それでも、なお
瞬間的に現実に戻されて訪れた静寂は、あまりに悲惨なものだった。キトリは放送が終わってなお、その両耳を塞ぎ続けていた。彼には長たらしい放送が、ただ『お前を捕まえに行くぞ。お前を捕まえに行くぞ。お前を捕まえに行くぞ。お前を捕まえに行くぞ! お前を捕まえに行くぞ!!』と呪詛のように繰り返されているだけに聞こえていた。
キトリの母の組まれた手の指先から、血が滲み出ていた。ずっと俯き、何かに祈るような格好で放送を聞いていた母は、キッ、と上を向き虚空を暫し眺めた後、キトリの方を向いてこう言った。
キトリの父は握り拳を開き、放送が終わると同時にその手をだらり、と降ろした。天を仰いでいた顔はゆっくりと俯いていき、その目は母と同じく虚空を見つめていた。しかし、また拳を握り締め、小さく頷いてからキトリの方を向いてこう"言った"。
『キトリ、隠れて』
『キトリ、隠れなさい』
キトリには解っていた。そんな事をしても意味が無い事くらいは。キトリだけではない、此処に居る者全てがそんな事は承知していた。それでも、なお、両親は隠れろと言った。それが何を意味するのか、この時はまだ理解できるはずもないまま。
製鉄場に続くドアを見やった。駆け出そうとするキトリの手を父が掴んだ。顔は母の方を向いていたがもう母は祈りの位置には居なかった。走って戻ってくる母の手には小さな布袋が握られており、それをキトリに手渡すと、飛ばされるような強さで父がキトリの背中を押した。躓きそうになるのを必死にこらえ、製鉄場に続くドアを押し抜け、一目散に廃物置き場へ走った。飛び込むように掛け入り、シャッターを閉めて身を潜めた。キトリは父の声をはっきりと聞いた事への何かしらの反応さえも噛み締めている余裕など微塵も無かった。
……もう何時間も経ったような気がする。たった数分の沈黙の間にも関わらず全身に汗が吹き出ていた。身動き一つせず、呼吸すらろくにしないで、キトリはゴミの中に身を潜めていた。小さな布袋には何やら堅い物が入っている事だけがかろうじて指先で解った。製鉄機械の音もしていない廃物置き場は、不気味な程静かだった。
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