第二節 観察者

「女装した憲兵に捕まったんだってな」


特殊部隊の詰所に笑い声が上がった。


禄風は黙って茶を飲んでいた。


「変装の名人が、変装に騙されたわけだ」


「しかも締め落とされたんだろ?」


「……大した腕だったよ」


「何だ、褒めるのか?」


「事実だからな」


小女子太一。


娘を装ってこちらから追わせ、腕を掴ませた瞬間に投げた。降参した後の動きまで読まれていた。


負けたのは事実だ。


だが、それで自分の技量まで軽んじられるのは面白くない。


「もう行くのか?」


「ああ」


「次は捕まるなよ」


「そうするさ」


禄風は茶を置き、詰所を出た。


*


「遅かったな」


川沿いの橋に差しかかったところで、声がした。


「……戊辰教授?」


戊辰直江が立っていた。


「私に用ですか」


「ああ」


「どうしてここに?」


「君なら裏から出ると思った」


直江は路地を指した。


「人を避けて北へ抜けるなら、ここだろう」


「待ち伏せですか」


「そうなるな」


禄風は少し笑った。


「何のご用でしょう」


「日清戦争で、清国軍の一個大隊が七日間、前進できなくなったことがある」


禄風の表情が変わった。


「……よくご存じで」


「兵も武器も弾薬も揃っていた。それでも動けなかった」


「戦場では、よくある話です」


「それを一人で起こした者は、そうはいない」


禄風は黙った。


「変装、声帯模写、語学。追跡と状況判断も優れている。私は君を高く評価している」


「随分と買ってくださるんですね」


「事実を言っているだけだ」


直江は懐から地図を取り出し、禄風へ渡した。


「君に見てきてほしいものがある」


「どこへ?」


「天鼓島だ」


日本海に浮かぶ小さな島だった。


「以前、華神楽のセン様と訪れた。古い社がある」


「調査ですか」


「そうだ。以前使った測量会社に、もう一度仕事を頼んである」


「そこへ私も?」


「臨時の助手として加わってほしい。社の様子をよく見てきてくれ」


「分かりました」


「それと、もう一つ」


直江は地図の一点を指した。


「島には雪乞いという儀式がある」


「雪を降らせるんですか?」


「そう伝わっている」


「教授はご覧になったことが?」


「いや」


禄風が顔を上げた。


「なるほど。それで?」


「滞在中に行われたら、仔細を観察してほしい」


「何を見れば?」


「始まる前から終わった後までだ。人の動きも、周囲の変化も。君なら見落としは少ないだろう」


「測量会社には?」


「話す必要はない」


禄風は地図を畳んだ。


「正式な命令ですか」


「いや、まだだ」


「私に先に話すんですか」


「君が引き受けるなら、上に話を通す」


「断ったら?」


「別の手を考える」


禄風は直江を見た。


「……変わった方ですね」


「そうか?」


「ええ。ですが、嫌いじゃありません」


地図を懐へ収める。


「引き受けましょう」


直江は頷いた。


「頼んだ」


*


「おい、新入り。そっちを持ってくれ」


「はい」


禄風は測鎖の端を押さえた。


天鼓島へ渡って二週間。


正式な命令を受け、姿を変え、偽名で測量会社の臨時助手に加わっていた。


「もう少し張れ。……よし」


古参社員が野帳へ数字を書き込む。


社の裏手には、古い石組みが続いていた。


「前にも調査されたそうですね」


「ああ。戊辰様に頼まれてな。その時は、同じ造りの石箱まで作らされた」


「石箱ですか?」


「棺桶くらいの大きさだった。中に何か詰めて本土へ運んだが、中身は見せてもらえなかったよ」


男は足元の土を避けた。


「それより、この斜面だ。前より崩れてるな」


石垣の下には、湿った土が露出している。


「雨が降ったら仕事にならんぞ」


その時、測鎖が緩んだ。


「おい、しっかり持て!」


「す、すみません……」


もう一人の社員が激しく咳き込んでいた。


「お前、本土にいた時から咳してただろ。辛いなら宿へ戻れ」


「ただの風邪ですよ」


男は痰を吐き、袖で口を拭った。


通りかかった島民が足を止めた。


「……村じゃ子供まで寝込んでるんだ。病人は休ませてやってくれ」


島民は近づかずに去っていった。


禄風は測鎖を巻き直した。


山道の向こうからも咳が聞こえる。


島へ来た頃には、これほど多くなかったはずだ。


*


翌朝。


禄風は資材を受け取るため、港へ来ていた。


荷札を確かめていると、汽笛が鳴った。


船から乗客が降りてくる。


その中に、見覚えのある顔があった。


庚寅左門。


続いて、乾藤丸。


水神楽アサヲまでいる。


禄風は荷札へ視線を戻した。


この三人が、なぜ島に?


「だから、どこにあるんですか」


アサヲの声が聞こえた。


「知らねえよ。島に来れば分かると思ったんだ」


「調べてないんですか」


「俺は島を見つけただろ」


禄風は荷札を束ね、何食わぬ顔で三人の近くを通った。


「おい、あんた」


左門に呼び止められた。


「はい?」


「雪乞いをやる社って、どこにあるか知ってる?」


「山の古い社なら、そこの道を上がった先ですよ」


「近いのか?」


「歩いて行けます」


「ありがとな」


左門が歩き出そうとした。


その時、アサヲが島民へ声を掛けた。


「雪乞いは、もう始まっていますか?」


「ああ。今朝からやってるよ」


「ありがとうございます」


アサヲはすぐに山道へ向かった。


「おい、ちょっと待て」


左門が呼び止める。


「荷物くらい預けてから行こうぜ」


「終わってしまいます」


「山まで登るんだろ? この寒い中を」


十二月の海風に、左門は襟元を合わせた。


「雪乞いに間に合わなくて、カツ様を落胆させたくありません」


「……そりゃ困るな」


左門は背負い袋を担ぎ直した。


「急ぐぞ」


「はい」


藤丸が禄風へ目を向けた。


一瞬。


だが、何も言わず二人に続いた。


「ほら、やっぱり俺に任せて正解だったろ」


「社を見つけただけでしょう」


「それが大事なんだよ」


三人の声が遠ざかっていく。


禄風はその背中を見送った。


以前、激しく争っていた左門と藤丸。


今は並んで歩いている。


しかも、二人を急かしているのはアサヲだった。


「おい、新入り!」


荷車の方から呼ばれた。


「社に戻るぞ!」


「はい!」


禄風は荷を担ぎ直した。


雪乞い。


直江から頼まれた、もう一つの仕事。


まさか、あの三人まで追っているとは。


同じ社へ向かうなら、都合がいい。


今度は、あちらの仕事も見せてもらおう。


何食わぬ顔で、荷車の後ろを歩き始めた。

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