第2話 三回延びた結婚式、四回目の朝は晴れ
「ほんとに起こしたからね」
肩をがくがく揺すられて、目が開いた。
屋根裏の部屋は真っ暗だった。すぐ上の板屋根を、細い雨がぱらぱら叩いている。
傘売りさんが、ろうそくを片手に私をのぞきこんでいた。髪の布がずれて、片目が半分隠れている。
「……いま何時?」
「知らないよ。鶏もまだ寝てる」
「ありがと」
私は寝台から転がり出て、マントをひっかけた。床板が氷みたいに冷たい。靴は片方しか見つからない。もう片方は、寝台の下でひっくり返っていた。
小さな窓の外は、まだ真っ黒。雨の匂いがする。
「で、どこ登るの」
「教会の鐘楼。村で一番高いの、あそこだから」
「鍵は?」
「おかみさんが、裏の戸はいつも開いてるって」
「……いつ聞いたのさ、そんなこと」
答えないで、私は階段を駆け下りた。
外はまだ夜の色だった。
雨は小降りだ。ぬかるんだ道を、教会まで走る。一歩ごとに泥がはねて、ワンピースの裾に点々とつく。
村はしんとしていた。どの家も戸を閉めて、窓の板まで下ろしている。起きているのは、私たちと、どこかの家の犬だけ。
東の空の下のほうが、白くなりかけていた。
「急いで!」
「あたしは登らないからね!」
傘売りさんの声を背中で聞きながら、鐘楼の戸を押し開けた。
中は石の階段だった。ぐるぐる回りながら上へ伸びている。真っ暗で、段の数も分からない。壁に手をついて、一段とばしで駆け上がる。
息が切れる。足が重い。
夜明けに間に合わなかったら、今日はもう祈れない。
最後の段を上りきると、大きな鐘の下に出た。
四方の窓から、冷たい風が吹きこんでくる。
東の空が、薄い桃色だ。間に合った。
私は窓に寄って、空に小さく手を振った。
それから手を組んで、目を閉じる。
晴れて。今日一日だけでいいから、この村の上を晴らして。
頬に当たっていた雨粒が、ふっと消えた。
目を開けると、真上の雲に穴が開いていた。
穴はみるみる広がって、村の屋根を全部のみこむくらいの大きさになる。そこから、青い空がのぞいた。
朝の光が、濡れた屋根の上にさあっと流れこんでくる。
川の向こうを見た。
向こう岸の畑には、まだ灰色の雨が降っていた。川のこっち側だけが、きれいに晴れている。
頬が、じんわり温かい。濡れた屋根から、白い湯気がうっすら立ちのぼる。
ここだけの話、私はこの瞬間が好きでたまらない。
雲の穴から最初の光が落ちてくると、毎回、涙が出そうになる。五年やっても、それは変わらない。
でも、見とれている場合じゃない。
私は鐘の綱をつかんで、体ごとぶら下がるように引いた。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。
鐘の音が、晴れた村中に響いた。
あちこちの家の戸が開く。寝ぼけた顔の人たちが、外に出てきて、空を見上げて、隣の人の肩を叩く。
私は鐘楼の階段を駆け下りた。
下では、傘売りさんがろうそくを持ったまま、首をそらして、ぽかんと真上を見ている。ろうそくの火は、とっくに消えている。
「……あたし、まだ寝てる?」
「起きてるよ。起こしてくれたでしょ」
「そうだけど!」
広場に、村の人たちが集まってきた。
パイプをくわえた村長が、寝間着の上にガウンを引っかけて出てきた。空を見上げる。それから、川の向こうの雨を見る。もう一度、真上の青い空を見る。
村長の口が、だんだんゆるんでくる。
くわえていたパイプが、ぽろりと落ちて、ぬかるみに刺さった。
その横を、子どもたちが歓声を上げて走り抜けた。
濡れた石畳に、くっきり影が落ちている。子どもたちは自分の影を見て、きゃあきゃあ笑いながら、お互いの影を踏み合い始めた。
「式は!」
宿の戸がばんと開いて、花嫁が飛び出してきた。寝間着のまま、ベールだけ握りしめている。
「式、できるの!?」
「できるよ。昼までに支度すれば」
「でも、ケーキが……焼いてないの。ドレスも裾が泥だらけで……」
「ドレスは洗えばいい。花は摘めばいい」
「ケーキは?」
「わたしが焼くよ」
しわがれた声がした。
人をかき分けて、小さなおばあさんが前に出てきた。腕まくりをしている。
「おばあちゃん……」
「粉ならある。卵もある。昼までに焼けばいいんだね。ほれ、誰か窯に火を入れとくれ!」
おばあさんの一声で、村の女の人たちが一斉に走り出した。
あっちの家からは卵のかご。こっちの家からは、バターの壺。誰かが窯の口に薪を放りこむ音がする。
私は宿に戻って、壁のドレスを下ろした。
白い布はずっしり重い。裾を腕に抱えて、宿の裏の井戸まで運ぶ。
桶に水をくんで、泥はねのところだけを手でこすった。茶色いしみが、少しずつ薄くなる。井戸の水は冷たくて、指がじんじんした。
「貸しな。あんた、こすり方が下手」
傘売りさんが隣にしゃがんで、私の手から裾を取った。
ごしごしと、すごい力でこする。しみがみるみる落ちる。
「……うまいね」
「傘屋の娘はね、売れ残りの布を洗って干して、また売るんだよ」
洗い終わったドレスを二人で持って、また鐘楼の階段を上った。
いちばん上の窓に、裾を広げてかける。朝の風で、白い布がふわりとふくらむ。日なたに干したら、昼までには乾く。
「次は花!」
鐘楼を下りると、さっきの子どもたちが待っていた。
「お姉ちゃん、何すんの?」
「花を摘みに行く。いちばんきれいなのが咲いてるとこ、知ってる?」
「知ってる! 丘の上!」
「こっち!」
子どもたちが我先に走り出した。私も走る。
丘への道はぬかるんでいて、二回すべった。一回は尻もちをついた。子どもたちが大笑いする。
丘の上には、白い小さな花が一面に咲いていた。雨をたっぷり吸って、日の光を浴びて、花びらがぴんと開いている。
両腕いっぱいに抱えて、また走って戻る。
丘を下りる途中で、甘い匂いがしてきた。おばあさんの窯だ。焼けたバターと、卵の匂い。お腹がぐうっと鳴る。祈った日は、本当によくお腹が空く。
村に戻ると、広場の真ん中で、傘売りさんがおばあさんたちに囲まれていた。
「日よけの傘はないのかい。こんなに日がまぶしいのは久しぶりだよ」
「あるよ! 布が厚いやつ。日にも雨にも使える」
「一本おくれ」
「わたしにも」
傘売りさんの手元から、傘が五本、あっという間に消えた。
私と目が合うと、傘売りさんは銀貨を握った手をぐっと突き出してくる。
昼の鐘の少し前、鐘楼に上ってドレスを下ろす。
裾はすっかり乾いていた。顔を近づけると、日に当てた布の、ぽかぽかした匂いがする。泥のしみは、もうどこにも見えない。
花嫁の部屋まで運ぶと、花嫁はドレスを胸に抱きしめたまま、肩をふるわせていた。
昼の鐘が鳴る。
教会の前の広場に、村中の人が集まっていた。
花嫁が、宿の戸口から出てくる。真っ白なドレスが、日の光でまぶしい。手には、丘で摘んだ白い花の束。
頭には、おばあさんが編んだレースのベール。
そのとき、風が吹いた。
ベールの裾がふわりと持ち上がって、青い空の下で揺れた。
薄いレースに日の光が透けて、花嫁の肩に細かい模様の影が落ちる。
誰かが、小さく息をのんだ。
宿のおかみさんは、前掛けで目をごしごしこすっている。おばあさんは、粉だらけの手のまま、ぴんと背中を伸ばして孫を見ていた。
花婿が花嫁の手を取る。二人とも、顔が真っ赤だった。
式のあと、広場に長い机が並べられた。
川で獲れた魚の塩焼き。丸いパン。蜂蜜をかけた焼きりんご。村中の台所から、ありったけの料理が運ばれてくる。
村長も、机を運んでいた。泥のついたパイプを胸のポケットに差したまま。私と目が合うと、急に机の脚をのぞきこんで、がたつきを調べるふりをした。
おばあさんのケーキは、大急ぎで焼いたせいで、端っこが少し焦げていた。おばあさんはそれを見て、しまった、という顔をした。
「あ、その端っこ、もらっていい?」
「焦げてるよ」
「焦げたとこが好きなの」
おばあさんはきょとんとして、それから笑って、焦げた端を大きめに切ってくれた。
かじると、外側はかりっと香ばしい。中はふんわりして、干したぶどうの甘さが口いっぱいに広がった。
「……あんた、変わってるねえ」
「よく言われる」
日が傾いても、宴は続いた。
子どもたちは、まだ自分の影を追いかけている。長く伸びた影をうれしそうに踏んで、私のところへ走ってきた。
「お天気係のお姉さん!」
「明日も晴れる?」
お天気係。
昨日の朝、マリベルに笑われた呼び方だ。子どもの口から聞くと、なんだかくすぐったい。
「明日は知らない。祈るかどうかは、明日の私が決める」
「えー!」
そのとき、南の道から男の人が一人、広場に入ってきた。
旅人だ。マントから水がしたたっている。靴はずぶ濡れで、一歩進むと、ぐちゅっと水がしみ出た。
「おい、ここは晴れてんのか……!?」
「どっから来たんだい」
「王都だよ。王都は今朝から土砂降りだ。ここに着くまで、ずっと降られっぱなしだった」
広場の何人かが、南の空を振り返った。
私は、焦げたケーキの最後のひと口を口に入れる。
ちょっとだけ、笑ってしまった。
傘売りさんが、隣にどさっと座った。
膝の上で、銀貨の袋がじゃらりと鳴る。
「……ユッテ」
「え?」
「名前。晴れたら教えるって言ったでしょ。約束だからね」
ユッテは、こっちを見ないで言った。銀貨の袋を、意味もなく握り直している。
「ユッテ、ユッテ」
「何回も呼ぶな」
宴の端のほうで、花嫁のお父さんがお酒の杯を持ったまま、こっちへやって来た。
日に焼けた顔が、もう真っ赤になっている。
「お天気係さん。あんたに、ひとつ話がある」
「なに?」
「収穫祭が、三年流れてる町がある」
北へ三日行ったところにある、フェンネという町だそうだ。
三年続けて、祭りの日に雨が降ったらしい。
ユッテがじろりと私を見た。
「……行く気でしょ」
「北に行くんでしょ、ユッテも」
「傘売りに行くんだよ、あたしは」
「じゃあちょうどいいね」
私は、焦げたケーキのくずを指でつまんで、なめた。
「三年分のお祭り、一日でやってもらおう」
*
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