闇を背負って

 薄暗い闇を一層濃くしたような路地裏の迷路を、キトリは彷徨っていた。二度目の外の世界、初めて飛び出した時は広い広い空や前ばかりを見ていたが、今は素足に突き刺さる瓦礫の破片を避けるように逃げるように、下を向いてただただ走っていた。荒げた息が耳元で煩く響き始める。……止まってはいけない。もっと遠くへ……

 

 どのくらい走ってきたのか、何度も同じような三叉路の細道を今度は左に曲がった所で、キトリは横から飛び出た漆黒の杭に右腰を打ち付け錐揉みするように地面に倒れた。……痛い。……痛い。酸素の足りなくなった脳は、もはや言葉すら上手く繋げない。出てくる単語一つ一つがキトリの左腕を疼かせた。痣になってしまっただろうか、暗くて良く見えないが兎に角痛い。キトリは腰をさすりながら立ち上がろうとして、そこにくくりつけたはずの巾着が無くなっている事に気がついた。

 

「……え!? ど、どこっ……」

 今の衝撃で落としたか紐が切れたのだとしたら、傍に落ちているはずだ、と、キトリは家々の隙間から漏れるかすかな月明かりを頼りに手探りで地面をなぞった。無い……無い……

 

「痛っ……!!」

 四つんばいのキトリは、腰を打ちつけた杭に今度は頭をぶつけた。カッとなって思わず剥き出しになった左手を杭に叩き付けた。ガチッ……、という音はしなかった。まるで雲を切るような、そんな感触の無いまま、突き出た杭の先端が綺麗に斬り落とされた。予想外の結果に、前につんのめってしまったキトリの眼前を杭の先が落下し、ボスッと音を立てて落ちた。変な音の先を見やると、微かに丸いしなびた袋が見えた。目を凝らすと間違いなくそれは母がくれた巾着だった。

 

 ぱすっ、ぱすっ、と埃を払って、巾着を腰に括りつけたキトリは、その杭の先の通路を進む事にした。L字に曲がっていた通路はすぐに突き当たってしまったが、奥の壁に、古びて半壊したキトリの背丈半分くらいのドアが開いていた。中には何も無い。人一人がやっと入れるくらいの小さな物置だった。少し休んでいこう……キトリは疲れた体をその空間に埋めるように座った。

 

「…はぁ、……はぁ、…………はぁ、」

 切れた息がゆっくりと戻っていく。耳鳴りのような呼吸音も一緒に消えていった。壊れたドアを閉められるだけ閉め、今度は丸まるように寝転んだ。……此処は匂いがしない。いつもはゴミと一緒に寝ているから、鼻を突く腐臭が少なからずしていたのに……。もうあそこで寝る事も無いのかな……帰ることも、無いんだな、ううん、ダメだ、ダメだって、思い出したらダメなんだ。何のために、最後にお母さんの顔も見ぬままに飛び出したと思っているんだ……、もう、僕は。一人で。

 キトリは腰の巾着をぎゅっと握った。その圧力で、くにゃっ、と中で何かが凹んだ事に気がつき、手探りで巾着を開けて中身を確かめた。……これは………


「……パン……?」

 巾着には半欠けのパンが入っていた。よっぽど急いだのか、その断面を指でなぞるとボコボコで、明らかに手で千切って入れたものだった。その突出した部分だけを千切り取り、口へ運んだ。少し硬くなっていたパンは、口の中でゆっくりと柔らかくなり、大事に噛むと少しずつ甘くなってきた。美味しい…お母さんの、得意な、手作、り、パン……

 

 パンを一口食べ終わったキトリは、疲れた体の自由が更に利かなくなって行った。右手にパンを握ったまま、静かに眠りに落ちていく中で感じた小さな恐怖にも拒む事無く。

 

 壊れたドアから差し込む月明かりが、キトリの濡れた頬を光らせていた。

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