三年間、一度も寝室に来なかった旦那様に「子ができない」と離縁されました――再婚した軍神公爵様には、初夜から甘く愛されています
黒宮レン
第1話 三年目の離縁状
「三年も子ができない女を、いつまでも妻にしておけない」
夫はそう言って、わたくしの前に離縁状を置いた。
九月初めの昼下がり。ヴァレール伯爵家の小客間には、夫のエメリックと義母のオディール、そしてベリンダ・サヴァン男爵令嬢がいた。
わたくしの結婚を終わらせる話をするのに、なぜこの方が同席しているのか。尋ねる必要はなかった。ベリンダは、夫のすぐ隣に座っていたからだ。
「署名をすれば、当面の暮らしに困らないだけの金は渡す。母も承知している」
紙の中央に、夫婦としての生活を続けられない理由が記されていた。
妻の健康上の理由により、子を望むことが困難なため。
わたくしはそこを二度読んだ。
夫の署名は、もう済んでいる。あとはわたくしが名前を書けばよいように、銀のペンまで添えられていた。
「これは、どなたがお書きになったのですか」
「私だ。余計なことは書いていない。君が恥をかかずに済む言い方にした」
「わたくしの健康に、何か問題がございましたか」
エメリックは、面倒な質問をされた顔をした。
「今さら、そこから説明させるのか。三年だぞ」
「ええ。三年間です」
指先が冷たかった。
けれど、紙を押さえた手は震えなかった。ここで震えてしまえば、夫はわたくしを落ち着かせるふりをして話を終わらせる。これまでの三年間で、よく知っていた。
「その三年間、一度もわたくしの寝室にいらっしゃらなかった方が、なぜ、わたくしの体のせいだとおっしゃるのですか」
ベリンダの手から、茶の匙が落ちた。
エメリックは椅子から半ば腰を浮かせた。
「コレット」
「お尋ねしております」
「そんな話を、人前でするものではない」
人前。
わたくしの健康に問題があると、妻ではない女性の前で書類を見せることは構わないらしい。
急に、そのことがおかしくなった。笑いたいのではなかった。あまりにも馬鹿にされていたと分かって、口元がうまく動かなかったのだ。
「お母様とベリンダ様は、この書類をご存じなのですね」
「わたくしは、エメリック様をお支えしたくて……」
ベリンダが睫毛を伏せた。
薄紅の爪が、夫の袖に触れる。その手を、夫は払わなかった。
「伯爵家には、跡継ぎが必要でしょう。コレット様も、そのくらいはお分かりになるはずです」
「夫婦が別々の寝室で、顔も合わせずに寝ていても、子を授かれるとお考えなのですか」
「下品なことを言わないでちょうだい」
義母がぴしゃりと言った。
真珠を幾重にも巻いた喉が、怒りで赤くなっていた。
「夫婦の内輪のことを持ち出して、何になるの。あなたが大人しく署名すれば、丸く収まるのです。別れたあとまで、わたくしたちが悪く言われるようなことをするつもり?」
わたくしは義母を見た。
三年前、渡された書面を見せたわたくしへ、この方は何と言っただろう。
夫は忙しいのだから、夜くらい休ませてあげなさい。
そう言って取り決めを守るよう命じ、わたくしを一人で寝室へ帰したのだった。
「お母様は、ご存じでしたね」
「何をです」
「エメリック様が、わたくしと部屋を共になさらないと決めていたことを」
「だから何だ。俺は、君を責めているわけではない」
夫が、わたくしと義母の間へ声を割り込ませた。
「離縁の理由など、誰が細かく読む。体が弱いとでもしておけば、君も気の毒に思ってもらえるだろう」
「気の毒に思っていただくために、嘘へ名前を書けと?」
「君がこんなに意地を張る女だとは思わなかった」
夫の顔を、わたくしはよく知っているつもりだった。
父が健在だったころにまとまった縁談だった。両家の付き合いは長く、義母も、よく知る家の娘なら安心だと喜んでくださった。夫自身がこの結婚を望んでいるか、わたくしは疑いもしなかった。
社交の場では穏やかに笑い、人の名前を忘れず、相手が話し終わるのを待つ方だった。婚約中、父母を亡くして不安だったわたくしに、ゆっくり慣れてくれればいいとおっしゃった。
その言葉を、わたくしは信じた。
慣れていけば、いつかは家族になれるのだと思っていた。
「離縁には、同意いたします」
エメリックの肩から、目に見えて力が抜けた。
ベリンダも顔を上げる。
「初めから、そう言えばいい」
「ですが、これは書き直してくださいませ。わたくしの健康が理由だという記載には同意できません」
紙を、夫の方へ戻した。
ペンも一緒に、元の向きへ揃える。
「三年間、お互いに触れることもなかった。それを隠したまま、わたくしにだけ原因があるとするのはおやめください」
「離縁を望むなら、署名をしろ」
「別れるための手続なら、王室婚姻院でわたくしもいたします。この紙には書きません」
椅子を立った。
足の裏が頼りなかった。こんな時にまで、裾を踏まないよう気をつけている自分がいた。
「待ちなさい、コレット。話は終わっていません」
義母が呼び止めた。
「お話しすることは、もう伺いました。荷物をまとめます」
「今日出ていくつもりか?」
夫が、初めて驚いた声を出した。
離縁状を出しておいて、なぜ驚くのだろう。
「ええ」
「どこへ行く」
「伯母の家へ」
「エリーズ夫人のところなら、私から事情を説明しておく。君は、余計なことを言わないように」
その言葉を聞いて、初めて腹の底が熱くなった。
わたくしが最後に頼れる人にまで、先に嘘を渡すつもりなのだ。
「伯母には、わたくしが自分で話します」
返事を待たず、小客間を出た。
*
寝室に戻ると、ニナが立ち上がった。
縫いかけの襟飾りを膝から落とし、拾うことも忘れている。
「奥様、お顔の色が……」
「荷造りを手伝ってくれる? 今日、この家を出ます」
ニナは口を開けたまま、わたくしを見た。
十九歳から四年、身の回りの世話をしてくれた侍女だった。この家で、わたくしが何時に眠り、何時まで灯りをつけていたかを、一番よく知っている。
「離縁、なさるのですか」
「そのように望まれました」
「旦那様が?」
頷くと、ニナは唇を結んだ。
彼女が泣きそうになるので、わたくしの方まで涙が出そうになった。
「泣かないで。まだ、何も終わっていないの。終わらせに行くのよ」
言ってから、わたくし自身がその言葉を聞いた。
終わらせる。
夫の機嫌が直るまで待つのでも、義母が庇ってくれるまで我慢するのでもない。
今度は、わたくしが動かなければいけなかった。
着替えを二着、夜着と下着、父の懐中時計、母の小さな肖像画。
箪笥を開けるたびに、ここで暮らした三年分の品が目に入った。けれど、全部を連れていきたいとは思わなかった。客間に飾るために選んだ刺繍も、義母に勧められて買った帽子も、この家ではよく似合っていた。それだけだ。
「お荷物は、あとで取りに伺えます。何をお残しになったか、わたくしが書き留めますから」
ニナが紙を持ってきた。
いつもよりきびきび動くのは、泣かないためだと分かった。
「ありがとう。……あなたには、このまま残るかどうかを決める時間がいるわね」
「わたくしも参ります」
「ニナ」
「もう決めました。伯爵家を辞めます。お暇を願う書面は、あとでお出しします」
彼女は小さな旅行鞄を出していた。宿下がりの時に使う、茶色の革の鞄だった。
「伯母の家で、同じお給金をすぐに出せるかは分からないの」
「それは、きちんとご相談させていただきます。でも、今日はお一人で行かせたくありません。勝手に付いていくことまで、お許しくださらないのでしたら……門の外を、少し離れて歩きます」
わたくしは、とうとう笑ってしまった。
涙が一つ落ちて、笑い声がみっともなく詰まった。
「少し離れる必要はないわ。隣にいて」
「はい」
ニナは強く頷き、今度こそ落とした襟飾りを拾い上げた。
その間に、わたくしは寝台の下へ膝をついた。
奥へ押し込んだ、白い木箱。
伯母が婚礼の祝いにくれたもので、蓋の内側には、わたくしの名前が小さく彫ってあった。婚礼の日に髪へ挿した飾りと、祝辞の写し、役目を終えた細いリボン。指先でそれらを脇へ寄せ、一番下の封筒を取り出す。
封は開いていた。
何度も読み返したせいで、折り目が少し毛羽立っている。
『婚姻後も寝室は別とする。私の寝室を訪ねること、夜間に私を呼ぶことを禁ずる。この取り決めは、私が変更を告げるまで続く。』
エメリック・ヴァレール。
三年前の、婚礼当日の日付。
あの夜、わたくしは薄い夜着の上に肩掛けを羽織り、夫の部屋へ続く廊下に立っていた。
着替えを手伝ったニナは、先に下がらせた。胸の音が大きすぎて、聞かれたくなかったからだ。
花婿は、待っていてはくれなかった。
扉を叩くと、しばらくして顔を出し、わたくしの姿を頭から足先まで見た。
「何をしている」
それが、新婚の夜に聞いた最初の言葉だった。
「お休みになったかと……」
「自分の部屋で休めと言っただろう」
わたくしは、そういう意味ではないと思っていた。
宴で疲れただろうから、部屋で待っていてほしいのだと。
その間違いを口にした途端、夫は眉間に皺を寄せた。
「勘違いされると面倒だ。書いておく」
机に向かった夫の背中を、扉の外から見ていた。
ペン先が動く音を、今も覚えている。ほんの数行を書く間、わたくしは肩掛けを両手で握っていた。
渡された紙を、その場では最後まで読めなかった。
「母にも、余計なことを言うな。家の中の役目は、今まで話したとおりに務めればいい。私が必要な時は呼ぶ」
夫は扉を閉めた。
廊下の灯りが、ふっと揺れた。
その紙を捨てられなかったのは、証拠にするためではない。
いつか、この取り決めを変えると言ってもらえるのだと思っていたからだ。箱に入れておけば、あの夜の恥ずかしさも、ここにしまっておける気がした。
一年目の終わり、わたくしは食後のお茶に夫を誘った。
二年目の春には、寝室の窓から見える庭の花が咲いたと手紙を書いた。
誘いは断られ、手紙には返事がなかった。
そのたびに、この紙を読んだ。まだ変更を告げられていないのだからと、自分へ言い聞かせた。
「奥様」
ニナが、わたくしの手元を見ていた。
「それを、お持ちになるのですね」
「ええ」
今までとは違う理由で、この紙を箱に戻した。
リボンの下に隠すのはやめ、封筒を一番上へ置いた。
「ニナ。この箱は、誰にも預けないようにするわ」
「かしこまりました」
箱を抱えて立ち上がった時、寝室の扉が叩かれた。
「奥様。オディール様が、お出かけになる前に夕食の献立をお確かめになるようにと」
廊下から、下働きの娘の声がした。
わたくしはニナと顔を見合わせた。
彼女の口が、あんぐりと開く。
「お伝えしてください。わたくしは今日から、お確かめいたしません」
「ですが、今夜はサヴァン家のお客様も……」
「それでしたら、ベリンダ様にお尋ねになって」
扉の外が、静かになった。
やがて、おずおずと返事があって、足音が遠ざかった。
わたくしは旅行鞄の留め具を閉じた。
ニナは、とうとう口元を両手で覆っていた。
「笑ってもいいのよ」
「申し訳ございません。……今まで一度も、そんなふうには」
「言わなかったわね」
言ってはいけないと思っていた。
この家にいさせてもらうために、嫌がられないことが大切なのだと。
もう、その心配だけはしなくてよかった。
*
玄関では、エメリックが待っていた。
わたくしの手荷物を見ると、目を細めた。
「大袈裟だな。話し合いの途中で逃げ出したと思われるぞ」
「明日、婚姻院へ伺います。ご連絡はそちらを通してくださいませ」
「君のためを思って、内々に済ませようとしているんだ」
夫は声を低くした。そばの使用人に聞かれたくない時の声だった。
「夫婦のことを外で言い触らせば、困るのは君だ。あの話を、他人に聞かせたいのか」
わたくしは、一度だけ息を吸った。
恥ずかしかった。
三年も待って、何一つ変わらなかったことが。望まれない自分を、ずっと、何かが足りない女だと思っていたことが。
けれど、嘘を認めてしまったら、この恥ずかしさを一生、夫のために抱えていかなければならない。
「言いたくはありません」
「なら――」
「でも、言わなければならない時には、わたくしが決めます」
夫は、わたくしの顔を見た。
知っている妻の顔ではないと思ったのかもしれなかった。
彼はもう一度口を開きかけたが、ニナが玄関の扉を押さえ、わたくしに道を空けた。
家の馬車は使わなかった。
先に呼んでもらった辻馬車へ乗り込み、膝に白い箱を載せた。隣に座ったニナが、御者へ伯母の住所を告げる。
車輪が動き出すまで、わたくしは屋敷を見ていた。
三年暮らした場所は、昼の光の中で、少しも変わらない顔をしていた。
馬車が角を曲がると、ニナがそっと手を差し出した。
握った途端、涙が止まらなくなった。
泣いているわたくしに、彼女は、大丈夫ですとは言わなかった。袖口から清潔なハンカチを取り出し、握った手はそのままに、もう片方の手で渡してくれた。
*
伯母の家には、まだ夏の名残の花が咲いていた。
呼び鈴を鳴らすと、出てきた女中はわたくしの顔を見て、挨拶より先に扉を開けた。
「お久しゅうございます、コレット様。どうぞ、中へ」
懐かしい玄関の匂いがした。
床を磨く蝋と、階段の下に置かれた乾燥させたラベンダー。昔と同じ香りだった。
「コレット?」
階段の上から、伯母が呼んだ。
わたくしの抱えた箱を見て、次に、ニナの旅行鞄を見る。その顔から笑みが消えた。
「何があったの」
「伯母様。しばらく、こちらに置いていただけますか」
「しばらく?」
伯母は階段を下りてきた。
わたくしの肩を両手でつかみ、じっと顔を見る。
「あなたの部屋は、ずっとあるでしょう。泊まる日の終わりを、玄関で決めなくていいの」
伯母の胸へ顔を伏せた。
母より少し硬い肩だった。その分だけ力強く、背中を抱かれた。
「離縁、することになりました」
「……そう。では、荷物を上へ。ニナ、あなたもお疲れでしょう。まず顔を洗ってらっしゃい」
わたくしは伯母の袖をつかんだ。
「エメリック様からお手紙が来ても、先に読まないでください。わたくしの話を聞いていただきたいのです」
伯母の腕に、力がこもった。
「もちろんよ。さあ、こっちへ」
伯母がわたくしを連れていこうとした客間の扉が、中から開いた。
大きな人が立っていた。
黒に近い濃緑の上着。幅のある肩に、飾りの少ない襟がよく合っている。こちらを見た目は、灰色だった。
わたくしより、頭一つ以上背が高い。
「エリーズ夫人。私は、日を改めます」
「ああ、バスティアン。ごめんなさい、待っていただいていたのに」
その名前に、わたくしは顔を上げた。
ドーヴェル公爵。北方で国境の争いを終わらせ、王から軍神と称えられた方だった。
帰都を祝う宴には出席したことがあった。けれど、あまりに人が多く、わたくしには遠くから姿を見ることしかできなかった。
「姪のコレットです。コレット、こちらはドーヴェル公爵様」
わたくしは慌てて背筋を伸ばした。
頬が濡れたままだったことを思い出し、ハンカチを握り直す。
「お見苦しいところをお目にかけてしまって、申し訳ございません」
「いいえ」
公爵は、わたくしの顔をちらりと見ただけで、それ以上は覗き込まなかった。
「人が泣いている時に、その顔を見苦しいと言う趣味はありません」
ぶっきらぼうな声だった。
慰めの言葉を探している感じはしなかった。ただ、そう思っているのだと分かる声だった。
わたくしは返す言葉を失った。
「ただ――」
公爵の視線が下がる。
「その箱は、少し重そうだ。お持ちしましょうか」
箱の角を握る指が、痛くなっていた。
思わず渡しかけ、手を止めた。
「ありがとうございます。でも、これは自分で」
「では、道を空けます」
公爵はすぐに一歩下がった。
断った理由を尋ねず、重いだろうと重ねもしなかった。その簡単なことに、胸のつかえが少し下りた。
「伯母様。わたくし、まず部屋へ参っても?」
「ええ。お茶は上へ持っていかせるわ」
階段を上がりかけて、一度だけ振り返った。
公爵はもう、こちらを見てはいなかった。伯母へ短く挨拶をし、女中から外套を受け取っている。
玄関へ向かう背中が、わたくしの知るどの人より大きく見えた。
昔の部屋の扉を開けると、窓辺に青い肘掛け椅子があった。
両親を亡くした年、わたくしが一日中座っていた椅子だ。伯母は、そこへ新しいクッションを一つ置いてくれていた。
白い箱を膝に載せたまま座ると、ニナが、二人分のお茶を持って入ってきた。
「お砂糖は、いかがなさいますか」
伯爵家では、義母に合わせて入れなかった。
昔は、少し甘くするのが好きだった。
わたくしは、匙を自分で取った。
「今日は、たっぷり」
ニナが笑った。
わたくしも笑って、お茶を飲んだ。
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