第3話 三年ぶりの収穫祭で宿屋の樽がタダになる
フェンネの町に着いたのは、川沿いの村を出て三日目の夕方だった。
道中、私は一度も祈らなかった。
毎晩ユッテに「今日は祈るな。財布がもたない」と言われた。言われなくても、道の上で祈る用はなかったけど。ユッテは街道の食堂で、スープ三杯の代金を払っている。
町は、ぐるりと木の柵で囲まれていた。
門をくぐると、雨の中に風車が一つ立っている。柵の内側の、ちょっと小高いところだ。羽根は濡れて黒ずんで、ぎいぎい鳴りながらゆっくり回っていた。
広場には、大きな天幕が張ってあった。
赤と白のしま模様で、市場がまるごと一つ入るくらい広い。中には屋台がずらりと並んで、人がぎっしりいた。雨の日でも、ここなら買い物ができる。
天幕の入り口に、看板が立っている。
『ザッカーの雨の日の市 場所代、銀貨一枚』
「へえ。うまいこと考えるね」
ユッテが感心したように言って、それから急に顔をしかめた。
「……あの天幕の下じゃ、傘はいらないじゃん」
「そうだね」
「そうだね、じゃないよ!」
町の宿屋は、広場に面した大きな一軒だけだった。
一階が酒場で、二階と三階が客室。入り口の上に、太い字で『ザッカーの宿』と書いてある。
「お客さん、傘屋のユッテさんかい?」
荷車を止めると、宿の小僧さんが走ってきた。手に封筒を持っている。
「手紙、先に届いてるよ」
「あ、いとこからだ」
ユッテは行き先を、出発前にいとこへ書き送ってある。だから手紙は、私たちより先に宿へ着いていた。
ユッテは封を破って、軒下で読み始めた。読みながら、眉がだんだん寄る。
「『傘が一日で百本売れた。戻ってこい』……だって」
「よかったね」
「よくない! あたしの売り物は全部ここにあるんだよ!」
ユッテは手紙をもう一度見下ろして、声を小さくした。
「『新しい聖女様が神殿の屋根で祈ったけど、雨は止まなかった』って」
ふうん。
それより、酒場のほうから焼いた肉の匂いがする。
「……あんた、聞いてる?」
「聞いてる。晩ご飯なにかな」
ユッテは手紙をくしゃっと丸めて、荷台に放り投げた。
その晩の夕ご飯は、宿の酒場で。
酒場は町の人でいっぱいだった。みんなびしょ濡れの上着を椅子の背にかけて、湯気の立つ杯を両手で持っている。
「三年だぞ、三年」
「今年はもう、祭りの支度もしてねえよ。カボチャも倉に入れっぱなしだ」
「どうせ降るんだ。ザッカーの天幕で市をやるほうがましさ」
「場所代を払ってか? 銀貨一枚だぞ」
「じゃあどうしろってんだよ」
隣の机のおばあさんが、私たちのほうに身を乗り出してきた。
「あんたたち、旅の人かい?」
「うん。王都から」
「悪い時に来たねえ。昔はね、この町の収穫祭は北のほうじゃ一番だったんだよ。広場いっぱいにカボチャを並べてさ。みんなで転がして、焼いて、食べて」
おばあさんは杯の中を見つめて、ため息をついた。
あちこちの机から、そんな声が聞こえてくる。
ユッテは、二杯目の麦酒をぐっと飲み干した。顔が赤い。目がすわっている。
嫌な予感がした。
「あのさあ!」
ユッテが、がたんと立ち上がった。
「この子が祈れば、晴れるんだよ!」
酒場が、しんとした。
私はパンをくわえたまま、ユッテの袖を引っぱった。ユッテは振りほどいた。
「ほんとなんだって。川沿いの村の結婚式、この子が晴らしたんだから!」
「ほう」
酒場の奥から、太い声。
カウンターの向こうに、大きな男の人が立っていた。四十くらい。太い指に、金の指輪がぎらりと光っている。
この宿の主人の、ザッカーだ。
「聖女を名乗る女だろうが。そういうのはな、王都の聖女様の真似をして、金を巻き上げに来るんだよ」
「私、聖女って名乗ってないよ。お天気係」
「お天気係だあ?」
ザッカーが笑った。酒場のあちこちから、くすくす笑いが起こる。
ザッカーはカウンターから出てきて、酒場のみんなをぐるりと見回した。
「いいか、よく聞けよ。もし明日晴れたらな──」
ザッカーは、壁ぎわに積んである樽を、ばんと叩いた。
「晴れたら、うちの樽を全部タダで広場に出してやらあ。麦酒も林檎酒も、一滴残らずだ」
酒場がどっとわく。
ザッカーはにやにやしている。降るに決まっている、という顔だ。
私は、パンを飲みこんでから立ち上がった。
「約束ね。みんな聞いたよね」
一瞬、酒場が静かになる。
それから、奥の机のおじいさんが杯を持ち上げた。
「聞いたぞ」
「わしもだ」
「あたしも聞いた!」
「全部タダだってよ!」
ザッカーの顔から、にやにやが少しだけ消えている。
でも、すぐに鼻で笑い直した。
「へっ。そのかわり、降ったらあんたはうちの皿洗いだ。ひと冬ただ働きだからな」
「いいよ」
「……いいのかよ」
「皿洗い、得意だもん」
ザッカーは何か言い返そうとして、口を開けて、閉じた。ユッテが横で、空の杯を握ったまま青くなっている。
ここだけの話、私はその晩、いつもより早く寝た。
夜明け前に起きるには、ユッテに頼るしかない。でもユッテは、麦酒を四杯飲んでいた。
次の朝、私は自分で起きた。
ユッテは隣の寝台で大の字になって、いびきをかいている。揺すっても起きない。鼻をつまんだら、手を払われた。
仕方ないので、一人で行くことにした。
宿を抜け出して、まだ暗い広場を横切る。雨は細い。ザッカーの天幕から、ぽたぽた水が垂れていた。
柵の内側の坂を上ると、風車の下に出る。
風車小屋の戸には、鍵がかかっていなかった。中には、外の羽根の軸まで続くはしごがある。濡れた手すりをつかんで、一段ずつ上る。
てっぺんの小窓を押し開けると、町全体が見えた。屋根の群れと、赤と白の天幕と、ぐるりと囲む柵。
東の空が、ほんのり明るくなりかけている。
私は空に小さく手を振った。
両手を胸の前で組む。
晴れて。三年分のお祭りが、一日でできるくらい。
まぶたの裏が、ふっと明るくなった。
目を開けると、雲の真ん中に大きな穴が開いて、そこから朝の光がまっすぐ降りてきた。
濡れた屋根が、一斉にきらきら光る。風車の羽根から落ちるしずくまで、日を浴びて白く光った。
柵の外の畑には、まだ雨が降っている。
はしごを下りて風車小屋を出ると、坂の下に人が集まっていた。
寝間着の人、パンをかじりながらの人、赤ん坊を抱いた人。みんな上を向いて、それから、風車から出てきた私を見た。
「お天気係!」
誰かが叫んだ。
すると、そこにいた全員がそろって叫んだ。
「お天気係!」
声が大きすぎて、風車の上にとまっていた鳩が、ばさばさと飛んでいった。
人をかき分けて、ユッテが坂を駆け上がってきた。髪の布もつけていない。寝ぐせが四方に跳ねている。
「なんで起こさないの!?」
「起こしたよ。手を払われた」
「覚えてない!」
「でしょ?」
ユッテは、息を切らしたまま真上の青を見た。それから、坂の下の人だかりを見た。
「……で、樽は?」
坂の下から、ゆうべの酒場のおばあさんが、杖をついて上ってきた。青い空に目を細めたまま、何度もまばたきしている。
「生きてるうちに、もう一回見られるとはねえ」
おばあさんは私の手を取って、両手でぎゅっと握った。しわだらけの手は、思ったより温かかった。
それからの町が、すごい。
倉の戸があちこちで開いて、カボチャが運び出される。広場には屋台の板が次々に組まれて、色とりどりの布がかけられた。三年しまいこんでいた飾りの旗が、屋根から屋根へ渡される。
ザッカーの天幕は、昼前には畳まれていた。
ザッカー本人は、宿の戸口に寝間着のまま突っ立って、空をにらんでいた。金の指輪のはまった手で、何度も目をこする。こすっても、空は青いままだ。
少しして、ザッカーが樽を一つずつ転がして広場へ運んでいる。顔は灰色。
広場の真ん中に樽を立てて、栓を抜く。それから、まっすぐ前を向いたまま言った。
「……タダダ。モッテケ」
町の人たちが歓声を上げて、杯を持って押し寄せた。
「おやじ、もう一杯!」
「タダダ。モッテケ」
「林檎酒のほうも開けてくれよ!」
「……タダダ。モッテケ」
ザッカーは、それしか言わない。
昼になると、広場に甘い匂いが流れてきた。
カボチャを皮ごとまるごと窯で焼いた、この町の名物だそうだ。木の皿にのせて、真ん中から割ってくれる。湯気がぼわっと上がった。
屋台のおじさんは、私からお代を受け取らなかった。
「お天気係から金が取れるかよ。ほら、熱いうちに食え」
さじですくうと、黄色い身がほくほくしていた。口に入れると、ねっとり甘い。皮の近くは香ばしくて、ちょっと焦げている。私はそこばかり食べた。
「お天気係のお姉ちゃん、出る?」
小さな男の子が、私の袖を引いている。
広場の端で、カボチャ転がしの競走が始まるところだった。坂の上から大きなカボチャを転がして、先に下まで押していった人の勝ちだ。
「出る」
「じゃあ、ぼくとだね!」
男の子は七つ。私の腰くらいまでしかない。
合図の笛。
私はカボチャを押した。重い。思ったより、ずっと重い。しかも丸いから、まっすぐ転がらない。右へ行く。左へ行く。追いかけて、また押す。
気づいたら、男の子はとっくに坂の下にいた。
「勝ったー!」
「……ちょっと、待って。それ、どうやってまっすぐ転がすの」
「へたくそー!」
まわりの大人たちが大笑いする。私も笑った。お腹のカボチャが、まだ温かい。
ザッカーの宿の台所からは、林檎の揚げ菓子が次から次へと運ばれてくる。
輪切りの林檎に衣をつけて油で揚げ、砂糖をまぶした菓子。かじると、さくっと音がする。中の林檎は熱くて、甘酸っぱい汁がじゅわっと出てくる。
揚げ菓子の屋台には、ずっと人が並んでいる。
ザッカーは揚げ菓子の代金を受け取りながら、樽のほうを見て、揚げ菓子のほうを見て、口をもごもごさせた。
樽はタダ。でも揚げ菓子は、売れれば売れるだけ儲かる。文句を言いたいのに、言えない顔だった。
夕方、広場に灯りがともる。
知らない人が、すれ違いざまに私に手を振る。屋台のおばさんも、肩車された女の子も。私も手を振り返した。
ユッテが、揚げ菓子を三つ持って戻ってきた。日よけの傘が十一本売れたらしい。機嫌がいい。
「……王都、まだ降ってんだね」
「みたいだね」
「戻ってこいって言われてもさあ。……百本かあ」
ユッテは揚げ菓子をかじって、空を見上げる。
夕焼けの空は、町の上だけ、いつまでも明るかった。
そのとき、広場のはしに、背の高い人影が見えた。
黒いマントを着て、フードを深くかぶっている。祭りの灯りの中で、その人のまわりだけが暗く見えた。
すぐ隣には、白いひげの大男。
黒いマントの人は、町の人たちを見ていなかった。
屋台も樽も、カボチャ転がしも見ていない。
ただ、空を見上げていた。
フードの奥で、まぶしそうに目を細めて。
*
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