第3話 わたくしを誘う理由
最初の外出は、わたくしが伯母と一緒にお誘いした、秋の市だった。
公爵様のお返事には、約束どおり「行きたい」とあった。
そして十月の終わり、薄い灰色の封筒に入って届いたのは、木曜日の午後を二人で過ごしたいという手紙だった。
「よかったわねえ」
向かいの席で、伯母が新聞を畳む。
「まだ、お返事はしておりません」
「だから、よかったのよ。返事を書く間も楽しめるでしょう」
そういうものなのだろうか。
手紙の最後には、雨なら別の日に、とあった。雨でなければ断れない、という意味ではない。読めば分かることなのに、三度も同じところを読み直した。
離縁が成立してから、六週間ほどになる。
王室婚姻院とのやり取りは続いていたけれど、すべての時間をあの家へ向けなくてもよくなった。朝から手紙を待っている日があることを、わたくしは、まだ誰にも話していない。
「何を着ていらっしゃるおつもり?」
「緑の……いえ、薄紫の外出着にいたします」
「今日は、そちらを着たいのね」
伯母の口元に、気づかわしさではない笑みが浮かんだ。
言い返したかったのに、うまい言葉が見つからない。わたくしは返事を書くために立ち上がった。
木曜日の空は、腹立たしいほどきれいに晴れた。
玄関へ降りると、バスティアン様が、帽子を手に立っていた。濃い灰色の上着は仕立てがよく、見慣れたはずの肩の広さを、今日は妙に意識してしまう。
「お待たせいたしました」
「いや。俺が早い」
そう言ってから、少しだけ目を細める。
「その色は、君に似合う」
お天気の話より先に、そう言うのだ。
何度お目にかかっても、この方の率直さには慣れない。
「ありがとうございます。雨をお待ちだったのでは?」
「なぜ」
「お手紙に、雨なら別の日にとございましたから」
「それは、雨で君を歩かせたくなかったからだ。今日を取りやめたいわけじゃない」
見当違いをしたふりは、少し危険だった。
この方は、こちらが逃げ道に使おうとした言葉まで、まっすぐ拾ってしまう。
馬車にはニナも同乗した。伯母は、わたくしたちを送り出すために玄関まで来て、肝心なところでは何も言わなかった。
ただ、わたくしの手袋の端を直すと、小さく片目をつむった。
秋の市は、王宮の西の広場に立っていた。
先日来たときよりも露店が増えている。焼き菓子の湯気、色とりどりの毛織物、細長い瓶に詰めた香油。高いところには、赤銅色の葉を束ねた飾りが渡されていた。
最初の角には手袋の店があり、棚の奥に並んだ薄紫の品へ目を留めた。今度の夜会に、あの色もよさそうだ。そう思いながら、人波の先へ進む。
見たいものがあるたび、口に出してもよい。
それを覚えるまで、わたくしは意外に時間を使った。
「そちらが気になるのか」
立ち止まりかけたわたくしに、公爵様が尋ねる。
人形の店だった。手のひらほどの木の人形が、小さな舞台の上で順番にお辞儀をしている。糸を引く店主の顔はたいそう真剣で、列の最後の王様だけが、なぜか毎度つんのめった。
「あの王様が、無事にお辞儀を終えられるか気になりまして」
「臣下が先に起き上がるから、糸が絡むんだな」
「公爵様、お分かりになるのですか?」
「いや。今、店主がそう言っていた」
聞きそびれていたわたくしは、思わず笑った。
公爵様は人形ではなく、わたくしを見ていた。
「何か?」
「君が笑うまで、王様にはもう二度ほど転んでもらうつもりだった」
「お気の毒ですわ」
「俺も少しそう思った」
悪びれない声だった。けれど店を離れるとき、公爵様は小さな兵士の人形を二つ買った。
何か尋ねる前に、答えが来る。
「甥たちへ。家で王様を増やすと、義妹に怒られる」
軍神と呼ばれる方にも、おもちゃの種類で叱る家族がいる。そのことが何だかおかしくて、顔が緩むのを止められなかった。
人形の店を離れた先で、わたくしは見覚えのある名を見つけた。
版画の店の、一番高いところだった。剣を掲げ、風に外套をなびかせている武人の下に、大きく『軍神ドーヴェル公爵』と印刷されている。
その顎も肩も、隣にいる方より、二回りは大きかった。
「勇ましいお顔でいらっしゃいますね」
「俺にも、そう見える」
「お許しになっているのですか」
「絵まで見張っていられない。家族が見たら、また笑うだろうが」
公爵様は、困ったように版画を見上げた。
町の人々が足を止め、絵の名前と、本人の顔を見比べている。けれどこの方は、店をやめさせるために近づくことも、顔を隠すこともしなかった。
「コレット嬢には、あの絵のように見えるか」
面白がっていたわたくしへ、不意に問われた。
「いいえ。本物の方が、ずっと素敵です」
言い終えてから、口が勝手に動いたことに気づく。
公爵様まで、こちらを向いたまま黙ってしまった。
「……あの、絵のお話ですわ」
「分かっている。もう一度聞きたいだけだ」
「お聞こえになったのでしょう」
「聞こえた」
こういうときだけ、たいそう素直な返事が返ってくる。
わたくしが先に歩き出そうとすると、人形の包みの紐が、公爵様の上着の釦に引っかかっているのに気づいた。
「動かないでくださいませ」
指を伸ばし、引っかかった紐を少しずつ外す。
広場の向こうで鐘が鳴った。公爵様の顔がこんなに近くにある、と気づいたのは、最後の一巻きを解いたあとだった。
「まだ、絡んでいるか」
「……いいえ。もう」
「そうか」
それなのに、この方はすぐには離れない。
「ご自分でも、ほどけましたでしょう」
「君がほどいてくれるというから」
ニナが、少し離れたところで露店の品を見ている。こちらを向かないのが、かえってありがたくなかった。
休憩に入った菓子店は、大きな窓から広場を見下ろせた。
公爵様は人形の包みを椅子の横に置き、運ばれてきた栗の菓子を見て、しばらく考え込んだ。
「苦手でいらっしゃいますか」
「食べ方を考えている」
薄い飴の籠に、栗のクリームが盛られている。公爵様が匙を入れると、籠がきれいに割れず、大きく傾いた。
わたくしが手伝おうとするより早く、この方は皿を回し、倒れかけた籠を自分で受け止めた。
「あの王様を笑えないな」
真面目に言うから、笑いがこみ上げる。
「公爵様、そのお顔で冗談をおっしゃるのは、おやめになって」
「君が笑うなら、悪くない」
匙を持つ手を止めた。
窓の外では、知らない夫婦が一つの焼き菓子を分け合っている。その景色に、以前なら目を背けただろう。
今日は違った。わたくしもこの菓子を、この方に少し差し上げたいと思う。
「こちらは、先に周りを崩してございます」
自分の皿を少し寄せると、公爵様はわたくしの顔を確かめるように見た。
「交換してくれるのか」
「半分だけ。わたくしも栗が好きですから」
「では、半分もらおう」
そう言いながら、一番大きな栗はわたくしの側へ残された。
思わず見上げると、公爵様は今度こそ、自分の皿をじっと見ていた。
店を出る間際、窓際の婦人から声をかけられた。
ヴァレール家の夜会で、二度ほど見かけた方だった。隣にいる友人へ何か囁いてから、椅子を引く。
「コレット様。まあ、お元気そうで安心いたしましたわ」
「ごきげんよう」
「療養先はお決まりになりましたの? あちらでは、長くお身体のことで悩んでいらしたと伺って」
公爵様の視線が、婦人へ移った。
わたくしは、その前に口を開いた。
「どなたから、お聞きになりましたか」
「それは……皆様、お気にかけていらして」
「お心遣いには感謝いたします。でも、わたくしは医師から、そのようなお話をされたことがございません」
婦人の顔から、親切らしい笑みが消えた。
「何か行き違いがあるのでしょう。現在、婚姻院に、理由の記載について訂正を求めております」
「では、わたくしの聞いたお話は」
「次にお聞きになったときは、わたくしはそう申し上げていたと、お伝えいただけますか」
相手は一度、唇を開きかけた。けれど隣の友人の視線に気づいたのか、今度は小さく頷いた。
わたくしはお辞儀をして、店を出た。
扉が閉まるまで、きちんと歩けているかばかりが気になった。
広場の端へ出ると、公爵様が歩みを緩めた。
「少し座るか」
「いいえ。歩きたいのです」
「分かった」
わたくしの歩く速さに合わせてくれる。慰めの言葉を探していないのが分かって、かえって、息がつけた。
「公爵様は、お尋ねになりませんのね」
「何を」
「本当は何があったのか」
石畳に落ちていた葉を、靴先で踏みそうになる。少し避けて歩いた。
「婚姻院で話す準備をしているのだろう。俺に会うたび、同じ説明をする必要はない」
それから、こちらを向いた。
「ただし、今日、君があの婦人に言ったことは覚えておく」
「どうしてですか」
「俺の前で同じ噂を聞いたら、そのままにはしないからだ」
道の先の露店が、風で軋んだ。
わたくしは、差し出されていた腕へ自分の手を重ねた。
「今日の続きを、嫌なお話にしてしまいました」
「まだ、終わっていない」
公爵様は、広場の向こうの店を顎で示した。
「君はあの手袋を見たがっていた。俺は、それを選ぶ君を見たかった」
誰かの噂よりも、わたくしの立ち止まった先を見ていた方がいる。
それが嬉しいと、今度はすぐに分かった。
薄紫の舞踏用手袋は、その店で見つかった。
わたくしが自分で代金を払おうとすると、公爵様は残念そうな顔になった。
「君へ贈る口実が、一つ減った」
「口実が必要なのですか?」
「今は、まだ」
わたくしは手袋を受け取り、空いた手で、公爵様の袖をちょっと引いた。
「では、土曜日の夜会で、こちらを見つけてくださいませ」
「踊りは不得手だが、君のところへは行く。見失うつもりはない」
そう言われてから初めて、わたくしが踊りを誘ったのだと気づいた。
*
土曜日、トレヴァン伯爵家の広間には、葡萄の葉を模した金の飾りが揺れていた。
伯母とともに入ると、いくつかの視線がこちらを向いた。わたくしは扇を開かず、招いてくれた伯爵夫人へ挨拶に進む。
「お越しくださって嬉しいわ。エリーズ様から、近ごろはお出かけが楽しいと伺ったの」
伯母に目を向けると、何も悪いことはしていないという顔をした。
その向こうに、エメリック様がいた。
隣には、ベリンダ様。二人を囲む人の輪は、わたくしの視線に気づくと、少しずつ形を変えた。
「君が来るとは思わなかった」
わたくしが飲み物を受け取る前に、元夫が近づいてきた。
「わたくしにも、ご招待をいただきましたので」
「もう少し、落ち着いて過ごした方がいい。君のためにも」
その声には、以前と同じ気安さがあった。わたくしの予定を、今も自分が決められるような。
「そうですか。わたくしは、今夜を楽しみにしてまいりました」
わざと微笑んだつもりはなかった。
けれど元夫は、それが気に入らなかったらしい。
「人前で無理をする必要はないと言っているんだ」
「無理をしているように見えますか」
答えを待たずに、足音が近づいた。
「リシュモン嬢」
バスティアン様だった。
夜会の正装では、昼間よりもさらに大きく見える。黒い上着の胸の勲章が、燭台の光を拾っていた。
元夫へは儀礼どおりの挨拶だけをして、わたくしの前へ手を差し出す。
「一曲、お相手願えますか」
薄紫の手袋に、視線が落ちた。
見つけてくださった。そのことに、胸が熱くなる。
「はい。お待ちしておりました」
元夫が、わたくしの名前を呼びかけた。
わたくしは振り返らずに、公爵様と広間の中央へ進んだ。
「踊りは不得手だと、おっしゃっていませんでした?」
「得手だと言って、期待を裏切るよりいい」
「では、手加減いたしますわ」
「できれば、そうしてくれ」
曲が始まると、手加減など必要なかった。
公爵様はわたくしの足運びを確かめ、少し大きかった歩幅をすぐに直した。腰へ添えられた手は、迷いなく、けれどわたくしの動きを妨げない。
顔を上げると、まっすぐな視線とぶつかった。
「……不得手なのでしょう?」
「間違えないよう、君をよく見ている」
「足をご覧にならなくてよろしいのですか」
「それでは、もったいない」
返す言葉がなくなった。
曲が終わるころには、頬が熱いのは踊ったせいだけではないと、自分でも分かっていた。
次の曲が始まる前に、ベリンダ様がわたくしたちの前へ出てきた。
「公爵様、ごきげんよう。コレット様がこれほどお元気になられて、わたくしも嬉しゅうございます」
わたくしを見る目は、笑っていなかった。
「わたくしに、療養は必要ございません」
「まあ。でも、エメリック様もお義母様も、ずっと心配なさって。医師のお話もあったのでしょう?」
近くにいた婦人が、こちらへ耳を傾けた。
わたくしは、その方にも聞こえる声で答えた。
「どの医師のお話でございますか。お名前を教えてくださいませ」
ベリンダ様の笑みが、わずかに引きつった。
「わたくしが直接伺ったわけではございませんけれど」
「では、わたくしの身体について、確かめずにお話しなさらないでください」
空になったグラスを、通りかかった給仕へ渡す。
逃げるために下を向かずに済んだ。公爵様が隣で、わたくしの言葉を待っていてくれたから。
「以前のお宅の事情を、わたくしたちにお話しする必要はないわ」
そばの婦人が、少し困ったようにベリンダ様へ言った。
ベリンダ様は、わたくしではなく、その婦人を見た。先ほどまで自分の側にあると思っていた好奇心が、向きを変えたことに気づいたのだろう。
「失礼いたします」
お辞儀をして輪から離れる。
公爵様は追い打ちの言葉をかけなかった。ただ、わたくしの方へ身体を向けた。
「次も、俺を誘ってくれるか」
その場で答えられず、一度、笑ってしまった。
「今、わたくしが何を申し上げたか、お聞きでした?」
「聞いていた。だから次は、楽しい返事が聞きたい」
元夫がこちらを見ていた。
けれど、その顔がどんなものだったか、後になるとよく思い出せなかった。
わたくしは公爵様へ、もう一曲踊りたいと伝えたからだ。
*
帰る前に、広間の熱気を避けて小さな露台へ出た。
屋内から光が届き、扉の向こうには人の気配がある。薄い肩掛けを直すと、公爵様が半歩近づいた。
「寒いか」
「少しだけ。けれど、まだ戻りたくありません」
この方と二人でいられる時間を、もう少し延ばしたかった。
そう言ってしまう勇気はない。それでも、公爵様が戸惑うほど鈍い方ではないことを、今は知っている。
「俺もだ」
低い声が、近くで聞こえた。
広間では、次の曲が始まっていた。誰かに誘われたら、この方も踊るのだろうか。
思い浮かべたとたんに、胸の奥がきゅっと狭くなった。
「公爵様は、どなたにでも、ああしてお話しになるのですか」
「ああして、とは」
「……見ていないと、もったいないと」
こんなことを聞くつもりはなかった。
肩掛けの端を握り直すと、公爵様の手が動いた。わたくしの指を解かず、そのすぐ隣へ触れる。
「君を誘う理由を、まだ言っていなかったな」
見上げた先で、目が合った。
「君と会いたいからだ。君が俺を見て笑うと、次もそうしてほしくなる。ほかの男に向けている笑顔を見たら、たぶん面白くない」
「わたくしも、今、それを考えました」
やっと、それだけ言った。
公爵様は驚いたように瞬きをした。わたくしに言わせるくせに、自分が言われるとそんな顔になる。
おかしいのに、笑えなかった。胸がいっぱいだった。
「……それなら」
公爵様の視線が、わたくしの唇へ落ちた。
「口づけしてもいいか」
頷くだけでは、足りないと思った。
「はい。していただきたいのです」
わたくしから、その上着へ手を添えた。
近づく顔を見つめたままではいられず、目を閉じる。触れた唇は、想像していたより温かかった。
ほんの短い口づけだった。それなのに離れたとたん、名残惜しくて、上着に添えた手を下ろせなかった。
「コレット」
その声で、名前だけを呼ばれた。
返事の代わりに見上げると、指の背が頬へ触れた。公爵様も、すぐにはわたくしを離そうとしない。
「今、帰すのが惜しくなった」
「伯母様が、お待ちですわ」
「分かっている。困っているだけだ」
今度こそ、笑ってしまった。
公爵様は少し残念そうに、その笑いを見ていた。
扉へ向かう前に、わたくしはもう一度だけ、その手へ自分の手を重ねた。
「来週も、わたくしを誘ってくださいますか」
「明日にでも、手紙を書く」
「明日は、伯母様と外出いたします」
「では、帰ってから読んでくれ」
待っていることを、恥ずかしいとは思わなかった。
扉を開ける前に振り向くと、公爵様はまだわたくしを見ていて、その目を見たら、もう一度戻りたくなった。
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