女は言葉を切り、口にすべきかどうかしばらく迷ってから、救いを求めるようにアレスの方を見た。

 すると、なんと、あたしの弟は、なんとも堂々とした頼もしい態度で優しく微笑み、小さく頷いたものだ。

 それだけで、アフロディーテは、彼女を育んだシャコガイのように重い口から、その考えを述べた。

「自分たちが愛しているものを陵辱されたとて、ゼウス様は彼ら民衆から、愛の対象を奪ったわけではございません。確かにゼウス様のなさりようは強引ですが、そのあたりのさじ加減は心得ておいでです。ですから、そのような次第で新たにゼウス様を崇めるようになった人々が屈辱に思うのは、もともとゼウス様やヘーラー様を崇めていた、オリュンポスの民から軽蔑のまなざしを向けられていることでしょう。アテナ様はお気づきでしたか、兵士たちの間にも、そのような差別があることを」

「知らなかったわ」

 あたしは正直に答えてから、弟に訪ねた。

「アレス、あんた知ってたのね」

「彼女に言われて気付いたよ。それで、調練の時に観察した。ゼウスの征服地から集められた兵士は、オリュンポスの兵士……要するに、もともとこのテッサリアとマケドニアの住人だね、そいつらから馬鹿にされて、田舎者呼ばわりされてる。もっとひどいのだと、『寝取られ亭主の信者ども』なんて言い方もあるらしいよ。ぼくにも喧嘩売ってるんだ、そいつらはアテナねえさまの下では戦いたいけど、ぼくの兵士にはなりたくないと平気で言うくらい」

「ですがアテナ様、そのようなオリュンポスの兵士を責めないでやって下さいまし。彼らにとっては、この選ばれた地に生まれ育ち、生まれた時からゼウス様を神の王として愛し、自らの愛の誓いをヘーラー様に捧げたのが誇りなのです」

「なるほどね」

 あたしはふたりの意見を聞いて初めて、オリュンポスの支配下に新たに加わった人々の心を思いやるという視点に気付かされた。そして、その視点を、あたしよりも先に、兵士たちにずっと近いところにいるアレスに気付かせてくれたことに感謝した。

「やっぱりあんたって冴えてる。さすが愛の女神よ、人の心を読むのは専門家ね、アフロディーテ」

「いえ、そんな……差し出たことを申しました」

 また伏し目がちになったときの、アフロディーテの美しいことといったらなかった。女のあたしでさえ、一瞬軽く頭を振って、思考を現実に引き戻さねばならなかったくらいだ。

「愛の女神アフロディーテに感謝の乾杯を。おふざけではなくて、本当に参考になったわ」

 思わず見ほれたことを悟られたくなくて、あたしはちょっと言い訳がましく聞こえるかもしれなかったが、アフロディーテに賛嘆の杯を捧げてから飲み干した。

「まずひとつは、これはとても重要なことだけれど、つまりミマスは、ティタンについてはともかくとして、今この土地に生きている人間の心持ちは察していないってことね」

「察してないんじゃなくて、最初から分からないのさ。生まれついての純血種だもの」

 アレスも葡萄酒の乾杯を捧げてから、ふと、あの、寂しげな子供のような目になった。

「アフロディーテもヘパイストスも、ぼくがいなかったら、そのあたりのことは分からなかっただろうね。勿論、アテナねえさまも」

 これが、アフロディーテが恋に落ちたまなざしだ。繊細で悲しげで、まるでこの世に自分ひとりきりでいるかのような、それでいて泣いているのではなく、かすかに微笑んでいるようにすら見える、アレスだけの笑み。

 弟はその澄んだ目でどこか遠くを見つめたまま、ほとんど抑揚がないくらい淡々と言った。

「いつか必ず死ぬ者の、失うものなど何もない必死さを、最初から何も持たずに生まれてきた者の捨て身の覚悟を、ミマスは知らない。それが、ヤツの最初の間違い」

 そのとき、弟はあのギガントマキアを思い出していたのかもしれない。勝ち目のない戦の囮役を自ら買って出たのは、マケドニアの市民権を求めている移民たちがほとんどだった。逃げ遅れれば必ず死ぬ。あたしの挟撃が一瞬でもずれたら死ぬ。そんな条件で囮に志願するのは、持たざるものだけだ。

「それからもうひとつ。ヤツは、確かにティタンの中では若い世代だろうさ。だけど、不死のティタンなんかより、ぼくやアテナねえさまの方がずっと若い。どんなに新しい戦術を立てようが、それは所詮ティタンの戦術、不死者の古くさい策謀だ」

 と、アレスは杯を置くと、テーブルに盛られていた林檎の一つを掴んで握り潰した。

「古い連中に見せつけてやろうよ。ぼくたちが鍛え上げた、必ず死ぬ運命の者たちの戦いぶりを。新しい時代の戦争を」

 そう、あたしたちの兵士の多くは、この砕けた林檎のように、容易く死ぬ。

 だからこそ、必死に戦う。まさに、命を賭けて。

 それが弟の見つけ出した答えなのだ。冥府の王ハデスと親しく振る舞っていたのは、この結論に至るためだったのかもしれない。

「それから、アテナねえさまの言いたい、ふたつ目の発見も分かるよ。人間という生き物は、必ず自分と相手の力関係を見極めることで、群れの中での自分の位置を知るってね。あいつは俺より偉い、でもこいつは俺より格下だ、って、そうやってみて初めて、自分がどこに立っているのかが分かる。愚かなもんだよね」

 弟の言うとおりだった。まるで心を読まれたようにすら感じた。

 だからあたしは、どこかで人間というものを愚かだと思っていた。見下していたと言った方がいいかもしれない。

 だが、自らが神の子であることを知らず、末っ子に生まれたアレスは、そうやって自分のいるべき場所を手探りで見極めながら、あの小さな家で育ったのかもしれないと、あたしは不意に思った。何も知らない母とアラクネ、もともと女神として生まれたことを知っているあたし、そして実は全てを知っていたアルセロスお父様に嫌われないために、少しでも愛されるように、気弱で従順な男の子として生きるしかなかった。

 弟が愚かだと言ったのは自分自身のことなのだ。そう理解した途端、辛くて胸が張り裂けるような気がした。

 だが、アレスは遠い目のまま、杯に葡萄酒を注いで口を湿らせながら続けた。

「だから、本来のオリュンポス出身者の騎馬兵、天馬兵、弓兵はすべてアテナねえさまの指揮下に置いた。早い時期にゼウスが手に入れた土地の連中は歩兵連隊にしてある。残りの、オリュンポスへの新参者、征服地からの兵士は騎兵歩兵関係なくぼくが指揮する。ぼくの部下は一度ゼウスの略奪を経験したことのある連中だ、略奪する側に回ったらどうなると思う? まさに暴力と恐怖と混乱、敵も味方も関係ない。動いているものは全て殺す。だから、ぼくの兵隊は強いよ」

 と、ようやくこちらを見た弟の目は、既にあの頼りなげな少年のものではなく、まさしく『軍神』の名にふさわしい自信に満ちた輝きを放っていた。

 あたしは内心の同様を悟られまいと、冗談めかして肩をすくめて笑った。

「あんた、ずいぶん怖いこと考えてたのね」

「そう?」

 これには、アレスはむしろ意外そうに目を見開いた。

「十八年と十一ヶ月と二十二日、ぼくは考えてたんだよ」

「そんなに?」

 その歳月の長さと、その精密さに、あたしはそれまでの不安やおののきを忘れるほど驚いたものだったが。

 弟は座ったまま手を伸ばして、小さい子供たちに果ての届かないところに吊るしてある篭を引き寄せた。

「毎日ね。アラクネねえさまが、蜘蛛の糸の結び目で歳月を数えてくれてたんだ。見て」

 その、丁寧に藤で編まれた篭には、雪のような白と透明と真珠色の入り交じった糸が入っていた。いくつかは糸玉にされ、糸巻きに巻いてある一本には、いくつかの結び目がある。

「この大きな糸の塊が一年。この中くらいの、いくつか並んでるのが月。それで、この結び目が一日」

 この糸には、あたしも確かに見覚えがあった。というより、毎朝と夜に、水晶の鎖に紛れて寝台の上に、これと同じものが張り巡らされている。

「アラクネねえさま、ありがとう。暦をつけてくれてたのね」

 あたしは背後を振り返り、この部屋のどこかにいるであろう彼女の化身、いや、彼女の一部である蜘蛛に感謝の言葉を述べた。

 毎日こうしてもひとつずつ編み目を作り、結び目を整え、歳月を数えるなど、途方もない苦労だったろう。いまやアラクネねえさまは、この時間のない世界での時の流れを唯一記録してくれている証人であり観察者だった。

 あたしはずっと、彼女をこんな世界に引き入れてしまったことを後悔していた。アラクネはただの人間だったのだから、ただの人間として、ひとつきりの命の中で生きるべきだったのではないかと。

 蜘蛛の姿になって、世界中のありとあらゆる蜘蛛を通して世界を眺める女神に、あたしが彼女を変えてしまった。それが自分の、神の傲慢なのではないかとずっと逡巡していた。

 だが。

 いま直接彼女に伝える術がないのがもどかしいほど、あたしはうれしかった。

 いつも見守ってくれている。いつもそばにいてくれる。

 ありがとう、おねえさま。

 アラクネねえさま、本当にありがとう。ごめんなさい。

 あなたが一緒にいてくれるから、あたし、何も怖くないわ。

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