(17) 歌声

 琥珀は、ただ静かに涙を流していた。

 頬を撫でるように冷たいものが流れゆくのを感じながら、目を閉じる。


 自分を救ってくれた人が、知らないところで亡くなっていた。

 その事実を、簡単に受け止められるわけがない。

 だけど、この【歌声】に耳を澄ませていると、心の中のわだかまりが、少しずつ薄れていく。


 産まれてからいままで、琥珀は誰からも愛されることなく育ってきた。そんな彼に、礼亜が包み込むような優しさを与えてくれた。


 だから最後に一言だけ。彼女に伝えよう。


「ありがとう、礼亜」




 水鶏は、ただ陽性を見つめていた。


(みっともない)


 陽性はまるで魂が抜けたしかばねのように、茫然と畳に目を落としている。

 白銀礼亜とは、面識がない。姉の友人だったというわけでもないらしい。

 けれど、姉の肉体を借りている、礼亜の魂のことは水鶏も知っている。


 礼亜は優しい人だ。だからこそ琥珀も心を許しているし、陽性も好きになったのだろう。

 記憶を取り戻した礼亜は、もうこの世に留まることはできない。


 これから、陽性はどうするのだろうか。

 この屋敷で一緒に暮らすことができて、水鶏はとてもうれしかった。

 でも礼亜がいなくなったら、陽性は屋敷を出て行ってしまうかもしれない。


(それは嫌だなぁ)


 二年以上、一緒に暮らしてきたのだ。

 憧れを抱いている彼の傍にいられなくなると思うと、少し胸がズキッと痛む。


 ああ、でも。


 礼亜がいなくなると、寂しがり屋の陽性は、本当に生きた屍のようになってしまうかもしれない。

 それなら傍で支えてあげられると、そう思う自分の気持ちが嫌になり、隠すように水鶏は唇を引き結んだ。


 野崎唄の歌声は、そんな悩む水鶏の心も、優しく洗浄してくれる。




 ヒカリは、ただ唄の顔を見上げていた。

 彼女の歌声は、いつ聴いても濁りがなく、彼女のやさしさと同じように、じんっと心を和らいでくれる。


 唄は、自分の歌声が異能によるおかげだと、そう考えている節がある。けれどヒカリは知っている。彼女が幼いころからどれだけ努力してきたのか。幼馴染であるヒカリは、よく知っている。


 夏休みの補習で、担任の山崎壱郎先生が言っていたことを思い出した。


『――異能力は磨けば磨くほど輝く、原石にしか過ぎないのです。使うものが努力を怠れば、異能はあっても意味ないものとなり果ててしまうでしょう。けれど、もし努力をして異能を磨いたら――何が起こるのかは、その人次第となりますね』


 普段から熱弁をたれているわけではない、穏やかな先生の言葉は、妙にヒカリの心に残っている。


 その言葉を聞いた時、ヒカリは唄のことを思った。

 彼女の【歌声】が人の心を震わせるのは、それは彼女がたくさん努力をしてきたからなのだ、と。


 いくら悔しい思いをしても、くじけない芯の強いところが唄にはある。

 たまに脆くなっても、すぐに曲がらず伸ばしてしまうから、彼女は中々自分の悩みを口にしない。


 そんな彼女の傍にいたいと思った。

 そう思ったら、気づいたら彼女のことが好きになっていた。

 中々気持ちが口にできない自分が、じれったい。


 自身の気持ちを再確認したら、顔が熱くなった。

 体育座りをして、俯くことにより顔を覆い隠す。


 ぐぅ、とヒカリのお腹が鳴った。


(そういえば、朝から何も食べてねぇ)


 通りでお腹が空いてるはずだ。




 風羽は目を閉じて、ただ静かに耳を澄ませていた。

 唄の歌声は、こんなにも綺麗に澄んでいるのに、どうして悲しそうに聴こえるのだろうか。


 歌声は、聴いている本人によって、受け取り方が変わるものだ。だとすると、唄の声が切なく聴こえるのは――風羽本人にあるのだろう。心当たりは、ある。

 久しぶりに聴く唄の歌声は、やさしく風羽の心を揺さぶってきた。隠し事を暴こうとしているみたいに。


(…………)


 気持ちを落ち着ける。

 問題はこれからだ。


 唄は、両親が怪盗をやめた理由を突きとめるために、『怪盗メロディー』になった。

 隠された真実を知ったいま、彼女はこれからどうするのだろうか。


 怪盗をやめてしまうのだろうか。

 そうすると、風羽はもう仲間ではいられなくなってしまう。

 唄の傍にいる口実がなくなり、彼女を守れなくなってしまう。


(どうするんだい、唄。僕は、まだ怪盗を続けていたいんだけどね)


 一年ほど前に、精霊遣いの力を得た風羽は、幻想学園に転校してきた。

 そこで唄の顔を見た瞬間、風羽は運命だと思った。


 あの時成し遂げられなかったことをしなければ、と。

 守れなかった幼馴染の代わりに、似た雰囲気を持つ唄を守ろうと。

 だから、唄のことを兄に調べて貰って、『怪盗メロディー』として活動していることを知り、仲間になることができた。これで守れると思った。


 ――唄は、そう簡単に怪盗をやめるのだろうか。

 ヒカリに比べると、風羽が唄と一緒にいたのは、たったの一年だけ。


 それでもわかっていることはある。

 唄は、とても楽しそうに、怪盗をやっていたのだ。

 そんな彼女が、そう簡単に怪盗をやめるわけがないだろう。

 【歌声】は、もうすぐ終わりを告げていた。




 はっと、陽性は我に返る。


 礼亜の魂が今度こそ消えてしまうのだと想うと、思考がこんがらがり、まともに考えることができなくなった。

 けれど、耳から侵入してくる、切なさを帯びた【歌声】が、少しずつ陽性の心を刺激して、動かしてくれる。


 【歌声】は、最期の一節を歌いきると、余韻を残して静かになった。

 同時に、御簾の向こうで人が倒れるような音がした。


 陽性は立ち上がると、慌てて御簾に近づく。


「れい、あ」


 そうであって欲しいと、願っている自分がいる。

 違うとわかっているのに、もう、礼亜の魂は優しい歌声と共に成仏したというのに――。


 御簾を捲る手が止まる。

 このまま捲らなければ、真実を知らないで済むかもしれない。

 ずっと礼亜が生きていると、そうつらい現実から目を逸らして、偶像を追いかけていられるかもしれない。


(だから、いつも水鶏に怒られるのですね)


 ぶっきらぼうに、口を尖らせる水鶏の顔が、脳裏に浮かんだ。


 白亜は、水鶏の大切な姉だ。

 いつまでも、礼亜として、扱ってはいけない。


(もう逃げない)


 逃げてばかりいたら、きっと、自分を最期まで愛してくれた彼女にまで、叱られてしまう。

 現実を受け止めるために、陽性はいっきに御簾を捲り上げた。


 白い、白い、まだ幼い少女に見える女性が、倒れていた。


 彼女の体を抱え上げる。

 白亜の体は、禁忌とされている【魂見】の最期の能力を使ってしまったためか、あの頃に比べると小柄になってしまった。色素が抜け落ち、透き通るほど白い髪の毛を、労わるように触る。


 すると、白いまつげを瞬かせ、彼女が目を覚ました。

 その白い瞳を見て、陽性はやっと実感する。


 本当に、礼亜の魂は成仏したのだと。


(ずっと覚えているよ、礼亜)


 彼女に言葉は届いたのだろうか? それを知るすべはないが、確かに届いたのだと、そう信じることにした。


 心に刻み込める想いと共に、陽性は抱えている女性の顔を覗き込んだ。

 礼亜に体を貸してくれた、山原白亜は、また眠りの世界に落ちてしまったらしい。

 今度は、精神の奥底で眠ることなく、すぐに目を覚ますだろう。


 ――自分は、これからどうするのだろうか。

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