第10話 雨の日の帰り道と、来週の約束

翌日、放課後、雨が降っていた。第1話の雨の日と同じように、空は灰色で、窓の外は雨の音に包まれていた。俺は傘を持っていなかった。第1話の日も、傘を持っていなかった。そのことを思い出すと、少しだけ笑いそうになった。あの日、俺は雨宿りのために図書室へ逃げ込んだ。今日は、雨宿りのためではない。先輩との約束を守るために、図書室へ行く。その違いが、俺の中で何かを変え始めていた。


図書室の扉を開けると、窓際の席に桐生先輩がいた。先輩はいつも通り、本を開いて座っている。俺が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ顔を上げて、頷いた。


「来たね」


その一言で、今日の約束が続いていることがわかった。俺は頷いて、窓際の隣の席に座った。先輩は俺の席に、何も置いていなかった。ただ、俺の隣が空いている。それだけで、ここが俺の場所だとわかった。雨の日の図書室は、第1話の日と同じように静かだった。紙と木の匂い。窓を叩く雨の音。先輩のページをめくる音。その三つが、今日の図書室の音楽だった。


しばらく、二人で黙って本を読んだ。俺は、昨日借りた本の続きを読んだ。主人公が、自分の居場所を探して旅をする話だった。主人公は、旅の途中で、雨の日に小屋に泊まる場面があった。主人公は、小屋の主人に「雨がやむまで、ここにいていい」と言われる。俺はその場面を、ゆっくりと読んだ。第1話の日、先輩が俺に言ってくれた言葉と同じだった。雨がやむまで、ここにいていい。その言葉が、今日の俺には、もう一度聞こえてくるようだった。主人公は、小屋の中で、雨の音を聞きながら、自分の気持ちと向き合う。雨がやまない間は、どこへも行けない。でも、その時間が、主人公には必要な時間だった。俺も、第1話の日、雨の図書室で、自分の気持ちと向き合った。あの日、俺は逃げ込んだだけだった。今日、俺は約束を守るためにここにいる。その違いが、雨の音の中で、はっきりとわかった。先輩は、俺がその場面を読んでいることを、知っているようだった。いや、知らなくてもいい。ただ、同じ時間を、隣で過ごしている。その事実だけで、十分だった。


俺は、本を閉じて、先輩の方を向いた。言いたいことがあった。今日こそ、言わなければいけないと思った。先輩に、自分の気持ちを、正直に伝える。それは、告白ではない。まだ、誰かを好きだと言うのが怖い。でも、ここに来ることをやめたくないという気持ちは、本当だ。その二つを、同時に伝える。それが、今日の俺の精一杯だった。


「……桐生先輩、少しだけ、話を聞いてくれますか?」


先輩は本を閉じて、俺の方を向いた。先輩は、俺の言葉を、黙って待ってくれた。急かさなかった。俺は、少しだけ息を吸って、言った。


「俺はまだ、誰かを好きだと言うのが怖いです。第1話の日、美咲に笑われたことが、まだ心に残っています。だから、好きだと言う言葉を、軽く使うことはできません。でも、ここに来ることは、やめたくないです。先輩の隣に座って、同じ本を読む時間が、俺には大切です。その気持ちだけは、本当です」


先輩は、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。


「……ここにいていい。明日も」


その言葉は、いつもの言葉と同じだった。でも今日は、その言葉が少しだけ違って聞こえた。昨日までは、ここにいることを許してくれる言葉だった。今日は、俺の正直な気持ちを受け取ってくれる言葉のように聞こえた。先輩は、俺に告白を迫らなかった。先輩は、俺の怖さを、責めなかった。ただ、ここにいていいと言ってくれた。それだけで、十分だった。俺は、その言葉を、自分の中で何度も確かめた。恋人になる約束ではない。ただ、明日もここに来て、隣に座る約束だ。その約束が、今日の俺には、十分に重かった。急いで恋人になろうとしなくてもいい。急いで好きだと言おうとしなくてもいい。ただ、明日もここに来る。それだけを繰り返すことが、今の俺には合っていた。先輩の言葉は、俺を急かさない。だからこそ、俺は自分のペースで、先輩の言葉を受け取ることができた。


俺は頷いた。「ありがとうございます」とだけ言った。先輩は頷いて、「うん」とだけ言った。その短い返事が、今日の俺には、先輩との新しい約束のように聞こえた。恋人になる約束ではない。ただ、明日もここに来て、隣に座る約束だ。その約束が、今日の俺には、十分に重かった。


やがて先輩が、自分の読んでいた本を閉じて、立ち上がった。返却のカウンターへ行き、さっきまで読んでいた本の貸出カードを、手に取った。先輩はカードの裏に、何かを書き加えた。俺は、自分の席からその背中を見ていた。先輩の手が、ゆっくりと動いた。何を書いているのか、遠くからはわからなかった。


先輩が自分の席に戻ってくると、その本を俺の方へそっと押し出した。カードの裏には、新しい字があった。


『明日も、ここ』


先輩の字は、昨日よりも少しだけ大きく見えた。俺はそのカードを、しばらく見つめた。先輩が、明日もここにいることを、俺に伝えてくれた。その事実が、胸の奥で静かに広がった。俺は、自分のノートの端に、その言葉を書き写した。『明日も、ここ』。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。書き写すたびに、先輩の言葉が、俺の中で少しずつ自分の言葉になっていく気がした。


夕方、閉館の放送が流れると、先輩は本を閉じた。俺も本を閉じた。先輩は、今日読んでいた本とは別の本を、机の上に置いた。その本の貸出カードの裏には、まだ何も書かれていない。先輩は、その本を俺の方へ、少しだけ押し出した。それから、小さな声で言った。


「……来週、図書室が使えない日がある」


俺は、その言葉に少しだけ驚いた。図書室が使えない日があるというのは、どういうことなのだろうか。先輩は、それ以上詳しくは言わなかった。ただ、「その日は、どうする?」と、短く尋ねた。俺は、すぐに答えられなかった。図書室が使えない日、先輩とどこで会うのか。先輩との約束は、図書室の席で作られてきた。図書室が使えない日、その約束はどうなるのか。その問いが、第11話へのフックとして、俺の中に残った。俺は「……考えます。明日、また話します」とだけ答えた。先輩は頷いて、「うん」とだけ言った。


図書室を出ると、雨はまだやんでいなかった。俺は廊下を歩いて、校門へ向かった。校門の近くで、美咲の姿が見えた。美咲は傘を持って、校門のそばに立っていた。彼女は、俺の方を見た。でも、声をかけてはこなかった。ただ、雨の中で、俺を見送るように立っていた。俺も、美咲に声をかけなかった。美咲の手紙は、まだ開いていない。美咲の謝罪は、口では聞いた。でも、許すとは、まだ言えていない。その二つを、鞄の中で一緒に持ち帰る。それが、今日の俺の精一杯だった。美咲が、校門で俺を待っていた理由は、わからない。声をかけなかった理由も、わからない。その謎が、第11話へのもう一つのフックとして、俺の中に残った。


帰り道、俺は今日のことを振り返った。第1話の日、俺は雨宿りのために図書室へ逃げ込んだ。今日、俺は雨の日に、自分の気持ちを先輩に伝えた。その二つの雨の日が、今日の俺の中で重なった。逃げ込むための図書室から、約束を守るための図書室へ。その変化が、第1話から第10話までの、俺の到達点だった。恋人になる約束ではない。ただ、明日もここに来て、隣に座る約束だ。その約束が、今日の俺には、十分に重かった。


家に帰って、俺は自分のノートを開いた。先輩の言葉を、もう一度なぞった。『明日も、ここ』。その言葉を、自分の字でなぞるだけで、胸が温かくなった。貸出カードは本と一緒に図書室に残る。だから、俺のノートにだけ、先輩の言葉を残しておきたかった。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。明日も、ここに来る。そう思うと、足取りは昨日より少しだけ軽かった。雨の日の帰り道と、来週の約束。その二つだけが、今日の俺の帰り道を支えていた。


来週、図書室が使えない日、俺は先輩とどこで会うのだろうか。校門で俺を見送っていた美咲は、何を言いたかったのだろうか。その二つの問いを、俺は第11話へ持ち越すことにした。今日の俺は、その問いに対する答えを、まだ出さない。ただ、明日もここに来る。それだけを、自分に約束した。その約束は、誰かに見せるためのものではない。俺と先輩だけが知っている、静かな約束だった。雨の日の帰り道と、来週の約束。その二つを、明日も大切に持ち続けるつもりだった。


雨の日の帰り道と、来週の約束。その二つを、明日も大切に持ち続けるつもりだった。その約束は、誰かに見せるためのものではない。俺と先輩だけが知っている、静かな約束だった。

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