第3話 貸出カードの裏に、返事を書く

朝、目が覚めて最初に考えたのは、貸出カードの裏に何と書くかだった。昨日の夜、借りた本を読みながら、何度も言葉を考え直した。「ありがとう」だけでは、先輩のメモに応えたことにならない気がした。かといって、長く書けば、先輩の短い言葉の世界を壊してしまう気がした。先輩は、言葉をたくさん使わない。だからこそ、一言が重い。俺も、同じようにしたかった。


学校へ行く途中、コンビニの前で美咲の姿が見えた。彼女は俺に気づくと、少しだけ立ち止まった。俺は何も言わず、会釈だけをして通り過ぎた。美咲は何か言いかけたが、声にはならなかった。昨日、図書室で「今日は話を聞けない」と言った手前、今日も同じことを繰り返すのはつらかった。でも、許すとも、許さないとも、まだ言えない気持ちは変わっていない。だから、無理に言葉を作らないことにした。沈黙は、冷たさではない。まだ決められないという、正直な状態だった。


教室では、昨日の空気が少しだけ薄れていた。クラスメイトは、もう俺のことを笑い話にしなくなっていた。美咲も、自分の席で静かに教科書を開いている。俺は自分の席に座り、授業に集中した。先生の声を聞きながら、頭の隅ではずっと貸出カードのことがあった。返事の言葉は、授業が終わる頃には決まっていた。


『最後のページ、俺も好きです』


それだけだ。先輩のメモ『この本、最後のページが好き』に対する、素直な返事だった。飾らない言葉の方が、先輩には届く気がした。俺は鞄の中の本を、そっと確かめた。貸出カードは、まだ本に挟まったままだ。今日、図書室で返却するとき、その裏に自分の字で書き加えよう。そう決めると、胸が少しだけ温かくなった。


昼休み、隣の席の男子が俺に声をかけた。「最近、放課後図書室に行ってるんだって?」と、悪気のない調子だった。俺は「うん、静かな方が落ち着くから」とだけ答えた。男子は「へえ、意外だな」と言って、それ以上は聞かなかった。教室での俺は、まだ少しだけ周りの視線を気にしている。でも、図書室に行くことを隠すつもりはなかった。隠したら、図書室まで笑い話になってしまいそうだったからだ。男子の反応があっさりしていたことに、少しだけほっとした。


放課後、俺は図書室へ向かった。廊下の窓からは、昨日の雨が上がった青空が見えた。図書室の扉を開けると、窓際の席に桐生先輩がいた。先輩はいつも通り、本を開いて座っている。俺が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ顔を上げて、頷いた。


「来たね」


その一言で、昨日の約束が続いていることがわかった。俺は頷いて、窓際の隣の席に座った。先輩は俺の席に、何も置いていなかった。ただ、俺の隣が空いている。それだけで、ここが俺の場所だとわかった。


俺は借りた本を机の上に置いて、貸出カードを取り出した。カードの裏には、先輩の字で『明日も、ここ』と書いてある。その下の、まだ白い部分に、俺は鉛筆でそっと書き加えた。


『最後のページ、俺も好きです』


字は、先輩の字より少しだけ大きくて、少しだけ曲がっていた。自分の字が恥ずかしくなったが、消さなかった。消したら、返事をしなかったことになる気がしたからだ。俺はカードを本に挟んで、返却のカウンターへ持っていった。司書の先生に渡すとき、手が少しだけ震えた。先生は何も気づかず、淡々と手続きをしてくれた。


自分の席に戻ると、先輩が俺の方を見ていた。先輩は、俺が何をしたのか、わかっているようだった。いや、わかっていなくてもいい。先輩は、俺が返却した本のカードを、後で見るはずだ。そのときに、俺の返事に気づいてくれればいい。そう思うと、少しだけドキドキした。


しばらく、二人で黙って本を読んだ。俺は新しく借りた本を開いた。先輩が昨日滑らせてくれた本とは別の本で、図書室の棚から自分で選んだものだった。主人公が、自分の居場所を探して旅をする話だった。俺はその主人公に、自分を重ねながら読んだ。居場所というのは、誰かに与えられるものではないのかもしれない。自分で、毎日通うことで作っていくものなのかもしれない。図書室の窓からは、午後の光が差し込んでいた。第1話の雨の日とは違って、今日は明るい。でも、窓際の席の静けさは変わらない。先輩がここにいて、俺がここにいる。その繰り返しが、少しずつ俺の居場所になっていく気がした。急いで仲良くなろうとしなくてもいい。急いで何かを決めなくてもいい。ただ、明日もここに来る。それだけを繰り返すことが、今の俺には合っていた。


「この本、どう?」


先輩が、小声で尋ねた。俺は少し考えて、「主人公が、居場所を探しているのが、よくわかります」と答えた。先輩は頷いて、「……探すのは、悪いことじゃない」と言った。その言葉は、俺の昨日のことを指しているようで、同時に指してはいないようだった。先輩は、俺の事情を詮索しない。ただ、本の中の人物の気持ちを、自分の言葉で短く置く。それが、先輩なりの気遣いなのだと、昨日よりもはっきりわかった。


やがて先輩が、自分の読んでいた本を閉じて、立ち上がった。返却のカウンターへ行き、さっき俺が返した本の貸出カードを、手に取った。先輩はカードの裏を見て、少しだけ立ち止まった。俺は、自分の席からその背中を見ていた。先輩の肩が、ほんの少しだけ上下した。笑ったのか、息を吐いたのか、遠くからはわからなかった。


先輩が自分の席に戻ってくると、俺の方を一度だけ見た。そして、小さな声で言った。


「……ありがとう」


それだけだった。でも、その一言で、俺の返事が届いたことがわかった。先輩は、それ以上何も言わなかった。ただ、自分の本を開いて、また読み始めた。俺も、自分の本に戻った。二人の間には、会話よりも確かなものがあった。貸出カードの裏に、互いの短い言葉が並んでいるという事実だった。


俺はふと、先輩がどうして図書委員ではないのかと考えた。放課後はいつもここにいて、本のこともよく知っているのに、委員の腕章をつけているところを見たことがない。聞けば、すぐに答えが返ってくるのかもしれない。でも、今日は聞かないことにした。先輩のことを、すべて知らなければいけないわけではない。知らない部分があっても、ここにいてくれるだけで十分だった。先輩が、自分のペースで話してくれる日を待つ。それも、待つ型の関係なのだと、俺は思った。


夕方、閉館の放送が流れると、先輩は本を閉じた。俺も本を閉じた。先輩は、今日借りた本とは別の本を、机の上に置いた。その本の貸出カードの裏には、まだ何も書かれていない。先輩は、その本を俺の方へ、少しだけ押し出した。何も言わなかった。でも、その仕草が、明日の約束のように思えた。


「……明日も、来ます」


俺がそう言うと、先輩は頷いた。


「うん。ここにいていい」


その言葉は、昨日の言葉と同じだった。でも今日は、その言葉が少しだけ違って聞こえた。昨日は、雨宿りの許可だった。今日は、俺がここにいることを、認めてくれているように聞こえた。


図書室を出ると、夕日の光が廊下に伸びていた。俺は鞄の中の本を、そっと確かめた。明日、その本の続きを読むために、また図書室へ行く。それだけが、今の俺の楽しみだった。


翌日、図書室でその本を開くと、貸出カードの裏に、新しい字があった。


『返事、嬉しかった』


先輩の字は、昨日よりも少しだけ大きく見えた。俺はそのカードを、しばらく見つめた。先輩が、俺の返事を嬉しいと思ってくれた。その事実が、胸の奥で静かに広がった。俺はカードをそっと閉じて、本を読み始めた。明日も、明後日も、ここに来る。そう思うと、足取りは昨日より少しだけ軽かった。


俺は、自分のノートの端に、先輩のメモの言葉を書き写した。『返事、嬉しかった』。その言葉を、自分の字でなぞるだけで、胸が温かくなった。貸出カードは本と一緒に図書室に残る。だから、俺のノートにだけ、先輩の言葉を残しておきたかった。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。急いで仲良くなろうとしなくてもいい。急いで何かを決めなくてもいい。ただ、言葉を一つずつ、大切に集めていく。それが、今の俺のやり方だった。


帰り道、スマホの中に、まだ開いていない美咲からのメッセージがあることを思い出した。あのメッセージは、第1話の夜からずっと未読のままだ。開けば、謝罪の続きが読めるのかもしれない。でも、今日は開かなかった。先輩との貸出カードのやり取りを、大切にしたい気持ちの方が強かったからだ。美咲とのことは、まだ決められない。決められないまま、図書室へ通う日々が続いていく。それでいいのだと、俺は自分に言い聞かせた。

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