第6話 同じ本を、少しだけ一緒に読む
翌朝、教室に入ると、俺の机の上に一通の手紙が置いてあった。封筒には、美咲の字で「蓮へ」とだけ書いてある。俺はその手紙を手に取って、しばらく見つめた。開ければ、謝罪の続きが読めるのかもしれない。でも、今日は開かなかった。開いたら、許すか許さないかを、すぐに決めなければならなくなる気がしたからだ。俺は手紙を、鞄の中にしまった。未読のメッセージと同じように、未開封のままにしておくことにした。それは、美咲を無視するためではない。まだ、答えを出せないという、正直な状態だった。
授業中、手紙のことが頭の隅にあった。鞄の中に、美咲の言葉が入っている。開かないままにしておくのは、美咲に対して失礼なのではないかとも思った。でも、開いてすぐに「許す」と言える気持ちも、「許さない」と言い切れる気持ちも、まだなかった。曖昧なままにしておくことが、美咲に対しても、俺に対しても、一番正直なのだと、俺は思った。先生の声を聞きながら、俺は手紙のことを、少しずつ頭の隅に追いやった。
昼休み、美咲は自分の席で静かに過ごしていた。俺の方を、一度だけ見た。俺は、美咲と目が合うと、少しだけ頷いた。手紙を受け取ったという合図だった。美咲は、その頷きに、少しだけほっとしたような顔をした。それ以上は、何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。手紙のことは、今日はそれ以上触れない。それが、今日の俺と美咲の、精一杯の距離だった。
放課後、俺は図書室へ向かった。廊下の窓からは、午後の光が差し込んでいた。図書室の扉を開けると、窓際の席に桐生先輩がいた。先輩はいつも通り、本を開いて座っている。俺が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ顔を上げて、頷いた。
「来たね」
その一言で、今日の約束が続いていることがわかった。俺は頷いて、窓際の隣の席に座った。先輩は俺の席に、何も置いていなかった。ただ、俺の隣が空いている。それだけで、ここが俺の場所だとわかった。
しばらく、二人で黙って本を読んだ。俺は、昨日借りた本の続きを読んだ。主人公が、自分の居場所を探して旅をする話だった。主人公は、旅の途中で、同じ本を読む人物と出会う。二人は、同じ場面を読んで、同じところで笑ったり、同じところで黙ったりする。俺はその場面を、ゆっくりと読んだ。同じ本を読むというのは、同じ時間を過ごすことなのだと、今日の俺は思った。
やがて先輩が、自分の読んでいた本を閉じて、立ち上がった。先輩は、図書室の棚から、俺が読んでいる本と同じタイトルの本を取ってきた。その本を、俺の方へそっと押し出した。俺は、その本を手に取った。先輩が読んでいた本と同じ本だ。先輩は、何も説明しなかった。ただ、俺がその本に手を伸ばすのを見て、小さく頷いた。
「……同じ本、読んでみる?」
先輩が、小声で尋ねた。俺は「はい、読んでみます」と答えた。先輩は頷いて、自分の本に戻った。二人で、同じ本を、少しだけ一緒に読む。それは、会話よりも確かな、共有の時間だった。俺は、先輩が読んだ場面を、自分のペースで追いかけた。先輩が笑った場面で、俺も笑いそうになった。先輩が黙った場面で、俺も黙った。同じ本を読むことで、二人の気持ちが、少しだけ重なっていく気がした。
「この場面、どう思う?」
俺が小声で尋ねると、先輩は本から目を上げずに答えた。
「……主人公が、やっと一人じゃなくなった場面。じゃない?」
その言葉は、今日の俺のことを指しているようで、同時に指してはいないようだった。先輩は、俺の事情を詮索しない。ただ、本の中の人物の気持ちを、自分の言葉で短く置く。俺は「そうですね。一人じゃなくなったって、いいですね」と返した。先輩は頷いて、「うん」とだけ言った。その短い返事が、今日の俺には、同じ本を読んだことへの答えのように聞こえた。
俺はまた本に戻った。主人公が、同じ本を読む人物と、静かな森を歩く場面だった。二人は、言葉を交わさない。ただ、同じ景色を見て、同じ足音を聞いている。俺はその場面を、ゆっくりと読んだ。同じ本を読むというのは、同じ景色を見ることなのだと、今日の俺は思った。先輩と俺は、今日、同じ本の同じ場面を読んだ。その事実が、二人の間に、言葉よりも確かなものを作ってくれた気がした。
「この場面、好きですか?」
俺が小声で尋ねると、先輩は本から目を上げずに答えた。
「……好き。静かだから」
その言葉は、今日の俺のことを指しているようで、同時に指してはいないようだった。先輩は、俺の事情を詮索しない。ただ、本の中の人物の気持ちを、自分の言葉で短く置く。俺は「静かなのが、いいですね」と返した。先輩は頷いて、「うん」とだけ言った。その短い返事が、今日の俺には、同じ本を読んだことへの、もう一つの答えのように聞こえた。
夕方、閉館の放送が流れると、先輩は本を閉じた。俺も本を閉じた。先輩は、今日読んでいた本の貸出カードを、俺の方へそっと押し出した。そのカードの裏には、新しい字があった。
『同じ本、どうだった?』
先輩の字は、昨日よりも少しだけ大きく見えた。俺はそのカードを、しばらく見つめた。先輩が、同じ本を読んだ感想を、俺に聞いてくれた。その事実が、胸の奥で静かに広がった。俺は、自分のノートの端に、その言葉を書き写した。『同じ本、どうだった?』。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。書き写すたびに、先輩の言葉が、俺の中で少しずつ自分の言葉になっていく気がした。
図書室を出ると、夕日の光が廊下に伸びていた。俺は鞄の中の本を、そっと確かめた。鞄の中には、まだ開いていない美咲の手紙もある。手紙と、先輩の本。今日の鞄は、少しだけ重かった。その重さが、今日の俺の気持ちそのもののように思えた。美咲とのことは、まだ決められない。先輩とのことは、まだ名前をつけられない。その二つを、鞄の中で一緒に持ち帰る。それが、今日の俺の精一杯だった。
帰り道、俺は今日のことを振り返った。同じ本を読むことで、先輩との距離が、少しだけ縮まった気がした。でも、縮まった距離は、まだ恋人の距離ではない。ただ、隣に座って、同じ本を読む距離だ。その距離が、今日の俺には心地よかった。校門を出ると、夕日の光が、帰り道を長く伸ばしていた。美咲の姿は、そこにはなかった。俺は、美咲の手紙のことを、もう一度考えた。手紙を開く日が来るのかどうか、俺にはまだわからない。でも、今日は開かなかった。その選択を、俺は後悔しなかった。先輩との同じ本の時間が、今日の俺の答えだったからだ。急いで告白しなくてもいい。急いで仲良くなろうとしなくてもいい。ただ、明日もここに来て、同じ本の続きを読む。それだけを繰り返すことが、今の俺には合っていた。先輩の問いに対する答えを、明日、貸出カードの裏に書き加える。そのことを思うと、明日が少しだけ楽しみになった。
家に帰って、俺は自分のノートを開いた。先輩の言葉を、もう一度なぞった。『同じ本、どうだった?』。その問いに対して、俺はまだ答えていない。明日、図書室で、その答えを短く伝えよう。答えの言葉は、もう決まっていた。『同じ本、よかったです。明日、続きを読みます』。それだけだ。飾らない言葉の方が、先輩には届く気がした。俺はノートに、その答えを書き留めた。明日、貸出カードの裏に、その言葉を書き加えるつもりだった。先輩のメモに返事をする習慣は、第3話から続いている。急いで返事をしなくてもいい。でも、返事をしないままにしておくのは、違う気がした。先輩の問いには、短くても、自分の言葉で答える。それが、今の俺のやり方だった。同じ本を読むことで、先輩との距離が、少しだけ縮まった気がした。でも、縮まった距離は、まだ恋人の距離ではない。ただ、隣に座って、同じ本を読む距離だ。その距離が、今日の俺には心地よかった。急いでその距離を詰めようとしなくてもいい。明日も、同じ本の続きを、少しだけ一緒に読めばいい。そう思うと、明日が少しだけ楽しみになった。
美咲の手紙は、鞄の中でまだ開いていない。開く日が来るのかどうか、俺にはまだわからない。でも、今日は開かなかった。その選択を、俺は後悔しなかった。先輩との同じ本の時間が、今日の俺の答えだったからだ。
明日も、ここに来る。そう思うと、足取りは昨日より少しだけ軽かった。同じ本を読む人が、隣にいる。その事実だけが、今日の俺の帰り道を支えていた。明日、その人の隣に座るために、また図書室へ行く。それだけが、今の俺の楽しみだった。その楽しみは、誰かに見せるためのものではない。俺だけが知っている、静かな楽しみだった。
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