(16) 覚えていて

 朧げな頭は、夢から覚めると、すぐに鮮明になる。寝起きが良いというよりも、まるで体が睡眠を必要としていないような不思議な間隔だ。


 たまに、自分の体が、自分のものではないように感じることもある。

 確かにあるはずの記憶が、ところどころ擦れていたり、全く知らない誰かと共有しているような、もどかしい間隔さえ感じていた。


 白亜は――白亜様と呼ばれたは、いま、それらのすべての理由わけを知ってしまった。

 理由を知ったらどうなるのか、それを体感しながら、彼女はそっと白い睫毛と共に瞼を開く。


「陽性」


 優しく、彼の名前を呼ぶ。

 普段も口にしていたはずのその名前は、妙に懐かしく感じる響きを含んでいた。


 御簾の近くに寄る。

 長い白髪を耳に掛けながら、白亜の体を借りている礼亜は、静かに切り出した。


「陽性。それで、話は終わりでよいか?」


 息を飲むような短い間のあと、「はい」という陽性の言葉が耳に届いた。


 は、は、もうすべてを思い出していた。

 きっと、彼の言葉が礼亜の記憶を呼び覚ます引き金トリガーになっていたのだろう。

 どうして今まで忘れていたのか不思議なほど、彼との記憶が鮮明に呼び起こされる。


 両親が事故で亡くなり悲しんでいた時、暖かい手で握りしめてくれたこと。

 中学に上がり、彼に対する自分の気持ちが恋だということに気付き、自らの思いを打ち明けたこと。

 赤い顔を見られたくなくて俯いていたら、嬉しそうな彼に抱きしめられたこと。

 初デートでした、彼との忘れられないファーストキスのこと。

 怪盗をやっていたこと。心配してくれた彼の言葉よりも、自分の気持ちを優先してしまったこと。『虹色のダイヤモンド』に呑み込まれる際、彼の名前を呼んでいたこと。


 すべての想いが波のように溢れて、心が揺さぶられる。

 頬に涙が伝う感触がした。

 それを拭うことはせず、礼亜は、静かに言葉を続ける。


 自分は、今まで充分幸せだった。

 陽性と一緒に暮らせて、彼と愛し合うことができて、それらはもう溢れんばかりに満ち足りている。


 この体は、自分のものではない。

 ちゃんと持ち主に、返さなければならない。

 そのために、いま、彼とお別れをするのだ。


「陽性。妾は――」


 もう自分を偽るための言葉はやめよう。


「私は、陽性と出会えて、本当によかったよ」

「……オレもそうだよ、礼亜」

「私は陽性を愛している」

「……オレも、愛している。ずっと、これからも」

「だから、陽性」


 息を吸う。

 陽性の言葉が聞こえてくる前に、礼亜はすべての想いを込めた言葉を、口にした。


「覚えていて。私がいなくなっても、ずっと、私のことを、覚えていて」


 自分はこのまま死んでしまうけれど、もう彼と会話をすることはできないけれど、自分のことを、ずっと、覚えていて欲しい。


 なんて残酷なのだろうと、礼亜は思う。

 彼はこれからも生きて行くのに、自分みたいな過去のしがらみに囚われ続けることになってしまう。礼亜のことを忘れることができず、他の誰かを愛することもできない。そんな孤独な日常を、陽性は生きていくことになる。


 願わくば、これから彼を愛してくれる人が現れますように。

 そんなことを、心の底から願うことができたら、どんなに良いだろうか。


 礼亜は、震える唇を開く。

 とあることを思い出した。

 この部屋の中にいる人物に、とても素敵な能力を持つ者がいることを。


「野崎唄さん」


 彼女は、両親から能力を受け継いでいる、先天的な能力者だ。

 一般的に、異能力は一人に一つしか宿らないとされている。けれど、中には例外もあった。


 たとえば、琥珀が【陰陽術】と【迫撃】という二つの能力を持っているように、野崎唄もまた二つの能力を持っていたはずだ。

 一つは【軽業】で、もう一つは【歌声】。


「ほんの少しでも構いません。私のために、歌っていただけませんか?」


 彼女の【歌声】には、異能が宿っている。

 その【歌声】には力があり、彼女が一度歌えば、誰もがその歌声の虜になるだろう。


 少しでも気持ちが和らぐように、これから消えてしまうこの脆いが、永遠に幸せでありますように。


 躊躇うような間のあと、しっかりとした少女の声が聞こえてきた。


「わかったわ」


 安堵して、礼亜は瞼を閉じる。



    ◇◆◇



 畳に手をつき、膝を立てて、唄は立ち上がった。

 視線が彼女に集まる。


 唄の両親は共に異能力者だ。

 母は、体を軽くする【軽業】と呼ばれる異能を操り、とあるサーカス団の華を飾っていた。父は喉を痛めてから異能を思うように操れなくなってしまい、サーカス団では下働きとして働いていたと聞いている。喉を痛める前は、世界各地を転々とするサーカス団で、ピエロの吟遊詩人として活躍していたらしい。父の謳う童謡を聴いたものは、物語の虜になったのだと、母からのろけ話を聞かされたこともある。


 唄は軽く深呼吸する。唇を湿らせ、小さく息を吸う。


 【歌声】は産まれたころから【軽業】と共に親しんでいる、唄の能力だ。

 使うのに特別な力は必要なく、一度歌をくちずさめば、その歌声には力宿り、聴くものすべての人を魅力する。


(いまは、優しい鎮魂曲しましょうか)


 唄はそう決めると、歌い始めた。

 出だしは好調、その続きもすらすらと、まるで自分の口じゃないかのように【歌声】が流れ出す。


 ふと昔のことを思い出した。小学生の時、歌の授業で、歌声を披露したときのこと。当時はまだ、能力の区別がつかず、あたりまえのように【歌声それ】を扱っていた。先生からは褒められたけれど、クラスメイトからは異能だから上手いのは当たり前だと言われてしまった。


 それが悔しかった。だけど、唄の【歌声】はどう足掻いても異能を孕んでしまう。

 だったら、それを余すことなく使えばいい。

 そう教えてくれたのが、ヒカリだったっけ。


 懐かしい思いが溢れて、【歌声】が不安定になる。すぐ取り持ったので、誰にも気づかれることはないだろう。


 気持ちを切り替える。

 いまは、白銀礼亜のために歌おう。


 幻想のような、夢の途中の、幸せな魂に。


 優しく導く、鎮魂曲を――。


 彼方まで届くように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る