第7話 席が違っても、隣は変わらない

翌日、放課後、図書室の扉を開けると、窓際の席に知らない生徒が座っていた。いつも桐生先輩が座っている席だ。先輩の姿は、窓際にはなかった。俺は扉の前で立ち止まった。窓際の席が、今日は先輩の席ではない。そのことに、俺は少しだけ動揺した。先輩との約束は、窓際の席で隣に座ることだったのかもしれない。そう思うと、今日の図書室は、少しだけ違う場所に感じられた。


俺は、どうすればいいのかわからず、入口で立ち尽くした。知らない生徒に、席を譲ってほしいと言うわけにはいかない。図書室の席は、誰のものでもない。先輩の席だと、俺が勝手に決めていただけだ。そのことに気づくと、少しだけ恥ずかしくなった。先輩との関係を、席という形に閉じ込めていたのは、俺の方だったのかもしれない。


そのとき、図書室の奥の方で、小さな声がした。


「……ここでも、いいよ」


振り向くと、桐生先輩が、窓際とは別の席に座っていた。先輩は、いつも通り本を開いている。俺が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ顔を上げて、自分の隣の席を指した。窓際ではない。でも、先輩の隣だ。俺は頷いて、その席に座った。先輩は、何も説明しなかった。ただ、俺が座るのを見て、小さく頷いた。


しばらく、二人で黙って本を読んだ。窓際ではない席は、光の当たり方が少しだけ違った。窓からの光が、斜めに差し込む。先輩の横顔も、昨日までとは少しだけ違って見えた。でも、隣に座るという事実は、変わらなかった。俺は、そのことにほっとした。席が違っても、隣は変わらない。先輩との関係は、席の場所ではなく、隣にいることで作られている。そのことを、今日の俺は、身をもって知った。


俺は、読んでいる本の場面を、ゆっくりと追った。主人公が、自分の居場所を変える場面だった。主人公は、いつもの場所が使えなくなって、別の場所へ移る。でも、隣にいる人物は変わらない。主人公は、そのことに気づいて、少しだけ笑う。俺はその場面を、今日の自分に重ねながら読んだ。いつもの席が使えなくても、先輩が隣にいてくれれば、図書室は図書室のままだった。場所が変わっても、関係が変わらない。そのことを、今日の俺は、本の中の主人公と一緒に学んだ気がした。先輩は、俺がその場面を読んでいることを、知っているようだった。いや、知らなくてもいい。ただ、同じ時間を、隣で過ごしている。その事実だけで、十分だった。


「今日は、窓際じゃなくて、いいんですか?」


俺が小声で尋ねると、先輩は本から目を上げずに答えた。


「……席は、どこでもいい。隣に、いてくれれば」


その言葉は、今日の俺のことを指しているようで、同時に指してはいないようだった。先輩は、俺の事情を詮索しない。ただ、本の中の人物の気持ちを、自分の言葉で短く置く。でも今日は、その言葉が、少しだけ直接的に聞こえた。席はどこでもいい。隣にいてくれればいい。その言葉が、今日の俺には、先輩からの小さな告白のように聞こえた。俺は「はい、ここにいます」と返した。先輩は頷いて、「うん」とだけ言った。その短い返事が、今日の俺には、席が違っても隣は変わらないという答えのように聞こえた。


俺はまた本に戻った。主人公が、自分の居場所を変える場面を、もう一度読んだ。主人公は、いつもの場所が使えなくなって、別の場所へ移る。でも、隣にいる人物は変わらない。主人公は、そのことに気づいて、少しだけ笑う。俺はその場面を、今日の自分に重ねながら読んだ。先輩は、俺がその場面を読んでいることを、知っているようだった。いや、知らなくてもいい。ただ、同じ時間を、隣で過ごしている。その事実だけで、十分だった。場所が変わっても、関係が変わらない。そのことを、今日の俺は、本の中の主人公と一緒に、もう一度確かめた。先輩との関係は、窓際の席に縛られていない。どこに座っても、先輩が隣にいてくれれば、図書室は図書室のままだった。その発見が、今日の俺には、少しだけ誇らしかった。


昼休みのことを、俺は思い出した。教室で、美咲が俺の席の近くまで来た。何か言いかけたが、俺は「おはよう」とだけ言って、教科書を開いた。美咲は少しだけ立ち止まって、それから自分の席に戻った。そのやり取りは、昨日までと同じだった。美咲との距離は、まだ縮まっていない。でも、美咲を無視しているわけでもない。挨拶だけはする。それが、今日の俺の精一杯だった。美咲とのことは、まだ決められない。決められないまま、図書室へ通う日々が続いている。それでいいのかどうか、俺にはまだわからない。ただ、今日の先輩の言葉が、その迷いを、少しだけ軽くしてくれた。


やがて先輩が、自分の読んでいた本を閉じて、立ち上がった。返却のカウンターへ行き、さっきまで読んでいた本の貸出カードを、手に取った。先輩はカードの裏に、何かを書き加えた。俺は、自分の席からその背中を見ていた。先輩の手が、ゆっくりと動いた。何を書いているのか、遠くからはわからなかった。


先輩が自分の席に戻ってくると、その本を俺の方へそっと押し出した。カードの裏には、新しい字があった。


『席は、どこでもいい』


先輩の字は、昨日よりも少しだけ大きく見えた。俺はそのカードを、しばらく見つめた。先輩が、席のことを気にしなくていいと言ってくれた。その事実が、胸の奥で静かに広がった。俺は、自分のノートの端に、その言葉を書き写した。『席は、どこでもいい』。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。書き写すたびに、先輩の言葉が、俺の中で少しずつ自分の言葉になっていく気がした。


夕方、閉館の放送が流れると、先輩は本を閉じた。俺も本を閉じた。先輩は、今日読んでいた本とは別の本を、机の上に置いた。その本の貸出カードの裏には、まだ何も書かれていない。先輩は、その本を俺の方へ、少しだけ押し出した。何も言わなかった。でも、その仕草が、明日の約束のように思えた。


「……明日も、来ます」


俺がそう言うと、先輩は頷いた。


「うん。ここにいていい」


その言葉は、いつもの言葉と同じだった。でも今日は、その言葉が少しだけ違って聞こえた。昨日までは、ここにいることを許してくれる言葉だった。今日は、どこにいても、隣にいてくれればいいという言葉のように聞こえた。


図書室を出ると、夕日の光が廊下に伸びていた。俺は鞄の中の本を、そっと確かめた。明日、その本の続きを読むために、また図書室へ行く。それだけが、今の俺の楽しみだった。


帰り道、俺は今日のことを振り返った。席が違っても、隣は変わらない。そのことを、先輩が教えてくれた。美咲との席は、もう元の席ではない。でも、先輩との席は、どこにでも作れる。その違いが、今日の俺には、はっきりとわかった。急いで告白しなくてもいい。急いで仲良くなろうとしなくてもいい。ただ、明日もここに来て、先輩の隣に座る。それだけを繰り返すことが、今の俺には合っていた。


家に帰って、俺は自分のノートを開いた。先輩の言葉を、もう一度なぞった。『席は、どこでもいい』。その言葉を、自分の字でなぞるだけで、胸が温かくなった。貸出カードは本と一緒に図書室に残る。だから、俺のノートにだけ、先輩の言葉を残しておきたかった。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。席が違っても、隣は変わらない。そのことを、ノートに書きながら、俺はもう一度確かめた。先輩との関係は、窓際の席に縛られていない。どこに座っても、先輩が隣にいてくれれば、図書室は図書室のままだった。その発見が、今日の俺には、少しだけ誇らしかった。窓際の席に座っていた知らない生徒のことを、俺は責めなかった。その生徒は、ただ図書室を利用していただけだ。先輩の席だと思っていたのは、俺の勝手な思い込みだった。その思い込みに気づけたことも、今日の収穫だった。席は、誰のものでもない。隣にいる人が、誰なのか。それだけが、大切なのだと、今日の俺は思った。明日も、ここに来る。そう思うと、足取りは昨日より少しだけ軽かった。席が違っても、隣は変わらない。その事実だけが、今日の俺の帰り道を支えていた。


明日も、ここに来る。その約束は、誰かに見せるためのものではない。俺と先輩だけが知っている、静かな約束だった。席が違っても、隣は変わらない。そのことを、明日も確かめに行くつもりだった。先輩が窓際にいても、いなくても、俺はここに来る。その約束だけは、自分で守り続けるつもりだった。


明日も、ここに来る。その約束は、誰かに見せるためのものではない。俺だけが知っている、小さな約束だった。

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