第2話 約束の席と、謝りに来た幼馴染
翌朝、教室に入ると、空気が少しだけ重かった。昨日の放課後のことが、クラスの誰かの口から広がっているのは明らかだった。誰も俺に直接何かを言ってはこない。ただ、視線だけが一瞬こちらを向いて、すぐに逸れる。美咲は自分の席に座って、教科書を開いていた。俺と目が合うと、彼女は慌てて俯いた。
俺は自分の席に座り、鞄から教科書を出した。美咲に声をかけないのは、意地ではない。昨日、連絡先を消して、グループを抜けた。それは怒りに任せた衝動ではなく、もう一度同じ笑い話の材料にはなりたくないという、静かな決意だった。だから今日も、無理に笑ったり、無理に仲直りしたりはしない。
授業中、美咲の鉛筆が止まる音が何度か聞こえた。俺は黒板を見続けた。先生の声を聞きながら、昨日の図書室の静けさを思い出す。紙と木の匂い。窓の外の雨。桐生先輩の短い言葉。あの場所に、今日も行く約束をした。約束を守ることだけを、今日の目標にした。
昼休み、美咲が俺の席の近くまで来た。何か言いかけたが、俺は「ごめん、今はちょっと」とだけ言って、図書室の本を読み始めた。冷たくしたつもりはない。ただ、まだ話す言葉が見つからなかった。美咲は少しだけ立ち止まって、それから自分の席に戻った。その背中を見て、胸が少し痛んだ。痛んでも、昨日決めたことをすぐひっくり返すわけにはいかなかった。
放課後、俺は約束通り図書室へ向かった。廊下の窓からは、昨日の雨が上がった青空が見えた。図書室の扉を開けると、窓際の席に桐生先輩がいた。先輩はいつも通り、本を開いて座っている。俺が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ顔を上げた。
「来たね」
それだけの言葉だった。でも、昨日の「明日も、ここに来る?」という問いに対する答えとして、それは十分だった。俺は頷いて、窓際の隣の席に座った。先輩は俺の席に、何も置いていなかった。席を確保するような派手なことはしない。ただ、先輩がそこにいて、俺の隣が空いている。それだけで、ここが俺の場所だとわかった。
しばらく、二人で黙って本を読んだ。先輩は時々ページをめくり、俺も時々ページをめくる。誰かと一緒にいて、会話をしなくてもいいというのは、不思議なほど楽だった。教室では、誰かの笑い声や視線を気にしなければならなかった。ここでは、沈黙が責められることはない。
やがて先輩が、自分の読んでいた本とは別の本を、机の上でそっと俺の方へ滑らせた。表紙には、俺が先週返した本と同じ作者の名前がある。先輩は何も説明しなかった。ただ、俺がその本に手を伸ばすのを見て、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
俺がそう言うと、先輩は「うん」とだけ答えた。それからまた、自分の本に戻った。押しつけではない。勧めでもない。ただ、ここに置いてあるから、読みたければ読めばいい。そんな距離感が、昨日の俺には何よりありがたかった。
その本の貸出カードを開くと、裏に小さな字があった。
『明日も、ここ』
昨日のメモと同じ、丁寧で少し丸い字だった。先輩は、俺に約束を迫ってはいない。ただ、明日もここにいるという事実を、短い言葉で置いていく。俺はカードをそっと閉じて、本を借りる手続きを心の中で決めた。この本を読み終えたら、またここに来て、感想を短く伝えよう。そう思えた。
先輩が滑らせてくれた本を読み始めると、最初の場面で主人公が森の中を一人で歩いていた。誰にも会わず、誰の声も聞かず、ただ足音だけを頼りに進む。昨日までの俺なら、その孤独がつらいものに思えたはずだった。でも今日は違った。隣に誰かがいて、沈黙を共有してくれる人がいるだけで、一人の場面も怖くなくなっていた。
「この主人公、どうして一人で歩くんですかね」
俺が小声で尋ねると、先輩は本から目を上げずに答えた。
「……誰にも、笑われたくないから。じゃない?」
その言葉は、俺の昨日のことを指しているようで、同時に指してはいないようだった。先輩は俺の事情を詮索しない。ただ、本の中の人物の気持ちを、自分の言葉で短く置く。それが、先輩なりの気遣いなのだとわかった。俺は「そうかもしれませんね」とだけ返して、また本に戻った。会話はそれで十分だった。長く話さなくても、同じ本を読んでいるという事実が、二人の距離を縮めていた。
放課後の図書室は、次第に夕日の色に染まっていった。窓の外では、部活の声が遠くに聞こえる。先輩は時計を一度見て、それからまた本に戻った。閉館の時間まで、まだ少しある。俺はその時間を、無駄にしたくないと思った。教室では、時間が早く過ぎてほしいとばかり思っていた。ここでは、時間がゆっくり過ぎてほしいと思った。その違いが、俺の中で何かを変え始めていた。
俺はふと、貸出カードの裏に、自分も何か書いてみようかと考えた。先輩のメモに返事をするなら、どんな言葉がいいのだろう。「ありがとう」だけでは短すぎる気がしたし、長く書けば先輩を困らせる気がした。結局、今日は書かないことにした。本を最後まで読んでから、自分の言葉で短く返そう。その方が、先輩のやり方に似ている気がしたからだ。先輩は、言葉をたくさん使わない。だからこそ、一言一言が重い。俺も、同じようにしたかった。
そのとき、図書室の入口で、小さな足音が止まった。振り向くと、美咲が立っていた。彼女は図書室の中を見回して、俺を見つけた。目が合うと、美咲は一歩入ってきて、声を絞り出すように言った。
「蓮、ごめん。昨日のは……本当に、ごめん。話、聞いてくれない?」
図書室の空気が、一瞬だけ張り詰めた。司書の先生が遠くからこちらを見ている。俺は立ち上がり、美咲の前まで歩いた。怒鳴るつもりはなかった。泣かせるつもりもなかった。ただ、昨日の決意を、今日も同じ言葉で伝えるだけだった。
「美咲、ごめん。今日はここにいるって決めたんだ。話は、今日は聞けない」
美咲の目が潤んだ。彼女は「……そっか」とだけ言って、俯いた。俺はそれ以上、何も言わなかった。謝罪を受け取らないのは、美咲を罰するためではない。まだ、許すと言える気持ちになっていないからだ。許すとも、許さないとも、今日は決めない。その曖昧さを、美咲に押しつけるのは申し訳ないと思いながら、それでも嘘はつかなかった。
美咲は図書室を出ていった。扉が静かに閉まる音がした。俺は自分の席に戻った。先輩は何も聞かなかった。何も言わなかった。ただ、俺が座るのを見て、自分の本のページをめくった。
「……ここにいていい」
先輩が、ぽつりと言った。昨日の言葉と同じだった。でも今日は、その言葉が少しだけ違って聞こえた。昨日は雨宿りの許可だった。今日は、俺がここにいることを、認めてくれているように聞こえた。
俺は頷いて、本を開いた。先輩が滑らせてくれた本の最初のページには、静かな森の描写があった。主人公が一人で歩いていく場面だった。俺はその文章を、ゆっくりと読んだ。隣では、先輩のページをめくる音が、規則正しく続いていた。
帰り際、先輩は貸出カードの裏を、俺に見せないようにそっと閉じた。俺はそれを見て、笑いそうになった。先輩は、メモを見られるのが少し恥ずかしいのかもしれない。でも、メモを書くことをやめはしない。その不器用さが、先輩らしかった。
閉館の放送が流れると、先輩は本を閉じて、静かに立ち上がった。俺も鞄を持って立ち上がった。二人で図書室を出ると、廊下は夕日の光で赤く染まっていた。先輩は下駄箱の方へ歩いていき、俺は少し後ろを歩いた。追いかけるのでも、並んで歩くのでもない。ただ、同じ方向へ帰る。先輩は振り返らなかった。でも、靴を履き替えるときに、ほんの少しだけ歩調を緩めてくれた気がした。
校門を出ると、美咲の姿はもうどこにもなかった。俺は借りた本を鞄に入れて、帰り道を歩いた。美咲のことを許したわけではない。謝罪を聞かなかったことについて、後ろめたさが残っているのも本当だ。でも、今日の俺は、誰かの謝罪を受け取るために図書室に行ったのではない。先輩との約束を守るために行ったのだ。その順番を、間違えたくなかった。
明日も、ここに来る。そう思うと、足取りは昨日より少しだけ軽かった。
明日も、ここにいる人がいる。その事実だけが、今日の俺の帰り道を支えていた。借りた本の重さが、鞄の中で心地よかった。明日、その本の続きを読むために、また図書室へ行く。それだけが、今の俺の楽しみだった。先輩のメモは、鞄の中の本に挟まったままだ。誰にも見せないまま、俺だけが知っている言葉として、明日まで大切に持って帰った。その言葉は、誰にも見せないまま、俺だけの宝物になった。
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