第8話 許すとは、まだ言えない

翌日、放課後、美咲が廊下で俺を待っていた。教室を出たところで、美咲が俺の前に立った。彼女は、少しだけ震える声で言った。


「蓮、少しだけ、話を聞いてくれない? 今日こそ、ちゃんと謝りたいの」


俺は立ち止まった。美咲の目を見ると、彼女は本気で謝ろうとしていることがわかった。罰ゲームのときの笑い声とは、違う顔だった。俺は、美咲の謝罪を、もう一度断るべきかどうか考えた。昨日までは、「今日は話を聞けない」と言ってきた。でも、今日も同じことを繰り返すのは、美咲に対して不誠実な気がした。謝罪を聞くことと、許すことは、別のことだ。その区別を、今日の俺は、はっきりと言おうと思った。


「美咲、話は聞くよ。でも、許すとは、まだ言えない。それだけ、先に言っておくね」


美咲は頷いた。「うん、それでいい」と、小さな声で言った。彼女は、罰ゲームのことを話し始めた。クラスの友達に勧められて、軽い気持ちで引き受けてしまったこと。俺が本気にすると思わなかったこと。翌日、教室で笑い声を聞いて、初めて自分のしたことの重さに気づいたこと。美咲の言葉は、途中で何度も詰まった。俺は、その言葉を、黙って聞いた。途中で遮らなかった。美咲の謝罪を、最後まで聞くことが、今日の俺の誠実さだと思ったからだ。


美咲の話が終わると、俺は少しだけ考えて、言った。


「美咲、謝ってくれて、ありがとう。でも、前のようには、まだ戻れない。俺は、まだ美咲のことを、信じられるかどうかわからないんだ。信じられないまま、元の距離に戻るのは、美咲にも俺にも、よくないと思う」


美咲は目を伏せた。「……うん、わかった」と言った。彼女は泣かなかった。ただ、少しだけ肩を落とした。俺はそれ以上、何も言わなかった。許すとも、許さないとも、今日は決めない。でも、謝罪を聞いたという事実は、残しておくことにした。美咲は「ありがとう、聞いてくれて」と言って、教室の方へ戻っていった。その背中を見て、胸が少し痛んだ。痛んでも、昨日決めたことをすぐひっくり返すわけにはいかなかった。俺は、廊下にしばらく立ち尽くした。美咲の謝罪を聞いたことで、何かが終わったわけではない。何かが始まったわけでもない。ただ、謝罪を聞いたという事実が、俺の中に残った。許すかどうかは、まだ決められない。でも、謝罪を聞かないままにしておくよりは、聞いた方が誠実だと思った。美咲に対しても、俺に対しても、その方が正直だった。俺は、その気持ちを、自分の中で何度も確かめた。許すとは、まだ言えない。でも、嫌いになったわけでもない。その二つを、同時に持っていることが、今日の俺の正直な状態だった。


放課後、俺は図書室へ向かった。廊下の窓からは、午後の光が差し込んでいた。図書室の扉を開けると、窓際の席に桐生先輩がいた。先輩はいつも通り、本を開いて座っている。俺が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ顔を上げて、頷いた。


「来たね」


その一言で、今日の約束が続いていることがわかった。俺は頷いて、窓際の隣の席に座った。先輩は俺の様子を、じっと見ることはしなかった。ただ、本のページをめくりながら、短く言った。


「……無理しなくていい」


その言葉は、今日の俺のことを指しているようで、同時に指してはいないようだった。先輩は、俺の事情を詮索しない。ただ、本の中の人物の気持ちを、自分の言葉で短く置く。でも今日は、その言葉が、少しだけ直接的に聞こえた。美咲の謝罪を聞いたことで、俺は少しだけ疲れていた。先輩は、その疲れに気づいて、無理をしなくていいと言ってくれた。俺は「ありがとうございます」とだけ返して、本を開いた。無理をしないというのは、簡単なようで難しい。でも、ここでは、無理をしなくてもいいのだと、先輩が言ってくれた。


しばらく、二人で黙って本を読んだ。俺は、昨日借りた本の続きを読んだ。主人公が、自分の過去と向き合う場面だった。主人公は、過去の人物に謝罪される。主人公は、その謝罪を受け取る。でも、すぐに許すとは言わない。主人公は、「許すかどうかは、まだわからない。でも、話を聞いたことは、確かだ」と言う。俺はその場面を、ゆっくりと読んだ。今日の俺と、同じことを言っている主人公がいた。そのことに、少しだけ救われた。許さないことは、冷たいことではない。許すかどうかを、まだ決められないことは、嘘ではない。そう思えた。


「この主人公、許さないのは、冷たいんですかね」


俺が小声で尋ねると、先輩は本から目を上げずに答えた。


「……冷たくない。決められないのは、正直だから」


その言葉は、今日の俺のことを指しているようで、同時に指してはいないようだった。先輩は、俺の事情を詮索しない。ただ、本の中の人物の気持ちを、自分の言葉で短く置く。俺は「正直で、いいんですね」と返した。先輩は頷いて、「うん」とだけ言った。その短い返事が、今日の俺には、美咲の謝罪を聞いたことへの答えのように聞こえた。


俺はまた本に戻った。主人公が、謝罪を受け取ったあと、一人で考える場面だった。主人公は、謝罪を聞いたことで、相手を嫌いではなくなったと言う。でも、元の距離には戻れないとも言う。俺はその場面を、ゆっくりと読んだ。嫌いではないことと、元の距離に戻れることは、別のことだ。その区別を、主人公は、今日の俺と同じように言葉にしていた。先輩は、俺がその場面を読んでいることを、知っているようだった。いや、知らなくてもいい。ただ、同じ時間を、隣で過ごしている。その事実だけで、十分だった。許すかどうかを、まだ決められないことは、冷たいことではない。決められないまま、ここに通うことが、今日の俺の誠実さなのだと、俺は思った。


夕方、閉館の放送が流れると、先輩は本を閉じた。俺も本を閉じた。先輩は、今日読んでいた本の貸出カードを、俺の方へそっと押し出した。そのカードの裏には、新しい字があった。


『無理しなくていい』


先輩の字は、昨日よりも少しだけ大きく見えた。俺はそのカードを、しばらく見つめた。先輩が、俺の疲れを気にかけてくれた。その事実が、胸の奥で静かに広がった。俺は、自分のノートの端に、その言葉を書き写した。『無理しなくていい』。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。書き写すたびに、先輩の言葉が、俺の中で少しずつ自分の言葉になっていく気がした。


図書室を出ると、夕日の光が廊下に伸びていた。俺は鞄の中の本を、そっと確かめた。鞄の中には、まだ開いていない美咲の手紙もある。手紙は、今日の謝罪とは別のものだ。今日、美咲は口で謝った。でも、手紙はまだ開いていない。手紙を開く日が来るのかどうか、俺にはまだわからない。でも、今日は開かなかった。その選択を、俺は後悔しなかった。先輩との図書室の時間が、今日の俺の答えだったからだ。


帰り道、俺は今日のことを振り返った。美咲の謝罪を聞いた。でも、許すとは言わなかった。その二つは、両立するのだと、今日の俺は知った。謝罪を聞くことは、許すことではない。許さないことは、嫌いになることでもない。その区別を、俺は今日、初めて言葉にできた気がした。先輩は、その区別を、短い言葉で肯定してくれた。無理しなくていい。決められなくて、いい。その言葉が、今日の俺を支えていた。校門を出ると、夕日の光が、帰り道を長く伸ばしていた。美咲の姿は、そこにはなかった。俺は、美咲の手紙のことを、もう一度考えた。手紙は、今日の謝罪とは別のものだ。手紙を開く日が来るのかどうか、俺にはまだわからない。でも、今日は開かなかった。その選択を、俺は後悔しなかった。先輩との図書室の時間が、今日の俺の答えだったからだ。


家に帰って、俺は自分のノートを開いた。先輩の言葉を、もう一度なぞった。『無理しなくていい』。その言葉を、自分の字でなぞるだけで、胸が温かくなった。貸出カードは本と一緒に図書室に残る。だから、俺のノートにだけ、先輩の言葉を残しておきたかった。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。美咲の手紙は、まだ開いていない。そのことを、ノートに書きながら、俺はもう一度確かめた。手紙を開かないことは、美咲を無視することではない。まだ、答えを出せないという、正直な状態だ。その状態を、先輩は「無理しなくていい」と肯定してくれた。その言葉が、今日の俺には、少しだけ救いになった。明日も、ここに来る。そう思うと、足取りは昨日より少しだけ軽かった。許すとは、まだ言えない。でも、ここに来ることは、やめたくない。その事実だけが、今日の俺の帰り道を支えていた。

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