竜胆花

初瀬灯

竜胆花

 小学四年生の秋のこと、私は遺書を書こうと決意した。

 何故私がそんな決意をしたかというと、その年は町内でスズメバチが例年よりも多く発生していて、うちの隣家の垣根にもスズメバチが巣を作っているのを見つけたのがきっかけだった。

 その巣はまだ作りかけの小さなもので、スズメバチ達がせっせと飛び交って何やらかを巣に塗り込めている最中だった。私はそれが興味深く、少し離れた軒先に腰掛けてその様子を眺めていた。すると私の様子に気づいた母が、悲鳴を上げながら私を家の中に引きずり込んだのだ。

 母のあまりの形相に、私は随分驚いた。

 私だって蜂が刺すことくらい知っているし、スズメバチが特に危険だから注意が必要だということも帰りのホームルームで聞いていた。だからまあ、私の行動はお世辞にも褒められたものではないことは認めざるを得ないが、それにしたって母の反応は少し大げさ過ぎやしないかと思った。

 不満げな私に、母から衝撃の事実が明かされたのだ。

 何でも私はアナフィなんとかとやらで、スズメバチに刺されたら一〇〇パーセントほぼ即死するのだそうだ。まさかと思ったけれど、大学病院でアレルギー検査をしての診断らしい。

 町中を飛んでいる例年よりやや多めなスズメバチ――もちろん私の方から先方を刺激するつもりはないけれど、なにせ愚かな虫けらなので何を勘違いして私に襲ってくるやら分からない。しかし、ただそれだけで私の人生は一巻の終わりになるのだ。

 それにも驚いたが、まだ十年も生きていない私にだって一つ間違えば死が訪れうるのだという事実を突きつけられたのは、子供ながらに衝撃だった。

 だから、遺書を書こうと思ったのだ。

 別にすぐに死ぬつもりはないのだけれど、何かの拍子で私が死んだ時に残された人達が無用な混乱をしないように、今のうちに一筆書き添えつつ身辺を整理しておこうと考えたのだ。

 そういうわけでその日の晩、私は自分の部屋にこもって早速遺書を書き始めた。

 国語辞書を片手に書き出しを考える。

『拝啓、皆様方。残念ながら私は死んでしまいました。こんなに早く死んでしまうとは私も思っていませんでしたが、これも運命のイタズラというものでしょう。』

 こんな感じでいいだろうか? どうもいまいち悲壮感が足りない気がする。でもあんまり自分に執着していると思われても面白くないので、多少クールな感じでも格好いいかもしれない。

 早速事務的な話に移ろうかとも思ったのだけど、流石にそれは淡泊過ぎると考え直した。私が死んだ場合は皆がこれを読むことになるだろうから、まず一つか二つ感動的な泣き所でも用意してあげた方が親切だろう。さしあたり家族にメッセージを書き送るのが王道か。

 順番は母、父、兄って感じかな? じゃあお母さんに何を書こうかしら、とペンを握ったところで階下から何やら言い争う声が聞こえてきた。

 毎度のことである。母と父が喧嘩をしているのだ。性格の不一致だか何だか知らないが、顔を合わせてはいがみ合っている。それでも私と兄が生まれたのだから上手くやったものだとは思うが、毎晩夫婦喧嘩を見せられる子供の身にもなって欲しい。

 しかも今晩の議題は、私にとって危険極まりない隣家の蜂の巣を何故放置していたのか、というものだった。本当にもう「うへぇー」って感じだ。喧嘩をするのは勝手だけど、私をダシにするのは勘弁願いたい。そもそも駆除までしなくても、父か母のどちらかが一言私のアレルギーについて警告していれば、私だって不用意にスズメバチの巣を観察しようなんてしなかったのだ。

 とはいえ、こんなことを愚痴っぽく書くのはあまり美しくない。私が如何に母を愛していたかとか、父を尊敬していたかとか書いておく方がいいだろう。清らかなことを書いておけば、父と母の心も浄化されるかもしれないし。いや、無理かな?

 ともあれ、母の手料理の美味しかったことや、父が飼い犬のノラの小屋を造ってくれた時の感動やらを苦心しつつも書き綴った。

 ちょっと歯が浮くというか、片腹痛い感じになってしまったけど、ものが遺書なのだから多少胃もたれするくらいで丁度いいだろう。

 兄の項はもう面倒になっていたのでちゃんと勉強しろよとだけ書いた。

 兄はもう中学生なのだけど、父母の悪い影響を受けてか最近少しグレ気味で、こっそり煙草を吸っているのを私は知っている。馬鹿なのは生まれつきなので仕方ないけど、こんなことで動じているようでは先行きが心配である。

 詰まるところ私も兄も父も母もそれぞれ他人なのだから、互いがそんなに嫌いならさっさと別れてしまえばいいのだ――と言ったら兄に激怒されたこともある。多感な時期だし、兄は兄で思うところがあるのだろう。私にはよく分からないけど。

「うん」

 何だか書いているうちに本当に死にそうな気分になってきた。

 メッセージはこんなところでいいだろう。続いて事務的な話に移る。遺書なのだから本題はむしろこっちだ。

 遺書となれば遺産相続の話は避けては通れないだろう。私の遺産というと郵便貯金に入っているのが全部だけど、お年玉もほとんど使わずに我慢して貯金にあてていたのでそれなりの金額はあるはずだ。

 相続先は兄になるのかな、やっぱり。

 兄にやるくらいなら慈善団体に寄付して欲しいと書いてもいいけど、それは流石にちょっとカドが立つだろう。これを読まれる時は私は死んでいるのだから、文面からは天使のような少女が思い浮かぶようにしていた方がいい。これまた我ながら片腹痛い話だが。

 ただし、くれぐれも私の貯金は大事に扱い、いざという時のために決して無駄遣いはせぬこと――と、厳重に書き添えておいた。

 あとはいくつか簡単に箇条書きに近い感じで書く。

 私の同級生で子供タレントの星井里奈(本名吉田里奈)は我がクラスの誇りなので、私がいなくても応援を続けること。

 ノラにきちんと餌をやること。

 ノラを毎日散歩に連れて行くこと。

 ノラのシャンプーは週に一回行うこと。

 ノラに予防接種を定期的に受けさせること。

「うーん」

 私は唸ってから、書き終えた紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放った。

 これはノラの項目を別に用意すべきかもしれない。思えば犬とはいえノラは立派な家族なのだ。しかも父母のように無駄な喧嘩はしないし兄のように煙草も吸わない。私の言うことはきちんと聞く、とても可愛い奴だ。

 ノラとの馴れ初めにもちょっとした思い出がある。私達がこの町にやってきたのは二年前のことで、それ以前は三つほど離れた町の借家に住んでいた。その家の近所に花屋さんがあって、そこに置いてあった青紫色の花がとても綺麗で、私はずっとそれに見とれていた。その花屋のお姉さんがとても親切な人で、せっかくだからと私にその青紫色の花をくれたのだ。しかし家の庭は日当たりが悪く、その花を植えるには適さないと言われた。仕方がないので近所の公園の隅の方に勝手に植えた。

 それがいつの間にやら繁殖して、数年後の秋には公園の外縁をぐるっと青紫色の花がなぞるくらいになっていた。私としては小気味良かったので、特に用がなくても半球体の遊具の中で長い時間を過ごしたり、滑り台の上から花を眺めたりしていた。

 そんなある日、私の花壇を掘り返しているけしからん子犬を見つけた。それがノラだ。

 大抵の子犬は可愛く出来ているので私は一目で気に入った。大した悶着もなくすんなり飼えることになった気がする。少なくとも記憶に残らないくらいにはすんなりだった。

 名前は野良犬だったからノラ。正直、安直だったと思う。

 まあそれはいいのだけど、私がいなくなった後のノラは少々心配だ。家族のうちで一番私に懐いているのは言うまでもないけど、まともに世話をしているのも私だけだ。今は両親も私に義理立てして予防接種や私の不在時の面倒なんかは見ているけど、私が死んでも続けてくれるかどうか、どうも怪しい。

 私はそろりと家の外に出た。おっかなびっくりといった足取りだったが、幸いにもスズメバチに襲われることなくノラの小屋まで辿りついた。ノラはもう寝ていたが、私に気づくと尻尾を振りながら擦り寄ってきた。

「ねえ、ノラ」

 私はノラの目をまっすぐ見ながら話しかける。

「あんた、私がいなくなったらどうする?」

 ノラはぺろりと私の頬のなめた。



 明くる日は日曜日。気持ちいいくらいの晴天だ。その日の午前のうちにコンビニでサンドイッチとペットボトルのお茶を買って、遠出をする準備を整えた。

 そしてお昼過ぎに、リュックを背負ってノラを繋いだリードを片手に旅だったのだ。

 一晩考えた結果、私が亡き後に残された人達はノラの面倒を見ないだろうという結論に至った。ろくに餌をやらないで放置するかもしれないし、下手をすれば保健所だ。そんなことは断じて許せない。

 それもこれもノラが我が家に縛りつけられているせいだ。ノラは元々野良なのだから、一匹でも十分に生きていけるのだ。それなら私がスズメバチに刺される前に、私達という檻から解放してあげようと、そう決意した。で、あるならばいっそ野良犬として生活していた三軒隣の町まで帰した方が勝手が分かっていいだろうと考えた。

 帰りはバスで済むが、行きは徒歩じゃないと仕方ない。遠足を優に上回る距離をひたすらに歩き続けて、私はようやく以前住んでいた町まで辿り着いた。閑静なベッドタウンで、余所者の関心を引くものは何もない。一応観光資源としてはなんとか古墳とかいう大昔の墓があるらしい。一度だけ中の石室に入ったことがあるけど「古墳なんだなあ」と思っただけで他の感想は何もなかった。どうでもいい話だ。

「あっ!」

 かつて青紫色の花の苗を貰った花屋を見つけて、私は思わず声を上げた。つまりノラと出会った公園はもう目と鼻の先だ。

 この坂道をまっすぐ降りて、突き当たりを右に曲がる。今の季節なら、あの青紫色の花も咲いているだろう。実を言うと、引っ越してからももう一度あの花を見たいと思っていたのだ。

 リュックにサンドイッチとお茶を入れておいたのも、またここでピクニックごっこみたいなものをやってみたかったというのもある。

 少しずつ足取りが速くなっていき、気づけば走り出していた。ノラも私の気持ちに合わせて軽やかに走る。

 私は最後の角を曲がった。

「あ、あれ?」

 私の目に飛び込んできたのは、公園の懐かしい景色ではなかった。全く見たこともない新築のアパートだった。

「おかしいな」

 道を間違えたのだろうか? いや、そんなはずはない。確かにここだった。

 戸惑う私は傍らにいるノラを見下ろす。ノラもまた私を見返しながら首を傾げていた。

「あれ、奈央ちゃん?」

 不意に私の名を呼ばれて、反射的に振り向く。そこにはどこかで見覚えのあるお姉さんが私に微笑み掛けていた。背には生後一年くらいの赤ちゃんをおぶっている。

「えっと――」

「あら、私のこと忘れちゃったの?」

 お姉さんのくりくりした目を見て、私はハッと思い出す。

「花屋のお姉さん!」

「久しぶりね。奈央ちゃんが引っ越して以来かな?」

 お姉さんが懐かしそうに言った。

「ちょっと見ない間に大きくなったねえ。もう四年生かな。高学年よね。ワンちゃんも、大きくなったのね」

 お姉さんは少し前屈みになってノラの方に目線を落とす。

「ここまで散歩に来たの?」

「えっと、ちょっと道を変えて、それでたまたま近くまで来たから、どうなってるかなって」

 お姉さんは私がどこに引っ越したかまでは知らないはずだ。三軒隣の町から一人で来たと知ったらきっと驚くだろう。もちろん言わない。

「そっか。でも最近ここら辺は変な人がうろついてるらしいから、気をつけた方がいいよ」

「はあ、分かりました」

 変な人ってどんな人だろう。まあろくでもない類の人間であるのは間違いないか。知らない人にはついて行かないなんてのも、今更耳にタコみたいな話だけど。

 ああ、そうだ。そんなことより、お姉さんなら今のここらの事情も知っているはずだ。せっかくだし聞いてみよう。

「あのアパートっていつ出来たんですか? 前は公園でしたよね?」

「ああ、去年から公営住宅になったの。私も住んでるのよ。旦那さんとこの子と一緒にね」

「え――」

 お姉さんはそう言って、背にした赤ちゃんを私の方に向けた。赤ちゃんは私の顔を見てきゃっきゃとはしゃぎながら手を振った。

 しかし、私はその天使のような存在に笑顔を向けることが出来なかった。

「――行かないと」

「え?」

「私、もう行かないと! 久しぶりにお話し出来て嬉しかったです。それじゃ!」

「あっ、奈央ちゃん!」

 私はそれだけ一気に言って、お姉さんに背を向けて駆けだした。ノラはいきなり引っ張られて驚きながらもついてくる。

 こんな風に逃げだすのはお姉さんに失礼だとは思うけど、どうしようもなかった。

 問題点はいくつかある。

 まずノラを置いて行く予定地がなくなってしまったこと。

 続いて私の思い出の場所もなくなってしまったのでサンドイッチを食べる場所も見失ってしまったこと。

 そして、失われた青紫色の花畑を思うと、涙が出そうになってしまったことだ。

 それを見せたくなくって、お姉さんの前から逃げだした。

 見覚えのない街角まで来て、ようやく私は立ち止まる。荒い息を整えながら見上げた空の端から、少しずつ夕闇が迫ってきていた。



 完全に行くべき道を見失ってしまった。辿る道があやふやでも目的地がはっきりしていたのでなんとか行き着くことが出来たけど、目的地があやふやだと人はどこにも行けなくなるらしい。それでもノラの安住の地は見つけないと行けないので、足の向くままに歩き続けた。

 そうしているうちに、完全に日が暮れてしまった。昼間が快晴だったから、夜でも星と月とが煌々としていて明るい。私はいつの間にか住宅街からやや離れた、人気のない山林地帯に来ていた。だから街灯もろくになくて、月が出てなければ足下が暗くて危なかっただろう。

「どうしようかなあ」

 いい加減お腹が空いてきたし足の痛みもしんどくなってきたので、どこかに腰を下ろしてサンドイッチを食べたい。しかしこんな道端で食べるのもなんだし、こんなところでじっとしていると嫌なものが出てきそうだ。

 嫌なもの――と、思うと急に背筋にゾクッとしたものが走った。人はいつ命を失ってもおかしくない、というのは私がほんの昨日学習したことではあるが、今の状況もその一つなのではないだろうか。

「ノ、ノラ――」

 心細くなって、唯一の心の拠り所に目を向ける。

 瞬間、ノラが大きく吠えていきなり走り出した。

 突然のことに私のリードを握る手が緩み、するりと掌を通り抜ける感触を覚える。「あっ!」と思った時にはもう、ノラは私を置いて走り去ろうとしていた。

「待って! ノラ! 待ちなさい!」

 中型犬の白い背中が小さくなる。僅かな隙に視界から消える。落ち着け、今のは右に曲がったのだ。破れたガードレールから獣道に突っ込む。もうとっくにノラの姿は見えないが、鳴き声だけは聞こえる。それだけを頼りに草むらを分け入り走り抜けた。

「きゃっ!」

 足下に蔦が巻き付いて私は転んだ。それでもそのまま這いずるようにして前方の草を突っ切った時、一気に視界が開けた。短い草が絨毯のように敷き詰められた、小高い丘の上だった。ノラがその上に立ち、月に向かって吠えていた。

 私は見とれそうになりながらもハッと我に返り、ノラの元にそっと近づきリードを腕に二重に結びつけてしっかりと握り直した。

「もう、あんたって狼の末裔だったわけ?」

 私のリードを振り解いて走り出すほど月に思い入れがあるとは知らなかった。てっきりただの雑種だと思ってました。いや、実際に一銭の値もつかない由緒正しき雑種犬だ。

 でも、こうやって月に向かって吠えているノラは、本物の狼みたいだ。

 私はノラの横に体操座りして、一心に吠えているノラの鳴き声を聞いていた。

「おや、先客がいましたか」

 がさりと草を踏む音してそちらを見ると、くたくたの服を着た六十過ぎほどの丸眼鏡をかけた老人がこちらに向かって歩み寄ってきていた。

「ごめんなさい。おじいさんの場所だった?」

 頭を垂れる私に、老人は優しげに微笑んだ。

「いえ、構いませんよ。ここで月を見ながら酒を飲むのが、私の趣味でしてな」

 老人はそう言って右手を上げた。手には紙パックの日本酒を持っているようだ。

「ここでお月見してるのね」

 私は空を見上げた。満点の星と月が夜空に広がっていて、宝石を散りばめたみたいだ。

 こんな美しい景色がこの世にあるんだな、と本当に思った。

「お酒――は飲めませんね」

 老人は私の横に腰を下ろして言った。

「ごめんなさい。でもお茶があるから大丈夫。おじいさんはこれ、どう?」

 私はリュックからサンドイッチを取り出して老人に差し出す。老人はしばし目を丸くしたが、嬉しそうにそれを受け取った。

「ありがたい。一人でもここの月は美しいが、二人でものを分け合いながら見るのもまた格別です」

「そうね――」

 老人は虚空に向けていた視線を下界に下ろしてから、尋ねた。

「ところで、お嬢さんはこんなところで何を?」

「えっと、話すと長いのだけど――」

 昨日、スズメバチの件から思い立って遺書を書こうと決めたこと。それにあたってノラの処遇が不安になったこと。いっそ自由にした方がいいんじゃないかと、昔住んでいた町まではるばるやってきたこと。

「でも、目的地がもうなくなっちゃってて、全然違う場所になってた。思い出の場所だったんだけど、もうないんだなって思ったら悲しくなって」

 老人はうんうんと頷く。

「変わった地も、また新たな人の思い出の場所となるのですよ。あなたの思い出は胸に留め、場所は違う人の新しい思い出として譲ってあげるといい」

「新しい思い出――」

 この星空を、私はずっと忘れないだろう。大切な思い出として、はっきりと胸に刻み込む。

 そこでふと、さっきの赤ちゃんのことを思った。私はあの公園がなくなってしまってとても悲しい。それは間違いのないことだ。だけど、さっきの赤ちゃんは新しく出来た公営住宅で幼い時間を過ごす。あの子にとって大切な思い出の場所は、公園ではなく公営住宅なのだ。

「あ――」

 見上げた星空がじわりとにじむ。いつの間にか、瞳からぽろぽろと涙がこぼれていた。

 だけど、私はもう気がついていた。もしあの子が大きくなった時、あの住宅が壊されて新しく公園が出来たなら、あの子はきっと今の私以上に悲しい思いをするのだろう。

 あの場所は、あの子とお姉さんの家族に譲ろう。

 私はもうこの町を去った人間だ。あの青紫色の花の記憶とノラと出会った懐かしい思い出を胸に、生きていける。

 だから。

 だから私があの公園のために、青紫色の花のために涙を流すのは、これが最初で最後だ。

 私が膝に顔を埋めて泣いている間、老人は何も言わなかった。無言でただ隣にいた。しばらくして涙もかれて、私が腫れた顔を上げた時にようやく口を開いた。

「大丈夫ですか?」

「うん。もう大丈夫」

「悲しい時にただただ泣けるのは、とても大事なことです。大人になるにつれて、それも出来なくなっていく」

 老人は微笑んで、パックの日本酒をぐびりと飲んだ。

「それにしてもその歳で遺書ですか。私もそろそろ先のことを考えるのですが、これがなかなか難しい」

「分かる。とっても」

 十歳にも満たない私ですら色んなしがらみがあったのだ。半世紀以上を生きた老人ならばなおさらだろう。

「この歳になっても孤独な身の上で遺すものも家族も、ありはしないんですけどね」

「そうなの? でも、考えたら色々思いつくと思うよ。多分だけど」

「そうかもしれませんね」

 老人は寂しげに微笑んでから、もう空になった日本酒のパックを潰した。

「そろそろ夜も更けます。家に帰らなくていいのですか? 家族も心配しているでしょう」

「それはそうなんだけど、ノラの場所も見つけないといけないし――」

 私は悩ましげに首を傾げる。あれだけ歩いたのに、まだめぼしい場所は見つかっていない。

「それに、今は晴れていますが、もう少しすると曇って雨が降るそうですよ」

 老人は月を見上げながらぽつりと言った。

「え、そうなの? 今から帰っても家には間に合わないし、雨宿り出来る場所はないかな」

「私の住処に案内するのは問題がありますからね。私の知っている公園に半球体の遊具があって、そこでなら雨くらいなら凌げるでしょう。とりあえずそこに行きますか?」

「うん。そうね。そうしようかな――」

「竜胆の綺麗なところですよ」

 迷うが、このままここにいてもどうにもならないだろう。とりあえずそこに行くとしよう。雨を凌いだら、一旦帰るかそこで一晩明かしてからノラの場所を探すか決める。

「ノラ、行こう」

 私はそう言ってノラのリードを引っ張る。しかし、いくら引いてもノラは頑として動かなかった。

「ノラ?」

 呼び掛けても引いても、まるで動こうとしない。こんなことは初めてだった。

 そんな様子に、私の中で一つの直感が囁いた。

「ノラ、あんたはここでいいの?」

 ノラは、もう吠えず。ただじっと月を見上げている。

「分かったよ。元気でね」

 私は小さくそれだけ声をかけると、老人に向き直って言った。

「私、もう帰ります」

 そう言われた老人は何故か、驚いたような酷く打ち拉がれたような顔になった。

「どうしたの? 具合が悪いの?」

 私は心配になって尋ねる。もしかしてさっきのサンドイッチのせいだろうか? 賞味期限は今日の昼までだったし、一日リュックの中に入れっぱなしだった。

 しかし老人は顔を両手で覆いながら何度も首を横に振る。

「いいえ、違います。違うのです」

「そ、そう?」

 心配する私を追い払うように、老人は右手を振った。

「早く帰りなさい。早く――」

「分かった。じゃあ、さよなら。元気でね、おじいさん」

 老人に背を向けて、私は丘を降り始めた。そんな私の背中に、老人の声が小さく聞こえた。

「私も遺書を書きます。どうやら、そうしないといけないようです」

 私は振り返って、微笑みながら言った。

「うん。凄く面倒くさいから、早めに手をつけといた方がいいよ」



 結局、私は遠い道のりを歩ききることなく家まで帰り着いた。と、いうのもガードレールを出て二〇〇メートルほどのところで地元の消防団の青年に捕まったからだ。何でも私を捜して付近一帯の市町村が大騒ぎになっていたらしい。

 理由は、改めていうまでもないだろう。私が遺書を残して消えたからだ。

 身に覚えのたくさんあった両親は、大いに狼狽え、警察に通報した。地元の消防団や市区町村会にも連絡が行き、地域をあげての大捜査網が敷かれたそうだ。

 消防団の青年に連れ戻された私を待っていたのは、涙を流しながら私に謝罪する両親だった。驚いたことに、これだけのことをやらかしたのにもかかわらず私を叱る人間は誰もいなかった。

 後で兄から聞いたのだけど、私の行方不明騒ぎが起こってからも両親は責任の擦りつけ合いをしていたそうだ。そんな二人を一喝したのがこれまた地元の消防団の団長で、ここでようやく両親は己の身を振り返ることになったらしい。凄いな消防団。今度将来の夢について何か書かされることなったら、消防団と書くことにしよう。

「でも、俺もお前のこと、もっと冷たい奴だと思ってたよ。ごめんな」

 兄は最後にそう言って私に謝った。意味がよく分からなかったけど、興味もなかったので深くは聞かなかった。ちなみに、後で大いに思い知ることになる。



 世の物事には常に表と裏があるという。しかし十円玉じゃあるまいし、世の中そんな単純なものではないだろう。サイコロだって六面もあるのだから、現実はそれ以上に複雑だと考えるのが自然だと私は思う。

 私の遺書から始まった今回の騒動の顛末は、大きく三つの側面に分けられる。

 まずは喜劇的側面。色々大騒ぎした結果、私の両親は互いに対して少しだけ寛容になり、心を広く持つようになった。今では考えられないくらい仲のいい夫婦になっている。

 続いて教訓的側面。両親も何らかの教訓を得られたようであるが、私もいくつか教訓を得た。まずあの遺書は机の中でも鍵のついた引き出しに入れていたはずなのに、当然のように開けられていた。合い鍵があるのだ。今後大事なものは絶対にここにはしまわない。これが一つ目。

 次に、当日私を叱る人間は誰もいなかったが、翌週からスクールカウンセラーの元に週一で通うことを義務づけられた。これには本当に閉口した。

 何でも私は両親の不仲を苦にし、遺書を残して自殺を図ろうとしたことになっているらしい。別にそんなことはなかったはずなのだけど、百万回も同じことを繰り返し言い含められると、本当にそうだったような気がしてくる。

 こんなことになるならあの日、こっぴどく怒られて終わっていた方がずっとマシだった。人生の債務というのはローンのように長い時間をかけて払うよりも、一度に始末をつけてしまった方がいい。これが二つ目の教訓。

 そして最後に、破滅的側面だ。スズメバチの毒は確かに私にとっては致命的で、一撃で死に至らしめる脅威となる。しかしこの世界には危険な生き物は他にもいて、毒の種類も様々だ。

 あの晩、私は何やかんやと徹夜をする羽目になったのだが、結局雨は一滴も降らなかった。

 そして後日、私が公園に植えていた花の名前を母に聞いた。母は「竜胆よ」と教えてくれた。

 老人の言っていた、竜胆の咲いた半球体の遊具がある公園というのは、いくつかの特徴が私の思い出の公園と一致する。しかし、あの公園はもう公営住宅になっていてもうどこにも存在しない。あの町に住む老人ならば、そのことを知っていたはずだ。

 それとも、竜胆の咲いた半球体の遊具がある公園があの近辺に、もう一つ別にあったのだろうか? そのうち確かめてみたいが、ずっと先延ばしになっている。

 老人は私に公園で雨宿りを勧めた時に何を考え、断られた時に何故自分は遺書を書かないといけないと言ったのだろう。

 そして、もしあの時ノラがすんなりと動いて、あの老人の言われるままについて行くことになっていたとしたら、私はどうなっていたのだろう?

 あの老人の、私の目を開かせてくれた言葉と丸眼鏡の向こうの優しげな瞳の奥に、どんな悪意が渦巻いていたのか。

 夏の暑い日にそんなことを想像すると、涼しい気分になれる。

 あと、あれだけ真剣に取り組んでいた遺書の作成だが、その日限りでやめてしまった。

 単にこの遊びに飽きてしまったのが一つ。そして翌朝、知らぬ間に家に帰ってきていたノラが、いつもと変わらぬ姿で犬小屋で眠っているのを見つけて、何だか全部馬鹿らしくなってしまったのだ。

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竜胆花 初瀬灯 @tenome

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