第2話 離縁した日の訪問者
翌朝、伯母はわたくしの前に手紙を一通置いた。
ヴァレール伯爵家の紋章が押されている。
「今、届いたわ。開けていないから」
封筒の角を、伯母の指が押さえていた。
わたくしを急かさず、けれど、このまま手紙を送り返しても構わないという顔をしている。
「わたくしも、内容を知っておきたいです」
紙を広げると、伯母へ向けた夫の丁寧な文字が並んでいた。
『コレットが突然そちらへ伺い、ご迷惑をおかけしていることと存じます。妻は離縁の話に衝撃を受けており、冷静に話し合える状態にございません。健康上の事情については、本人の心情を慮り、詳細を控えさせていただきます。』
末尾には、落ち着き次第、夫婦で穏便に手続を進めたいとあった。
読み終えた紙を伯母へ渡す。
伯母はしばらく黙って読んでいたが、やがて、手紙を畳まずに卓上へ戻した。
「あなたの口から聞きたいわ」
そう言われて、昨夜は話せなかったところまで話した。
婚礼の夜のこと。別々の部屋で眠るようにと言われたこと。
何度か声をかけたが、取り決めを忘れたのかと返されたこと。
伯母は、途中で一度も口を挟まなかった。
「三年、ずっと?」
「はい」
「あなたが、そうしたいと言ったわけではないのね」
頷くのに、勇気がいった。
この期に及んで、夫婦らしく暮らしたいと自分から望んでいたことまで、知られるのが恥ずかしかった。
それでも、口にしなければ何も伝わらない。
「一緒に、暮らしたかったのです。お食事の席で話をして、夜には、今日あったことを聞いて……。最初から上手にできなくても、少しずつ夫婦になっていけると思っておりました」
伯母は、額に手を当てた。
「何度もお茶を飲んだのに。わたくし、あなたがそんな夜を過ごしているなんて」
「お話しできなくて、ごめんなさい」
「あなたが謝るのはおかしいわ。……ああ、ちょっと待って。今、腹が立ちすぎているの。ちゃんとあなたの話を聞きたいから、お茶を一口飲ませて」
伯母は大きく息を吐き、紅茶を飲んだ。
もう一口飲んで、やっとこちらを見る。
「その、健康上の事情というのは?」
「ございません。少なくとも、子を望めないと医師に言われたことは、一度も」
「なら、どうしてあの男がそんなことを」
「そう言って別れる方が、ご自分に都合がいいのだと思います」
伯母の頬が赤くなった。
けれど今度は、お茶を飲まなかった。
「あなたはどうしたい?」
「離縁したいです」
今度は、すぐに言えた。
「同じ部屋で暮らすのを望まれないまま、妻でいるのはもうやめます。でも、あの理由は認めたくありません」
声に出すと、二つのことがはっきり分かれた。
夫の元へ戻りたいわけではなかった。
自分を守るために、まだ終わらせてはいけない話がある。それだけだった。
伯母は、わたくしの手へ自分の手を重ねた。
「では、そうしましょう。今日は一緒に出かけるわ」
「婚姻院へ、ですか」
「ええ。わたくしが話すためではなくて、あなたが帰りに一人で馬車へ乗らなくて済むように」
わたくしは頷いた。
昨日は止まらなかった涙が、今朝は落ちずに済んだ。
*
王室婚姻院の待合室には、背の高い窓が並んでいた。
婚姻の届けを出しに来た若い二人が、紙を指さして笑っている。
その向かいに、年老いた夫婦が座っていた。長い年月の間に読めなくなった婚姻証書を、書き直してもらいに来たらしい。妻が聞き取れなかった呼び出しを、夫が耳元へ顔を寄せて伝えた。
わたくしは、自分の膝へ視線を戻した。
白い箱を、布の袋に入れて持ってきていた。
「こちらへどうぞ」
係に呼ばれ、伯母と小部屋へ入った。
机の向こうにいた婚姻官は、四十代ほどの、よく通る声の男性だった。
「レニエと申します。ヴァレール伯爵夫人ですね」
「はい。コレットと申します」
「伯爵からも、今朝、離縁の申し出が届いています。まず、婚姻を解消すること自体に、あなたも同意されますか」
「同意いたします。ただし、夫が記載した理由には、同意できません」
レニエは頷き、手元の紙を一枚ずらした。
「では、その二つを分けて伺います。解消について双方が合意される場合、理由の記載が争われていることだけをもって、婚姻を続ける必要はありません。解消後に、記録の訂正を求めることもできます」
わたくしは、思わず伯母を見た。
伯母の口元も、少しだけ緩んでいた。
「この紙に、ご自身の意思を書いてください。伯爵にも、別途確認します」
差し出された書面には、婚姻の解消を望むかどうかだけが記されていた。病の説明も、夫へ異議を唱えないという約束もない。
今度は、最後まで読み、名前を書いた。
ペンを置くと、レニエはその紙を受け取ってから、こちらを見直した。
「原因の記載について、具体的にどこが違いますか」
布の袋から箱を出した。
伯母が、膝の上で手を組んだのが見えた。
封筒を開けると、紙の折り目が指に触れた。
「夫は、婚礼の夜から部屋を共にすることを拒んでいました。これが、その時に渡された書面です」
レニエは手を伸ばしかけ、先に尋ねた。
「拝見してよろしいですか」
「はい」
婚姻官の目が、数行の文字を追った。
わたくしは机の縁を見ていた。顔を上げれば、この人にも、望まれなかった妻の顔を見られると思った。
「この取り決めは、その後に変更されましたか」
「いいえ」
「伯爵の側から、部屋を共にしたいと求められたことは」
「一度も、ございません」
レニエは、低く返事をした。
笑いもしなかった。気の毒がる顔もせず、日付と署名を確かめている。
それで、わたくしはやっと、目を上げられた。
「原本は、お手元で保管してください。こちらで控えを作成します。今のご説明も記録し、相手方に確認を求めます」
「わたくしが、何か診察を受ける必要はございますか」
言ってから、喉が狭くなった。
義母の前で、医師に体を見せろと迫られたらどうするか。昨夜、そのことばかり考えていた。
「今のお申し立ては、あなたの体を調べるためのものではありません」
レニエは、すぐに答えた。
「夫婦がどのような暮らしをしていたかを伏せて、妻の健康に原因があると断定してよいか。その事実関係を確かめるためのものです。子を望めるかどうかを、ここであなたに証明させる話ではありません」
机の上の紙が、滲んで見えた。
伯母が何も言わず、わたくしの背に手を添えた。
「分かりました」
手の甲で涙を拭くのはやめ、ハンカチを出した。
今度は、ちゃんと尋ねる。
「夫が、このような書面は知らないと答えた場合は、どうすればよろしいのでしょう」
「書面が渡された経緯や、お二人の暮らしを知る方のお話と照らし合わせます。何か、思い当たりますか」
「あの夜、部屋へ戻ったわたくしを、侍女が迎えました。義母にも、この取り決めを見せております」
レニエは、二人の名を書き留めた。
わたくしの言葉が、誰かの都合で柔らかく言い換えられることなく、紙に残っていった。
*
伯母宅へ戻った午後、ニナが、自分の退職を申し出た書面の控えを見せてくれた。
「これで、伯爵家の侍女ではなくなります」
彼女が、自分で結んだ話だった。
わたくしは控えを返し、こちらでの雇用について、伯母を交えて相談した。
父が残してくれた年金は、大きな額ではない。それでも、生活費の一部を伯母に入れ、ニナを雇う分には足りた。
「何でも伯母様に甘えるわけには参りません」
「甘えてもいいのだけれど、あなたがそうしたいなら、そうしましょう」
伯母は、わたくしの出した金額を見て、食費の分だけ少し減らした。
「こちらへ戻ってきてくれて、わたくしも助かるの。夕食を一人で食べると、どうしても早食いになるから」
「わたくしも、伯爵家では早く食べておりました」
「あら、そうなの?」
「食べ終わらないと、いつまでも席を立てなくて」
伯母とニナが、揃ってこちらを見た。
つい先日まで当たり前だったことが、この家では当たり前ではない。
伯母は椅子の背へ身を預け、首を振った。
「今夜は、たくさん話しましょう。食べ終わっても、終わらなくても」
ニナが、給仕の時間を訊きに部屋を出ていった。
わたくしは部屋へ上がり、戻された手紙を白い箱へ入れた。
窓のそばの小机には、鍵の掛かる引き出しがある。箱はそこへ入れ、鍵を自分の小さな手提げにしまった。
その日のうちに、夫から使いが来た。
手紙には、婚姻院の呼び出しを受けたとあった。
『離縁には同意すると言っていたではないか。私に恥をかかせるつもりがないなら、書面の理由に異議はないと伝えなさい。君のためにも、これ以上の話はしないことだ。』
読み終わるまで、ニナは黙って立っていた。
わたくしは手紙を封筒へ戻した。
「これも、取っておきます」
「お返事は、なさいますか」
「婚姻院の方へ、写しをお送りします。ご本人へは、もう」
自分の望みを伝えるたびに、なかったことにされる。そのやり取りへ、戻りたくはなかった。
使いの男には、今後の連絡は婚姻院を通してほしいとだけ伝えた。
静かな夜だった。
ニナが下がる時、いつものように、呼び鈴を枕元へ置いた。
わたくしは、それを見て笑った。
「今夜は、早く休んでちょうだい」
「奥様こそ」
口にしてから、ニナは少し困った顔をした。
「お呼び方は、どういたしましょう」
「手続が済んだら、昔のように、コレット様と呼んでくれる?」
ニナは、明るく頷いた。
*
家を出て十日後、わたくしとエメリックの離縁が成立した。
原因に関する異議は別に扱うと添えられた、婚姻解消の証書を受け取った。
これでわたくしは、コレット・リシュモンに戻った。
伯母は、証書の名前を何度も確かめていた。
「帰ったら、何かお祝いをしましょうか」
「お祝いしても、よろしいのですか」
「あなたは、したい?」
わたくしは、証書を折り目に沿って畳んだ。
「はい。とても」
伯母は、にっこり笑った。
その笑顔に、つられてわたくしも笑う。
王室婚姻院の階段を下りる時、迎えの馬車が、いつもより離れた場所に停まっているのが見えた。
前の通りで、荷馬車が傾いていた。車輪が溝にはまり、積んでいた木箱のいくつかが道へ落ちている。御者が馬を宥めようとしていたが、背後から別の馬車が近づき、角笛を鳴らした。
「そこで止めろ。馬の後ろへ寄るな」
通りを越えて、声が響いた。
バスティアン・ドーヴェル公爵だった。
馬上から下りて手綱を従者へ渡すと、荷馬車の御者へ近づいている。
「怪我は」
「ございません。ただ、車輪が」
「人が無事なら、まずそれでいい。お前は手綱を持って、馬を落ち着かせろ。後ろの二人、荷を下ろす。押すのは、それからだ」
公爵の従者と、通りがかりの男たちが動いた。
急な命令をされた不満より、何をすればいいか分かった安堵が、皆の顔に浮かんでいる。
公爵は自分も上着を脱ぎ、一つずつ木箱を持ち上げていた。中から金物の重い音がした。
わたくしたちは、少し離れて待った。
無理に通ろうとして、かえって邪魔をしてはいけなかった。
「お待たせして、申し訳ございません!」
御者がこちらへ気づき、頭を下げた。
「急いでおりません。どうぞ、馬を見ていてあげてください」
馬の首に触れていた公爵が、顔を上げた。
わたくしを見て、目を細める。次に、伯母へ会釈をした。
伯母が、手を振り返す。
片輪が溝から外れ、荷馬車がゆっくり動いた。車体に異常がないか確かめさせ、公爵は御者を急かさずに送り出した。
「あのまま上から引こうとしていたら、馬が倒れていましたね」
伯母が声をかけると、公爵は上着の袖へ腕を通しながら頷いた。
「まず荷を減らせば、あとは人の手でも何とかなります」
「公爵様まで、手をお貸しになるとは思いませんでした」
わたくしが言うと、公爵は少し首を傾げた。
「俺も、あそこを通りたかったので」
あまりに率直な返事で、わたくしは吹き出しかけた。
伯母は遠慮なく笑っている。
「公爵様のお通りだから、早く道を空けろとはおっしゃらないのね」
「そう言って軽くなる木箱なら、そうしますが」
今度は、声を出して笑ってしまった。
公爵の目が、こちらを向いた。
ほんの一瞬、驚いたように見えた。
「失礼いたしました」
「いいえ」
前に会った時と同じ返事だったのに、今度は、少しだけ声が柔らかかった。
「お出かけの帰りですか」
「はい。手続が、済みました」
伯母に視線を送ると、伯母は静かに頷いた。
自分のことは自分で話していい。その合図のように思えた。
「今日、離縁が成立いたしました。わたくしはリシュモンに戻りました」
公爵は、伯爵の名を口にしなかった。
わたくしの顔を、今度はまっすぐに見た。
「それは、よかったと言ってよいのだろうか」
わたくしは頷いた。
「おめでとうと言っていただいても、嬉しいです」
「では。おめでとう、リシュモン嬢」
喉の奥が、温かくなった。
解消の証書を受け取った時より、自分が新しい名で呼ばれた瞬間の方が、別れたのだと感じた。
「ありがとうございます」
公爵はわたくしへ会釈をして、伯母に向き直った。
「今日の午後に伺うお約束ですが、別の日の方がよければ」
「いいえ、いらして。ちょうどお茶を賑やかにしたいと思っていたの。あなたの都合がよければ、夕食までいかが?」
「喜んで」
わたくしは、公爵が去ってから、伯母の方を見た。
「お約束がおありでしたのね」
「前回、お話の途中で帰っていただいたでしょう。お忙しい方だから、今日まで延びたのよ」
伯母の口元は、わたくしをからかってはいなかった。
それで、かえって少し落ち着かなくなった。
*
帰宅すると、伯母宛ての招待状が届いていた。
知り合いの夫人からのお茶会への誘いだったが、書き添えられた一節を見て、伯母は眉を寄せた。
『姪御様には、お体を第一にお過ごしいただきたく存じます。おつらい診断を受けられたとサヴァン嬢より伺い、皆でお慰めしたいと思っております。』
サヴァン嬢。
ベリンダが、わたくしの知らない診断の話を広めていた。
「行かなくていいわ。断っておきましょう」
伯母はそう言い、わたくしを見て口をつぐんだ。
わたくしが、招待状へ手を伸ばしたからだ。
「この方は、伯母様のご友人ですか」
「ええ。悪意のある人ではないの。だからといって、こんなことを書いてよいわけではないけれど」
「それなら、診断を受けていないと、お伝えしたいです」
伯母は少し考えた。
「わたくしから、こちらの事情を知らずに気遣うことが、あなたを傷つけると伝えるわ。あなたが望むなら、お返事を添えてもいい」
便箋を出し、短く書いた。
お気遣いにはお礼を申し上げます。ただ、わたくしはそのような診断を受けておりません。誤ったお話が伝わっておりますので、その点は訂正させてください。
書き終えてから、サヴァン嬢から聞いたという一節を、もう一度読んだ。
「伯母様。この招待状も、残していただけますか」
「もちろんよ」
伯母は、自分のための手紙をわたくしへ渡してくれた。
妻ではなくなっても、夫たちの言葉が追いかけてくる。
けれど、受け取った先で、わたくしも返事ができた。
午後、公爵は約束どおりに訪ねてきた。
昼間の軍服に近い装いではなく、くすんだ青の上着を着ていた。腕まわりの仕立てがゆったりしているのに、動くと、下にある肩の厚みが分かる。
見ていることに気づいて、わたくしは慌てて視線を逸らした。
「お茶をお持ちしますね」
立ち上がりかけると、公爵も腰を上げた。
「俺が来たせいで、あなたが席を外すのなら、何のために来たか分からない」
わたくしは、伯母を見た。
伯母は女中へお茶を頼みながら、いかにも平然としている。
「お座りなさい、コレット。今日はお祝いだもの」
座り直すと、公爵も腰を下ろした。
先ほどの言葉を訊き返す勇気はなかった。
公爵と伯母は、北方から戻った人々の話をした。
伯母が知る老将校が、いまだに朝食より先に馬の顔を見にいくこと。若い兵士たちが、帰都の行進よりも家族の夕食に間に合うかを気にしていたこと。
武勲の話を求められるだろうに、公爵は、勝ち方より帰った人たちの顔をよく覚えていた。
「帰ってきてから、半年でしたかしら」
「はい。まだ、こちらの方が騒がしく感じる時があります」
「王都は、人が多いですものね」
わたくしが口を挟むと、公爵は頷いた。
「人も、招待状も」
「お断りになれば、よろしいのでは?」
「エリーズ夫人も、そうおっしゃる。だが、どうも俺は、断り方が下手らしい」
伯母が茶碗を持ったまま、笑い始めた。
「あなた、名指しの招待状に『仕事がなければ行きたくない』と書いて返したのですって?」
「前の招待を、仕事の相談だと思ってお受けしたら、途中で、そうではないと気づいた。ですから、次の招待状には、先にお伝えしました」
わたくしは堪えられず、笑った。
公爵は眉を寄せたものの、怒っているわけではなさそうだった。
「行きたくない席へ、行きたいとは書けない」
「それでは、行きたい席には、何とお書きになるのですか」
つい尋ねると、公爵の視線がわたくしで止まった。
「行きたいと書きます」
短い返事だった。
なのに、それ以上に何か言われた気がした。
わたくしは持ち上げかけた茶碗を、そのまま卓上へ戻した。
伯母が席を外したのは、それから間もなくだった。
夕食について女中に訊かれ、少し見てくると言い置いて出ていった。扉は開けたままで、廊下から二人の話す声が聞こえている。
わたくしは、沈黙を埋めようとして、窓の外を見た。
中庭に下ろされた日除けの白い布が、午後の風で膨らんでいた。
「あの」
「昼に――」
声が重なった。
二人とも口を閉じ、先に公爵が片手を上げた。
「あなたからどうぞ」
「いえ。わたくしは、昼に馬車が無事に動いてよかったと、申し上げようとしただけです」
「俺も、昼のことです」
公爵は姿勢を直した。
大きな手が、膝の上へ置かれる。
「おめでとうと言った時、あなたが笑ってくれた。それが嬉しかった」
わたくしは、その手を見てしまった。
昼間、木箱を持ち上げていた手だった。
人の腕をつかんで、思いどおりに動かすこともできそうなのに、今は自分の膝に置かれている。
「あまり、笑えていなかったものですから」
「では、もっと笑える話を探してこなくては」
「招待状のお返事だけで、十分に」
公爵の口元が、初めてはっきり緩んだ。
わたくしまで、つられて笑ってしまった。
「次にお会いできる時には、別の話も持ってきます」
次に。
その響きに、胸が小さく跳ねた。
まだ、何かを期待していいかは分からなかった。けれど、今、この人の話をもう少し聞いていたいと思った。
「それでしたら、わたくしも、何か一つお話を」
「楽しみにします」
公爵はそう言ってから、窓の方へ目をやった。
中庭の日除けがまた膨らみ、わたくしたちの間へ光が揺れた。
「外を歩くのは、お好きですか」
「はい。長く歩くと、靴を傷めると叱られましたけれど」
言ってから、そんなことまで口にした自分に驚いた。
公爵は、わたくしの足元を見なかった。
「歩くための靴ではないのですか」
あまりに当然そうに訊くので、頷くしかなかった。
「そうですわね。歩くための靴です」
「では、いつか、ご一緒に。あなたの気分が向く日に、俺を誘ってもらえますか」
わたくしが誘うのか。
待つのではなく。
思わず顔を見上げると、灰色の目が、こちらの返事を待っていた。
「公爵様は、お忙しいのでは」
「忙しい日もあります。だが、そうでない日も作れます」
廊下から、伯母の笑い声が聞こえた。
わたくしは膝の上の手をほどいた。
「では、お返事に『行きたい』と書いていただけるようなお誘いを、考えておきます」
公爵は一瞬きょとんとして、それから、声を立てて笑った。
その笑い方を、わたくしはもう少し、見ていたくなった。
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