行きなさい、キトリ
どん! と胸を押し出されるように叩かれてキトリはハッとした。怒りの形相の母がそこにはいた。そうだ。僕が居るから兵は来る。僕がお母さんから離れれば、離れれば……(嫌だ)……お母さんは隠れていられる……(一緒に)……そうだ、今度は僕が……(嫌ダよ)……お父さんの代わりに……(嫌だけど)……お母さんを守るために(行こう)……
『行きなさい、キトリ』
その声を聞いてか聞かずか、キトリは立ち上がり、地に落ちていた母からもらった巾着を掴むと、目を合わせないように一目散に玄関に走った。兵の侵入で半開きになっていた戸に体当たりをしてぶち開け、漆黒の裏路地へと消えていった。
きぃぃ、ぎぃぃと玄関の重たいドアの音。
静寂。
リ、リ、リと小さな虫の鳴く声。
静寂。
シエラはそっとソルマの頭に手を置き、ゆっくりとゆっくりとその髪を手櫛で梳いた。
『これで、よかったのよね……あなた』
まだ暖かい夫の体をぎゅっと抱き寄せた。強く握り締めれば締めるだけぽろぽろと涙が零れてきた。どうして行かせてしまったのか。レーダーがあるのなら、どうせ逃げられないのなら、一緒に逃げて、末路を辿ればいいだけ、それぐらいの気持ちは持っていたはずなのに……あの子とは、もう二度と、会え……な……い。
涙の落ちる音はやがて嗚咽に変わり、ついには子供のように咽び、泣き喚き出した。一人で居るには大きすぎる製鉄場は、その詫びの叫声を寂しげに響かせた。
そう、あの子はゼロ・レイス。
だとしたら、あの子と一緒に居て起こり得る可能性があるのは・・・あの子の前で私が命を失う事。
あの子は、ゼロ・レイス。私達の子ども。
決して殺されるのではなく、どんなに辛くとも生きていけるはずだという事。
『ごめんね。キトリ……』
ぴしっ、とシエラは己の頬を叩いた。それは、歪んだ愛だと解って起こした行動を戒めるためだったのかもしれない。ゆっくりと立ち上がり、炉の近くに置いてあったスコップを手にとった。……製鉄場の硬い土の地面に突き立て、重い土砂を投げ捨てて行く。背中の傷が疼くたびに、汗が滴り落ちるたびに、あの子は大丈夫。あの子は生きる。そんな事ばかりが頭を駆け巡った。
細長い、深めの穴が一つ。
そこから離れた製鉄場の隅のほうに同じような穴を三つ掘った。
ソルマをその深い一つに収め、手を組ませてあげた時には、既に台所の扉からうっすらと陽の光が差し込み始めていた。
あの子は…大丈夫。あの子は…生きる。
きゅっと結んだままだった唇をゆっくりと解き、そのまま夫の唇と合わせた。
『ありがとう、あなた………』
そうして、ゆっくりと積んだ土を手で取り、優しく優しく夫に被せていった。
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