第4話 誰も知らなかった三年の夜

 十一月の半ば、ヴァレール家から届いた手紙には、わたくしへの気遣いよりも、ニナへの脅しが多く書かれていた。


『若い使用人の将来を、ご自身の感情のために損なうことのないよう、お考えください』


 末尾にはオディール様の署名がある。


 その一行を読み終えるより先に、横からニナの声がした。


「わたくし、感情で動いておりますけれど」


 驚いて顔を上げる。


「腹が立っておりますから。コレット様がお身体のせいで離縁されたと、あの家の方に言われるのは」


「ニナ……」


「でも、見ていないことを見たとは申しません。そこは、ちゃんと分けております」


 彼女の指先が、手紙の端で止まった。


 ヴァレール家を離れたあとも、あちらから呼び戻す手紙が二度来ていた。辞めるなら紹介状は出さないと、最後には書かれていたという。わたくしへ心配をかけまいと、ニナはそれを伏せていた。


「もっと早く教えてほしかったわ」


「伯母様にはお見せしました。わたくしはこちらで働きたいと申し上げましたら、それなら紹介状を待つ必要はないと」


 ニナは、少し申し訳なさそうに笑った。


 わたくしは手紙を畳まず、机の上へ置いた。


「わたくしに聞かれたくないことがあったのなら、それは尊重する。でも、わたくしを案じて黙るのは、もうおしまいにして」


 彼女は頷いた。


 わたくしも、自分の胸へ同じことを言わなければならなかった。


 その日の午後、オディール様がいらした。


 手紙だけで思いどおりにならないとお考えになったらしい。伯母が客間へ招き、わたくしはその隣に座った。


 ニナが茶を置くと、オディール様の視線が、彼女の手元に落ちる。


「お前のためにも、おとなしくしていればよいのに」


 独り言のような小さな声だった。


 ニナは聞こえないふりをせず、背を伸ばした。


「わたくしは、レニエ様からお尋ねがありましたら、存じていることをお答えします」


「家の内のことを、外へ持ち出すのですか」


「その家から、コレット様のお身体の噂を広めるのは、よろしいのですか」


 オディール様が眉を吊り上げた。


 伯母は、お客様へ茶を勧める声のまま言った。


「うちの使用人へのお話は、わたくしを通していただけるかしら」


 ニナへ目を向け、下がってよいと告げた。


 扉が閉まると、オディール様は、わたくしへ身体を向けた。


「あの子まで巻き込むことはないでしょう。あなたには、もっとよいお話もあるようですし」


 公爵様のことだった。


 顔には出さず、わたくしは続きを待った。


「ならば、過ぎた結婚のことを、いつまでも取り沙汰する必要はありません。エメリックも、あなたの幸せを妨げるつもりはないのよ」


「理由の記載を訂正していただければ、審理の必要はなかったのです」


「そんなことをすれば、あの子の立場はどうなります」


 ようやく、本当の用事が出てきた。


「春の王室婚礼祝賀会の件もあります。今、大切な時期だと知っているでしょう。王家の行事を預かる男が、元の妻とこんな争いをしているなんて」


「争いになるような説明を届け出たのは、どなたでしょうか」


「コレット」


 名を呼ぶ声は、昔と変わらなかった。


 口答えをする嫁を、たしなめる声音。


「あなたの部屋へあの子が行かなかったことを、どうして家の外へ持ち出すのです。夫婦の間には、そういう時期もあるのです」


 隣で、伯母の手が止まった。


 わたくしは膝の上に置いた両手を、一度握った。


「三年間を、そういう時期とおっしゃるのですか」


「だから、家の中で話せば済んだことを」


「わたくしは、お話ししました。何度も」


 婚礼の翌月にも、最初の冬にも、二度目の結婚記念日のあとにも尋ねた。


 いつか夫婦として暮らせるのか。そう訊くたび、忙しい、気を急かすなと返された。最後にはこの方から、妻が夜のことを騒ぎ立てるのは見苦しいと叱られたのだ。


「あなたには、務めを果たしてもらったでしょう。伯爵夫人として、何不自由なく」


 オディール様が言った。


「あの子にも、あの子の気持ちがあるのです」


「それでしたら、なぜ、わたくしとの結婚をお勧めになったのですか」


「家にふさわしい嫁を迎えれば、あの子も以前の女を諦めると思ったのです」


 口にしてから、オディール様は唇を結んだ。


 誰も、わたくしがあの家でどう暮らすかを考えてはいなかったのだ。夫の気持ちを変える役目だけが、知らないうちにわたくしへ渡されていた。


「諦めなかったのは、エメリック様です。どうして、わたくしの病気になさるのでしょう」


 すぐには答えが来なかった。


 オディール様は、伯母の顔を見た。誰かが家の体面を取りなしてくれると思ったのかもしれない。


「ベリンダさんは、初めから事情を分かって待ってくださったの。あの方にまで、迷惑をかけないでちょうだい」


「どの事情をご存じだったのですか」


「……あなたとは、寝室を共にしていないということよ。それが、何だというの」


 伯母が、置きかけた茶碗を受け皿へ戻した。


「そのお話は、わたくしも確かに伺いました」


 オディール様の顔色が変わった。


 まさか、今ここで自分の言葉を数えられるとは思っていなかったのだろう。


「エリーズ様。こんな、女同士の話を」


「ええ。女同士で、あなたのお話を伺っております」


 逃げ道のないほど穏やかな声だった。


 わたくしは、伯母に続いて話を引き取った。


「今のお話も、婚姻院へお伝えいたします。ベリンダ様が何をご存じで、あの噂を広めたのか、確かめていただくために」


「あなたは、恥ずかしくないの」


 今度は強く言われた。


「夫が一度も来なかった寝室のことを、人前で口にするなんて。ドーヴェル卿がそれを聞いて、どうお思いになるか」


 顔が熱くなる。


 それを見て、オディール様の目に、ようやく手応えを見つけたような光が浮かんだ。


 恥ずかしい。その感情は、まだ消えない。


 望んで待っていた自分の姿を、知らない人々の前へ差し出すのは怖い。


 けれど、その怖さを、この方は三年間使ってきたのだ。


「公爵様へ何をお話しするかは、わたくしが決めます」


 声が、少し掠れた。


 それでも言い終えることができた。


「本日は、もうお帰りください。ニナへのお手紙は、婚姻院にもお見せいたします」


 オディール様は、立ち上がってもすぐには動かなかった。


 わたくしが引き止めるのを待っていらしたのかもしれない。


 伯母がベルを鳴らすと、ようやく、上着を持つ使用人の方へお顔を向けられた。


     *


 婚姻院へ持参する書類に、トレヴァン伯爵夫人の手紙を加えた。


 夜会でのわたくしの返答を聞いてから、夫人は事情を確かめる手紙をくださった。ベリンダ様から、わたくしが結婚前から医師に子を望めないと言われていたと聞かされていたのだ。ヴァレール家は、そんな妻を三年も庇ってきた、とも。


 今、手元にあるのは、その言葉と聞いた日時を記した書簡だった。婚姻院へ提出してよいと、書き添えてある。


「わたくしが、彼女に直接聞いたお話だから」


 夫人のその一文を、もう一度読んだ。あの夜、広間を出ずにいてよかった。


 婚姻院で、ニナは受けた命令と、自分で見聞きしたことを話した。


「ただ、わたくしは一日中廊下を見ていたわけではありませんので……見ていない時間のことまで、断言はできません」


「それで結構です。ご自身の知っている範囲を、お話しください」


 レニエ様の返事に、ニナの指が膝の上で少し緩んだ。


 伯母は、オディール様の発言を伝えた。ベリンダ様は初めから寝室を共にしていないと知っていた。その言葉を、ご自分も客間で聞いたと。


 わたくしは、記録を取るレニエ様へ尋ねた。


「噂を聞いた方々の前で、わたくしからも話すことはできますか」


「公開の聴取を申し立てることはできます」


 書面を渡すだけで、全部が終わってほしかった。あの夜の自分を、知らない人の前へ連れていきたくはなかった。


 けれど、体が悪いのだと信じた人がいる。その人たちへも、わたくしの言葉を届けたかった。


「どこまでお話ししなければならないのでしょう」


「部屋を共にしなかったこと、拒否の意思が続いたこと。細部まで話す必要はありません。書面の必要な箇所は、こちらから読み上げます」


「では、申し立てます。わたくしも、自分で話します」


 恥ずかしさが消えたわけではない。それでも、日取りを確かめるために顔を上げられた。


 公開の聴取は十二月半ば。正式な出席の返事は、数日のうちに書面で送ることになった。


     *


 公爵邸を初めて自分から訪ねたのは、その翌日だった。


 前からお会いしたいと思っていた。婚姻院のことを話すためだけに来たのではないと、それだけは、ご挨拶より先に言ってしまいたかった。


 けれど玄関で名乗ると、すぐに別の戸惑いに変わった。


「お待ちしておりました、リシュモン様」


 執事が微笑み、わたくしとニナを中へ招く。


「本日お越しくださるかもしれないと、旦那様から伺っております」


 昨夜、明日お訪ねしてもよろしいかと、短い手紙を出した。


 もしご不在なら、また日を改めますと書いた。けれど朝一番で届いた返事には、ぜひ来てほしいとあった。その『もし』は、どうやらこの家には入れてもらえなかったらしい。


 案内された小さな客間の窓から、中庭が見えた。


 公爵様は、外套姿の男性二人と立っていらした。うちの一人が、帳面を持って困ったように頭を下げる。


 窓が少し開いていて、途切れ途切れに声が届いた。


「その者に任せられる仕事はあるのか」


「閣下のご推薦があれば、先方も席を用意するかと」


「なければ、ないと伝えろ。紹介状だけ持たせて、冬の王都を歩かせるつもりか」


 相手は、それ以上何も言えなかった。


 軍を辞めた者の働き先を探しているらしい。公爵様は、本人が何をしたいのかを確かめる日を決め、担当の者を同行させるよう命じると、話を終えられた。


 室内へ戻っていらしたときには、先ほどの低い声と同じ声で、別のことをおっしゃった。


「来てくれて嬉しい」


 窓の外を見ていたことも、手に持った包みも忘れそうになった。


「お邪魔ではございませんでしたか」


「来てほしくなければ、昨日そう返事をした」


 窓の外でも、できるかどうかを先に確かめていらした。


 できないことを、相手が待っているままにしない。その短い話し方が、この方には自然なのだろう。


「栗を、お持ちいたしました」


 ようやく包みを持ち上げると、公爵様の目が少し明るくなった。


 秋の市の屋台で買った焼き栗だった。先日の菓子を思い出し、今度はこれを一緒に食べたくなったのだ。


「君も食べるのか」


「そのつもりで、二人分ございます」


「では、すぐに茶を頼もう」


 ニナは茶の支度を手伝うと言って、執事と部屋を出た。


 扉は細く開けておかれた。屋内の足音が遠くに聞こえる、明るい午後だった。


 公爵様は、まだ温かい栗を一つ取り、切り込みから器用に殻を開いた。


「飴の籠とは、ずいぶん違いますわね」


「こちらは、中身が動かない」


 笑ったら、剥けた栗がわたくしの皿へ置かれた。


「ご自分で、召し上がってくださいませ」


「君に先に食べてほしかった」


 言い終えるより先に、もう次の栗へ手を伸ばされる。


 わたくしは小さなものを一つ選んだ。薄皮が指にくっついて、きれいに取れない。


 見かねた公爵様が手を伸ばしかけたので、その手を、わたくしから押しとどめた。


「今度は、わたくしから差し上げたいのです」


 公爵様は手を引かれた。


 その顔を見ると、なぜだか、もっとゆっくり剥きたくなる。


 ようやくきれいになった栗を差し出すと、大きな手が受け取る前に、指先へ唇が触れた。


「公爵様」


「受け取った」


「まだ、お渡ししておりません」


「では、続きを」


 こんなふうに言葉を返せるのかと、ご自分でも思っているに違いない。


 わたくしが怒れないことまで、この方には分かっているのだった。


 茶を飲み終えたころ、婚姻院での話をした。


 審理の日程。ニナへ届いていた言葉。オディール様が、わたくしの恥をもう一度使おうとなさったこと。


 公爵様は途中で遮らず、聞いてくださった。


「あなたに、聞かせない方がよい話かもしれないと思いました」


 そこまで口にすると、公爵様の目がわたくしを捉えた。


「俺が、聞きたくないと言ったか」


「いいえ」


「なら、君が話したいことを話してくれ。俺の考えを、あの家の人間に決めさせたくはない」


 広い肩を見た。


 初めてお会いしたころより、その近くへ行くことができる。なのに、近づけば近づくほど、知らないところが見つかる。


「……あなたの前では、きれいな顔をしていたかったのです」


 自分で言って、情けなくなった。


 公爵様は慰めの言葉を重ねる代わりに、座っていた椅子から立たれた。


 すぐには触れず、わたくしの前へ膝を折る。


 見上げるはずだった顔が、同じ高さに来た。


「昨日、君に来てほしいと思っていた。今日、笑ってくれたから、帰ってほしくなくなった。今、話してくれたから、もう一度会いたくなっている」


 わたくしは、目を逸らせなかった。


「人の妻であった三年を、俺がなかったことにはできない。だが、君とこれから過ごしたいかは、俺が決める」


 指先が、膝の上で動いた。


 この方の言葉へ頷くだけで、終わりたくなかった。


「わたくしも、自分で決めて、今日は来ました」


「ああ」


「また会いたいと、お手紙を待つばかりでは、もったいなくなってしまって」


 公爵様の口元が緩んだ。


「それは、ありがたい」


 手を伸ばし、その頬へ触れた。


 ほんの少し顎が上がった。その仕草に、わたくしの方が驚く。


 この方も、触れられたいと思ってくださるのだ。


「バスティアン様」


 初めて、お名前で呼んだ。


「もう一度、そう呼んでくれ」


 いつもなら、聞こえなかったのですかと尋ねただろう。


 今日は、そうしたくなかった。


「バスティアン様」


 わたくしから少し身をかがめた。


 唇が触れると、背中へ腕が回された。強く引き寄せられたのに、怖くはなかった。むしろ、自分の指も、その肩へ縋っていた。


 少し離れたところで、低い息が聞こえた。


「君は、帰る前に困らせる」


「来たばかりですわ」


「そうだったな」


 バスティアン様が笑った。


 わたくしはその胸へ額を寄せた。今度は、顔を隠すためではなかった。


 まだ離れたくないのだと、この方には、ちゃんと伝わっていた。


     *


 帰宅すると、婚姻院への返事を書いた。


 十二月半ばの公開聴取へ、出席いたします。


 それだけの一文を書き終えるまでに、思っていたより時間がかかった。


 ニナがそばで、自分も求められれば出向くと話した。伯母は、トレヴァン伯爵夫人の手紙を添える封筒を用意してくださった。


 わたくしは手を止めず、オディール様からの署名入りの手紙も、提出する旨を書き加えた。


 封をして、ニナへ渡す。


 机の上に残った便箋へ、今度は別の名前を書いた。


『バスティアン様。次にお伺いするときは、栗の代わりに何をお持ちすればよろしいでしょうか』


 ここまで書いてから、続ける。


『どうか、わたくしだけでよいとお返事くださいませ。そう言っていただくのを、楽しみにしております』


 声に出して読み返すのは、とても無理だった。


 素早く畳んで封をすると、ニナが二通の手紙を見比べた。


「こちらも、すぐにお届けしてよろしいのですね」


「……ええ。急がなくてよいけれど、今日のうちに」


 ニナは笑い、何も聞かずに二通とも受け取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る