第5話 いつもの席が空いていた日

翌日、放課後、図書室の扉を開けると、窓際の席が空いていた。桐生先輩の姿がない。いつもなら、先輩はもうそこに座って、本を開いているはずだった。俺は扉の前で立ち止まった。先輩がいない図書室は、昨日までとは少しだけ違って見えた。紙と木の匂いは同じなのに、空気が薄い気がした。


俺は自分の席に座った。隣の席が空いている。それだけで、落ち着かなかった。昨日までは、先輩がいることが当たり前だと思っていた。当たり前だと思っていたものが、今日はない。そのことに、俺は初めて気づいた。先輩の存在が、俺の中でどれだけ大きくなっていたのかを、空いた席が教えてくれた。


しばらく、本を開いて待った。ページをめくっても、文章が頭に入ってこなかった。時計を見る回数が、増えていった。十分経っても、先輩は来ない。二十分経っても、来ない。俺は、待つという行為について考えた。美咲を待ったとき、俺はいつも焦っていた。美咲が来るのが遅れると、置いていかれるのではないかと不安になった。美咲の都合に合わせて、自分の時間を削ることが当たり前になっていた。でも、先輩を待つ時間は、違った。焦りはあるのに、不安は少なかった。先輩は、遅れても必ず来てくれるような気がした。根拠はない。ただ、ここ数日の先輩の様子から、そう思えた。待つ相手によって、待つ時間の質が変わる。そのことに、俺は今日、初めて気づいた。


三十分ほど経った頃、図書室の扉が静かに開いた。桐生先輩だった。先輩は少しだけ息を切らして、窓際の席に座った。俺の方を見て、小さな声で言った。


「……遅れた」


それだけだった。理由は言わなかった。用事があったのか、誰かに呼び止められたのか、俺にはわからなかった。でも、理由を聞く気にはなれなかった。先輩が、遅れてもここに来てくれた。その事実だけで、十分だった。先輩は、俺の待っていた時間を、責めなかった。俺も、先輩の遅れた理由を、責めなかった。図書室の空気が、さっきまでの薄さから、元の温かさに戻った。窓からの光も、さっきより明るく感じた。先輩がいるだけで、図書室は図書室になる。そのことを、俺は今日、身をもって知った。


「……待ってました」


俺がそう言うと、先輩は少しだけ目を見開いた。それから、ほんの少しだけ目を細めて、頷いた。先輩は、俺が待っていたことを、嬉しいと思ってくれたのかもしれない。でも、言葉にはしなかった。ただ、自分の本を開いて、また読み始めた。俺も、自分の本に戻った。二人の間には、会話よりも確かなものがあった。待っていた時間と、遅れてでも来てくれた事実だった。


しばらく、二人で黙って本を読んだ。俺は、昨日借りた本の続きを読んだ。主人公が、自分の居場所を探して旅をする話だった。主人公は、旅の途中で仲間と別れて、一人になる場面があった。その場面を読んで、俺は昨日の自分のことを思い出した。先輩がいない図書室で、一人で待っていた時間。あの時間は、つらいだけではなかった。待つことで、先輩の存在の大きさに気づけた時間だった。待つというのは、ただ時間を過ごすことではない。相手のことを、思いながら過ごすことなのだと、今日の俺は思った。


「この主人公、待つのは嫌じゃないんですかね」


俺が小声で尋ねると、先輩は本から目を上げずに答えた。


「……待つのは、嫌じゃない。待てる人が、いるから」


その言葉は、今日の俺のことを指しているようで、同時に指してはいないようだった。先輩は、俺の事情を詮索しない。ただ、本の中の人物の気持ちを、自分の言葉で短く置く。俺は「待てる人がいるって、いいですね」と返した。先輩は頷いて、「うん」とだけ言った。その短い返事が、今日の俺には、待っていた時間への答えのように聞こえた。


俺はまた本に戻った。主人公が、旅の途中で待つ人物と再会する場面だった。主人公は、待っていた人物に「待っててくれて、ありがとう」と言う。待っていた人物は、「待つのは、嫌じゃなかった」と答える。俺はそのやり取りを、ゆっくりと読んだ。待つことと、待たれること。その二つが、同じ気持ちで結ばれている場面だった。先輩と俺の、今日の関係に似ている気がした。先輩は、俺を待ってくれた。俺は、先輩を待った。その二つが、今日の図書室で、静かに重なっていた。


やがて先輩が、自分の読んでいた本を閉じて、立ち上がった。返却のカウンターへ行き、さっきまで読んでいた本の貸出カードを、手に取った。先輩はカードの裏に、何かを書き加えた。俺は、自分の席からその背中を見ていた。先輩の手が、ゆっくりと動いた。何を書いているのか、遠くからはわからなかった。


先輩が自分の席に戻ってくると、その本を俺の方へそっと押し出した。カードの裏には、新しい字があった。


『待っててくれて、ありがとう』


先輩の字は、昨日よりも少しだけ大きく見えた。俺はそのカードを、しばらく見つめた。先輩が、俺の待っていた時間を、ありがとうと言ってくれた。その事実が、胸の奥で静かに広がった。俺は、自分のノートの端に、その言葉を書き写すことを心に決めた。貸出カードは本と一緒に図書室に残る。だから、俺のノートにだけ、先輩の言葉を残しておきたかった。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。書き写すたびに、待つことへの怖さが、少しずつ薄れていく気がした。先輩の言葉は、俺を急かさない。だからこそ、俺は自分のペースで、先輩の言葉を受け取ることができた。俺はカードをそっと閉じて、本を返却のカウンターへ持っていった。司書の先生に渡すとき、手が少しだけ震えた。先生は何も気づかず、淡々と手続きをしてくれた。その淡々とした手続きが、かえって今日の出来事を、日常の中の特別なことにしてくれた気がした。


夕方、閉館の放送が流れると、先輩は本を閉じた。俺も本を閉じた。先輩は、今日読んでいた本とは別の本を、机の上に置いた。その本の貸出カードの裏には、まだ何も書かれていない。先輩は、その本を俺の方へ、少しだけ押し出した。何も言わなかった。でも、その仕草が、明日の約束のように思えた。


「……明日も、来ます」


俺がそう言うと、先輩は頷いた。


「うん。ここにいていい」


その言葉は、いつもの言葉と同じだった。でも今日は、その言葉が少しだけ違って聞こえた。昨日までは、ここにいることを許してくれる言葉だった。今日は、ここに来てくれたことへの、感謝の言葉のように聞こえた。


図書室を出ると、夕日の光が廊下に伸びていた。俺は鞄の中の本を、そっと確かめた。明日、その本の続きを読むために、また図書室へ行く。それだけが、今の俺の楽しみだった。


帰り道、俺は今日のことを振り返った。先輩がいない時間、俺は帰らなかった。待つことを選んだ。それは、美咲に対してはできなかったことだった。美咲の謝罪を、俺はまだ聞けていない。聞くことができないまま、時間が過ぎている。でも、先輩に対しては、待つことができた。その違いが、俺の中で何かを変え始めていた。待つ相手と、待てない相手。その違いは、好きかどうかではなく、安心できるかどうかだったのかもしれない。先輩の前では、待つことが苦しくなかった。美咲の前では、待つことが苦しかった。その違いを、俺は今日、初めて言葉にできた気がした。


明日も、ここに来る。そう思うと、足取りは昨日より少しだけ軽かった。空いていた席が、今日はもう空いていない。先輩がそこにいて、俺が隣にいる。その繰り返しが、少しずつ俺の日常になっていく気がした。その日常を、明日も大切に守るつもりだった。その日常は、誰かに見せるためのものではない。俺と先輩だけが知っている、静かな日常だった。


家に帰って、俺は自分のノートの端に、先輩の言葉を書き写した。『待っててくれて、ありがとう』。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。書き写すたびに、待つことへの怖さが、少しずつ薄れていく気がした。美咲を待ったとき、俺はいつも自分を削っていた。先輩を待ったとき、俺は自分を削らなかった。その違いは、相手が俺をどう扱うかではなく、俺が自分の時間をどう感じられるかだったのかもしれない。先輩の前では、待つ時間が、自分の時間のままだった。それが、今日の俺の発見だった。


急いで告白しなくてもいい。急いで仲良くなろうとしなくてもいい。ただ、明日もここに来る。それだけを繰り返すことが、今の俺には合っていた。先輩の言葉をノートに残しながら、俺はそう思った。明日、図書室の扉を開けたとき、先輩がそこにいるかどうかはわからない。でも、俺はここに来る。その約束だけは、自分で守り続けるつもりだった。

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