自負と誘拐
初瀬灯
自負と誘拐
毎年葉桜の季節になると君野家の方々は、例えどんなに忙しかろうとも、一族皆揃ってお墓参りをされます。
墓標に刻まれた名は君野美登里といい、君野家の一人娘でありました。彼女が亡くなりましたのは十四の頃でありましたから、随分若い身空で、生きていればこれからどんなに楽しいことがあったかと思うと不憫でなりません。
美登里様は絵に描いたような美少女で、蝶よ花よと育てられたためか天真爛漫そのもので、はしゃいでいる美登里様は無垢な天使のようだと家人は噂をしておりました。
とはいえ、亡くなりましてから一年が経ち二年が過ぎ、五年の歳月が流れた頃には、元々の美登里様の性格や生き様の記憶なんかはもうとうに薄らいで、代わりに彼女の最後の姿ばかりが皆の記憶に鮮明で、一層美登里様の運命を悲劇的に思わせるのでした。誰にも犯されず、清らかなまま逝けたのがせめてもの救いでありましょうか。
あの日のことを忘れもしません。
美登里お嬢様は身代金目的の営利誘拐に遭い、そして殺されたのです。
君野家に奉公に参りました時、私は十二で、片田舎の貧乏百姓の家しかろくろく見たことのない私は、君野家の門構えにまず圧倒されました。今まで私が目にしてきたものとは、比較するのも憚られるほど豪奢で、これから私がお仕えする家の権勢を象徴しているように思えたのでした。
あまり他言することではないのですが、私は私自身が立身出世したり浮き世に名を残すような偉業を為したりするよりも、そうした人々に仕えることに喜びを感じる質でありました。
そうした私の性向からしても、君野家は十分過ぎるほどその条件を満たしているように思われて、不安よりも浮き立つような気持ちでいたのをよく覚えています。
実際、当主の君野光太郎様はそれはもう立派な方でありました。元は大大名の士族という家柄もさることながら、政財界に顔も広く、また人を惹き付けるカリスマ性をお持ちでした。今の君野家の繁栄も、光太郎様自身の能力によるところが大きく、ゆくゆくは天下国家を左右する要職に就かれるものと、そう考えているのは私の身内贔屓ではないのです。
ただ、何もかもが完全に見える光太郎様にも、一つだけ陰がありました。と、申しますのも初めて君野家に来ましたとき、家政婦長に連れられてご家族の皆様と挨拶をしたのですけれども、私と相対しましたのは光太郎様と美登里様、光太郎様の実弟の敬次郎様、敬次郎様は内務省にお勤めで、いずれは政務次官とも噂されておられます――そして敬次郎様の奥方の雪江様、と以上でございました。
はて、と私が怪訝そうな顔をした理由が家政婦長にもすぐ分かったらしく、後でこっそりと耳打ちしれくれました。
光太郎様の奥方の美津子様は、美登里様が三つの頃に亡くなったのだそうです。
私は郷里に母がおり、私が東京まで奉公に出たために別れ別れになってしまいましたが、それでも時折文通をいたしましては、お仕事で辛いことがあった時なぞ何度母の手紙を読んで励まされたことか分かりません。
例え身近にいなくても、家族がどこかで元気でやっているということは、ただそれだけで人を勇気づける力があるものです。
ですので当時まだ八つで、私よりもずっと幼い美登里様にもう母がいないという事実は私には衝撃で、一見何一つ不自由のない、誰よりも恵まれているはずの美登里様が、何だかとても可哀想に思えたのです。
とはいえそんな感情を抱いた私を余所に、当の美登里様は亡き母を恋しがる素振りも見せませんでした。いつでも美登里様は明るく、よく笑い、誰より気ままに振る舞いました。
時折常軌を逸したような我が儘で私や家人を困らせるのも、お嬢様故のご愛敬、といったところでしょうか。
詰まるところ、美登里様はお姫様と同じだったのです。それも現実の王家にあるようなしがらみに雁字搦めにされたものではなく、もっとおとぎ話のような、作り物めいた夢の国のお姫様でした。
その世界には母親は初めからいないのです。代わりに光太郎様の寵愛があって、それで満たされていたのです。元々持っていたものを失ったのではなく、初めから持ってなく、また必要ともしないのですから寂しさを感じる理由もまたありませんでした。
君野家にいた中では私がもっとも歳が近かったせいでしょうか。美登里様は私に懐いていたように思います。学校での出来事や読んだ本の話などは、光太郎様が留守の際は私によく語って聞かせてくれました。また美登里様は金糸雀を飼っておられたのですが、餌を一つまみ二つまみケージの中の餌箱に入れて、金糸雀がそれを食べているのを眺めるのに私を誘う――ということもありました。
他の使用人はその様子を見て、まるで姉妹のようだ、なんて言っていましたが、それは誤りです。美登里様は私を姉のように慕っていたわけではなく、あくまでお嬢様と使用人という間柄だとは弁えておられました。
元々、美登里様の世界に姉はいないのですから、一使用人に過ぎない私をただ年上だからという理由で姉のように慕うなんてあり得ませんものね。
そんな風に美登里様の楽園は完成していたのですけど、それでも一つだけ気がかりなことがあるようでした。
それは何を隠そう、光太郎様の再婚話でした。妻に先立たれたとはいえ、光太郎様はまだまだ男盛りのご年齢で、残りの人生を美津子様の影だけを思って過ごせというのは少々酷な話でございましょう。
それに跡継ぎの問題もございます。光太郎様の子供は美登里様一人きり、敬次郎様雪江様夫妻にも子種はなしと、日の出の勢いの君野家にしては何とも物寂しいというか、心許ないものでした。
順当にいけば美登里様が親戚筋から婿養子を取って、その人物を跡継ぎとすることになるのでしょうが、どうせなら父系の血筋を存続させたいと思うのが人情でありましょうし、光太郎様の事業を丸々引き継ぐのですから、それはもう親戚とはいえ赤の他人みたいな者よりは直接血の繋がった我が子にと考えるのが当然でしょう。
そんなわけで光太郎様の元には縁談話がひっきりなしに舞い込んでおりました。しかしこれが、美登里様の逆鱗に触れるのです。何せ、美登里様の国に母はおらず、それで完璧に回っているのですから、今更そんな異物を迎え入れようなんて思わないのでしょう。縁談話が少しでも耳に入るや、美登里様は酷い癇癪を起こして、誰が何と言おうと抑えが効かない有様でしたので、自然に君野家では光太郎様の縁談話は禁句ということになっていきました。
しかし失礼ながら、私としましては美登里様が光太郎様の縁談についてそんな気を揉む必要はなかろうに――と思っておりました。
と、言いますのも縁談を実らせようとあくせくしているのは仲人筋ばかりで、当の光太郎様はあまり乗り気には見えないのでした。どんな良縁が持ち込まれてきましても、微笑みながら「今は仕事が忙しいから」と言ってお相手の女性に会おうともしないのです。
初めは美登里様に気を遣われているのだろうと思っていたのですが、どうも様子が違います。これは本当に興味がないのだなと確信いたしましたのは、さる大財閥のご令嬢で、この一族と縁続きになるのは光太郎様の将来を絶対的なものにする、というほどの縁談までもすげなく断ったからでした。
あの時は光太郎様の立身出世こそが至上だった私の方が、そんな馬鹿なと叫びそうになりました。
こんな良縁ですら関心を示さないのですから、これはもう光太郎様は亡き美津子様に操を立てておいでなのだと、美登里様だけを守って生きていくつもりなのだと、私はそう確信したのでした。
結論からいいますと、それは誤りでした。
私が奉公に来てから四年が経ったある日のことです。見知らぬ母子が君野家にやってきました。母親は元の造形はきっと美人だったと思われるものの、身なりがぼろくて嫌になるほど野暮ったい格好をしていて、息子の方はとにかく痩せていました。
思わず私はここはあなたたちのような者の来るところじゃないのだぞ、と追い返しそうになったのですけど、それよりも速く光太郎様が書斎から飛び出してきて、その汚い婦人を抱き締めたのです。
私は訳も分からず、ただ目を白黒させながら光太郎様と母子を眺めていたのですけど、隣にいた美登里様は蒼白な顔をされて、小さく震えておいででした。
美登里様にはこの母子が何者か、一目で分かったのでしょうね。
勿体ぶることもありますまい。母は君野家のかつての使用人であり、また光太郎様のかつての不倫相手で、子は隠し子でありました。美登里様が二歳の頃に光太郎様とこの母、波恵様は恋に落ち、愛し合う仲となったのだそうです。
初めのうちは気づかれぬようにしていたそうですが、何せ一つ屋根の下のこと、露見せぬはずがありません。気づかれてしまえばそのような関係を美津子様が許すはずもなく、波恵様は着の身着のままで君野家から暇を出されました。
その時、既に息子――誠様を身籠もっておられたそうですが、光太郎様に告げることなく、波恵様は去っていきました。翌年、美津子様がご逝去なさってから、光太郎様は方々を探したのですが、波恵様の足取りは一向に掴めなかったそうです。
それがこの日、足がけ十年探した挙げ句にようやく見つかったというのがことの顛末だったようです。
私は敬愛する光太郎様が愛した女性を、身なりで判断して追い出そうとしたことを深く恥じ入りました。主人と使用人がこのような関係になるのはままあることで、余所の例と等しく波恵様は君野の適当な親戚筋の養女となって、改めて光太郎様と結婚されました。
誠様はこれまで教育らしい教育は受けていなかったものの、いざ学びだしたらその吸収力たるや目を見張るものがあり、元不倫相手の子なぞという悪口をいう輩も、これにはぐうの音も出ない様子でした。
再婚によって良家と縁続きになるという道こそ絶たれたものの、光太郎様は元よりそんなものは必要としていませんでしたし、一人の女性を十年間も思い探し続ける意思力は他に類を見ないでしょう。私は感嘆しきりでした。
一つ腹立たしい点があったとすれば、私が君野家に来る前にこんな興味深いロマンスがあったのを、誰一人として私に教えてくれなかったことでしょうか。
ともあれ、君野家にあった世継ぎの問題はこれにて解決したわけです。
そしてこれは、美津子様が亡くなってから十年もの間、止まっていた時間がついに動き出したということでもあります。それは、美登里様の王国の終わりを意味しています。
一夜にして、自分はお姫様ではなくなったことに美登里様は気づいていたのだと思います。
これまでは、光太郎様の愛情を受けるのは美登里様ただ一人だけでした。それがある日を境に突然に三等分です。しかも見知らぬ女性と男の子が突然現れて、この人はあなたの新しい母親で彼は弟だと言われても、受け入れがたいのは当然でありましょう。
しかも弟と来たら女に生まれた自分と違って大事な跡取りとなるのですから、誠様が如何に謙虚に振る舞おうとも、君野家内の実質的な立場は美登里様より誠様の方が上なのです。
いや、今でこそ光太郎様の愛情は三等分されていますけれど、もしそれが美登里様に向かなくなってしまった時、美登里様の居場所は君野家にはなくなってしまうのです。
目に見えて、美登里様は情緒不安定になりました。一日中塞ぎ込むか、さもなくば癇癪を起こすかで、これには家人一同閉口いたしました。
子供心に光太郎様の気を引きたくてやっているのだろうとは思うのですけど、それが光太郎様に伝わっているのかどうか――元々お忙しい方ですし、美登里様にかまけて仕事に障りがあるようでは困りますので。
光太郎様は時間が解決してくれると高を括っていたようですが、そう簡単にはいきませんでした。女学校に入学されても美登里様はこの調子で、一向に改善される気配も見られません。次第に家人にも疎まれだして、優しい性格の波恵様と誠様に人望が集まるのも仕方のないことでしょう。それがまた、美登里様の癇に障るのでしょうけどね。
決定的な出来事がありました。以前より誠様は猫がお好きでありまして、それを知った光太郎様が白猫をプレゼントされたのです。しかしそれが美登里様の逆鱗に触れました。何と言っても美登里様は金糸雀を自分の命の次にと言っていいくらい大切に飼っておられましたから、それが白猫の餌になったらどうしてくれる、と非常にお怒りでした。絶対に美登里様の部屋には近寄らせない、と固く誓わせました。
しかし、あっさりとその誓いは破られました。こう言っては難ですけど、美登里様の普段の言動が言動ですので、誓い一つとっても重みを持たないのは無理のないことかもしれません。
白猫が、美登里様の部屋に入りました。それを見つけた美登里様は半狂乱になり、近くにあった椅子で思いっきり白猫を打ち据えました。
今も白猫の足がおかしな方向に曲がっているのは、その時の怪我が原因です。
光太郎様が帰宅された後、美登里様は泣きながらこの日の出来事を光太郎様に訴えました。しかし光太郎様の反応は美登里様にとって予想外のものでした。
光太郎様は平手で美登里様の頬をぴしゃりと叩き、「誠に謝りなさい」と言ったのです。
美登里様は驚いたような、傷ついたような顔をして、逃げるように自分の部屋へと戻っていきました。結局、誠様への謝罪の言葉はありませんでした。
その日から、美登里様が癇癪を起こすことはなくなりました。誰と口を利くこともなくなりました。起きて朝食を食べ、学校へ行き、帰宅し、夕食を食べ自室へ引っ込む。その間、一言も喋りません。
我が儘と癇癪にも手を焼いたものですけど、これはこれで気詰まりでしたね。流石の光太郎様も途方に暮れているようでした。まあ元はと言えば、という話ですしねえ。
そんなある日のことです。忘れもしない、葉桜のあの頃です。
この日が、運命の分岐点でした。
夕食の時間になっても美登里様が食堂に降りてこられません。家族で食事をする場にいなくなることは、いよいよ家庭で自分の居場所をなくすことになると美登里様は理解していたと思います。なればこそ、どんなに気詰まりでも美登里様は夕食においでになっていたのですが、いくら待っても美登里様はやってきません。
痺れを切らした光太郎様が、私に美登里様を呼んでくるように命じました。ところが美登里様の部屋をいくらノックをしても返事がありません。思い切って部屋に入ってみると、全くの無人で、金糸雀が山盛りにされた餌を忙しなくつついているだけでした。
不審に思いつつも、他の部屋を探して回りましたが、どこにも美登里様はいませんでした。
漠然とした不安が次第に確信に変わっていくのを感じました。
美登里様が、家に帰っていないのです。
多分、全員が初めに疑ったのが家出です。あまりに家が居心地が悪いので出て行ったのだろうと、普段の美登里様のご様子を思うと嫌でもそう考えざるを得ませんでした。
しかし、これまで何があっても美登里様は必ず帰ってきていました。白猫の一件があった後でさえ、美登里様は門限を守られていました。誤解があるかもしれませんが、美登里様は基本的に光太郎様のお言いつけは必ず守るのです。誠様に謝罪すること以外は。
虚しく時が過ぎていき、夜が更けても美登里様は帰っては来ません。君野家全員が夜を徹して心当たりを探し回り、警察に相談までしました。しかし夜が明けても美登里様は見つかりませんでした。
誰にともなく、一つの単語が頭をもたげだします。
誘拐。
家人がそれとなく手紙や電話を気にしていたのは、おかしな言い方ですが、脅迫されるのを待っていたのです。
美登里様がいなくなってから三日後、それは現実になりました。君野家に脅迫文が届いたのです。娘の身柄は預かった。返して欲しくば指定の場所まで現金を用意して持ってこい、とタイプライターで書かれてありました。そして同時にもう一つ小さな袋が送られてあって、その中には子供のものらしき薬指が一本、血塗れのまま入っていたのです。
ことここに至って、事態は大事件の様相を呈してきました。何せ誘拐されたのが名士君野光太郎の娘です。さらに加えて内務省勤めで警察組織に深い繋がりのある敬次郎様の伝手もあり、動員された警察官の人数はこの手の事件におきましては過去最高の人数だったそうです。
とはいえ、事件は誘拐です。下手な動きを見せて犯人を刺激して、美登里様に危害を加えられるなどということになってはなりません。
ひとまず、指定の場所に現金を持って行くことになりました。現金といっても目眩がするような大金で、そう簡単に右から左に出来る金額ではなかったのですが、光太郎様は美登里様のために迷いなく身代金を払うことを決意されました。
身代金の受け渡しを行う人間ですが、私が志願しました。
理由は複数ありまして、まず手紙の中に誰が持って行くかの指定がなかったことです。であれば、むざむざ犯人の手に落ちるかもしれない危険な場所に光太郎様を向かわせる必要はありません。もう一つは、今言った運ぶ人間の指定がないことと矛盾するようですが、この誘拐が光太郎様を暗殺するための計画だという可能性もまた、完全に捨て切れるわけではありません。
やはり、光太郎様に行かせるわけにはいきません。
他にも我こそはという人間もいましたが、私は絶対に自分がいくと言って譲りませんでした。美登里様と私は一番仲が良かったから、美登里様も私に来て欲しいはずだとまで言いました。
まあ、別にそんなことはなかったでしょうけど、場の雰囲気はそれで流されました。
指定された場所は、君野家の別荘である山荘のロッジとその周辺でした。その途上にある川に、現金の入った鞄を投げ捨てろという指示があったので、私はその通りにしました。
鞄は川を流されていくので、下流のどこかに潜んだ犯人がそれを拾うという算段でしょうか。現金の入った鞄は急流に呑まれてすぐに見えなくなりました。
そして、私は山荘へと向かいました。脅迫文の通りであれば、そこに美登里様が囚われているはずです。
身代金は犯人の言う通りに川へ流したのですから、賊が余程の外道でない限り、美登里様は無事に帰って来るでしょう。
自ら志願したとはいえ、私が君野家に来てから最大の大任でありましたから、何とか美登里様のご無事を確かめようと必死でありました。
しかし一方で、気になることがありました。
三日前のことです。私は光太郎様に命じられて、美登里様を探しに部屋に入りました。その時、たくさんの餌が盛られた餌箱を美登里様の金糸雀がつついていたのを目にしています。
しかし、美登里様は一度にそんなにたくさんの餌を、金糸雀に与えていたでしょうか?
美登里様が今ほど気難しくなかった頃、私は美登里様が金糸雀に餌を与えているご様子を何度も見ています。あの頃は一つまみ二つまみ――と、一食につきそれきりでした。
それなのにあの時、餌箱にあれだけの量の餌が積まれていたのは、もしかすると美登里様は何らかの理由でしばらく金糸雀に餌を与えることが出来なくなると知っていて、だから数日分の餌を予め餌箱に入れておいたのではないでしょうか。
もしかするとこの誘拐事件は、光太郎様の愛情を試すために美登里様が仕組んだ狂言なのではないでしょうか。
この疑問は、脅迫文と切られた指が送りつけられてからも消えませんでした。
だからこそ、私が志願したのです。
その可能性を疑っていたのが、全家人、全警察官含めても私だけであったからこそ、私が行かねばならなかったのです。
山荘の扉を開き、全身を荒縄で縛られた美登里様がいたならば、それはそれでよし。
そうでなければ。
そうでなければ、ことが大きくなり過ぎています。
果たして山荘の扉を開けた時、私の目に飛び込んだのは、呑気に本を読んでいる美登里様の姿でした。美登里様は私の姿を認めてぱっと本を閉じると、何だか今にも泣きそうな、縋るような目で私を見つめるのです。そこで私が「旦那様は全て言う通りになされ、身代金も全額用意されました」と教えてあげますと、そこでようやく胸をなで下ろしたようでした。
美登里様の心からの笑顔を見たのは何年ぶりになりましょう。自ら切り落としたとみられる左手の薬指には痛々しげに血が染まった包帯が巻かれておりましたが、それ以外は至って健康そうでありました。
しかし私はほっとするよりも、むしろ強い危機感を覚えて、今の状況を手短に美登里様に伝えました。
これは間違いなく美登里様の狂言だったのですが、しかし狂言で済ますにはあまりに多くの人間を振り回し過ぎ、世間を騒がせ過ぎました。今更小娘の悪戯でしたでは済まされません。
子の過ちは親の責任だと世間は叫ぶでしょう。間違いなく、光太郎様は社会的制裁を受けて今の地位を失うことになります。
美登里様は私の話を聞いて青ざめました。そして涙声になりながら、お父様に迷惑はかけたくない、何とかしてくれと私に頼むのです。
何と想像力のない娘でしょうか。自分がしたことの重大さも、それが父に与える影響も、ろくろく考えなかったとは。出会った頃はこうではなかったはずなのですが、何を間違えてこんなことになってしまったのか。
私は美登里様に力強く頷き、そして言いました。
「全て大丈夫です。そのために私が来たのですから」
私は身代金の鞄とは別にもう一つ持っていた小さな手提げ鞄から、荒縄を取り出しました。
山荘に囚われていた人質がのほほんと本を読んでいました、では笑い話にもなりません。せめて賊によって縛られている必要があります。
この縄は、狂言を疑っていた私だからこそ用意出来たものです。だからこそ、私が何としてもここに来る必要がありました。
時間がありません。ここで動きがなければ焦れた警察がいつ踏み込んで来るか分からないのです。私は素早く美登里様に縄を巻き付け、後ろできつく縛りました。これで哀れな人質の完成です。
そして私はもう一つ、短く切った縄を鞄から取り出しました。
まだ足りません。もっと、決定的な何かが必要です。
ただ美登里様を縛っただけでは、警察を騙し通すことは出来ないでしょう。何せ誘拐の実行犯が実在しないのですから、いずれ狂言を疑われるに決まっています。仮にどうにか誤魔化せたとしても、短慮な美登里様が何の拍子で口を滑らせるかわかりません。
そうなった瞬間、君野家はお仕舞いです。
もはや美登里様が君野家にとって害にしかならないのは火を見るより明らかでした。
しからば。
私は縄を美登里様の首に巻き付け、全力で締め上げました。
「ぐえ」と蛙のような声を口の端から漏らし、美登里様の全身は弛緩してだらりと床に頽れました。後から聞いたのですが、窒息ではなく首の骨が折れての即死だったそうです。
この時の美登里様の顔つきといったら、それはもう凄まじい形相で、目玉をひん剥き口から舌のはみ出した有様は、何とも醜くおぞましげで、これがあの美しかった美登里様と同じ人物だとはとても思えませんでした。
しかしこれも仕方のないことです。
娘の狂言誘拐なんて不名誉なことが、君野家にあってはなりません。
これは本当の誘拐です。誘拐殺人です。
美登里お嬢様は身代金目的の営利誘拐に遭い、そして殺されたのです。
私は美登里様の醜い死に顔を確かめた後、悲鳴を上げながら山荘から飛び出しました。
毎年葉桜の季節になると君野家の方々は、例えどんなに忙しかろうとも、一族皆揃ってお墓参りをされます。
美登里様のお墓の前で両手を合わせる時の光太郎様の悲痛な面持ちを見ると、私はいつも胸が締め付けられそうになります。
馬鹿な美登里様。
光太郎様の愛情は本物だったというのに。
不幸中の幸いか、下流に流された身代金入りの鞄は警察により回収され、無事に君野家に戻りました。川沿いを延々と警察が見張っていたために、ついに犯人は鞄を拾うことができなかったのだろうとのことです。
世間は光太郎様にも美登里様にも同情的で、少なくとも君野家に対して悪く言う者はおりませんでした。言われた通りに身代金を用意したにも関わらず美登里様を殺害した非道な誘拐犯を、警察は今も捜し続けているそうです。
それにつけてもあの時ばかりは私も緊張しました。何せ警察が踏み込んで来るまでに、全てのことを済ませる必要がありましたから。
美登里様を荒縄で縛り首を絞めて扼殺するまで、すなわち狂言誘拐が誘拐殺人に成り代わるまでに要した時間は一分足らずといったところでしょうか。
私は普段、自分の仕事について誇ることはいたしませんが、こればかりは私自身、実に見事な手際だったと自負しております。
自負と誘拐 初瀬灯 @tenome
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