第一節 偽筆
アサヲは息を止めた。
筆先が紙に触れる。
わずかに力を加え、ゆっくり墨を引く。
止め。払い。
一文字を書き終え、傍らの手紙へ目を移した。
虫眼鏡で文字の傾きと墨の濃淡を確かめる。
小夜屋敷の一室。
アサヲは半刻ほど前から、文机に向かっていた。
一文字。
また一文字。
筆先だけが、恐ろしくゆっくりと進んでいく。
戸が開いた。
藤丸だった。
アサヲは顔も上げない。
藤丸はその背中をしばらく眺め、文机を覗き込んだ。
二通の手紙。
一通は華神楽カツから届いたもの。
もう一通には、同じ筆跡で文字が並んでいる。
宛名は庚寅左門。
「…………」
アサヲが最後の一文字を書き終えた。
二通を並べ、もう一度見比べる。
ようやく筆を置いた。
藤丸が息を吐く。
「……好きにしろ」
踵を返した。
「あ、藤丸」
振り返ると、アサヲが小さな硝子瓶を取り出していた。
栓を抜き、封筒の内側へ香油をほんの少し塗る。
便箋を収め、封をした。
かすかに甘い香りが漂う。
アサヲは封筒を持ち上げ、隅々まで確かめた。
「完璧」
藤丸は何も言わず、戸を閉めた。
*
「……カツさん?」
左門は差出人を見直した。
華神楽カツ。
先日、屋敷で知り合った女性だった。
封を切る。
ほのかな香りがした。
「へえ……」
便箋を開き、丁寧に書かれた文字を読み進める。
「……そんな大したことしてねえけどな」
口元が緩んだ。
「ふうん。まあ、アサヲはまだ若えからな」
次の行で、声を出して笑った。
「ははっ。あいつ、何かっていうと鉄砲だもんな」
さらに読み進める。
「さすがカツさん。人を見る目は確かだ」
すっかり機嫌がよくなったところで、最後の一文に目が止まった。
「雪乞い?」
左門は文机の箱を開けた。
七つの与太話。
書き付けを一枚ずつ確かめる。
「あった」
天鼓島。
日本海に浮かぶ離島で、古くから雪乞いの儀式が行われているという。
季節を問わず雪を降らせる、不思議な祈祷。
以前から気にはなっていた。
だが、遠い。船賃もかかる。
何より、雪を見つけたところで商売になる見込みがない。
だから後回しにしていた。
「……これか」
左門は手紙へ目を戻した。
もう一度、最初から読む。
「まあ、そこまで頼まれちゃな」
書き付けと手紙を畳み、懐へ収めた。
*
駅前には、朝から人力車と荷車が行き交っていた。
左門は待ち合わせ場所で時計を見上げた。
約束の時刻には、まだ少し早い。
懐の手紙を取り出しかけ、やめる。
襟元を直した。
「左門さん」
振り向くと、アサヲと藤丸が歩いてきた。
「おう。カツさんは?」
「今日は来られません」
「そうか」
左門は少し残念そうにした。
「まあ、手紙にもお前らを向かわせるって書いてあったしな」
「はい」
「で、雪乞いの件だが」
左門は懐から書き付けを取り出した。
「天鼓島だ」
「天鼓島?」
「日本海の島だよ。雪を降らせる祈祷があるらしい」
アサヲが顔を上げた。
「本当ですか?」
「与太話だからな。行ってみねえと分からん」
アサヲは書き付けを覗き込んだ。
「……なるほど」
「何だよ。知らなかったのか?」
「はい」
「知らねえで俺を呼んだのか」
「だから左門さんにお願いしたんです」
左門は少し胸を張った。
「まあ、こういうのは俺に任せとけ」
「頼りにしています」
「だろ?」
左門は藤丸へ目を向けた。
「おい、藤丸」
「何だ」
「お前、そのガサツなところ直した方がいいぞ」
「……何の話だ」
「カツさんも、ちゃんと見てるんだからな」
藤丸はアサヲを見た。
アサヲは書き付けを読んでいる。
「……そうか」
それ以上は聞かなかった。
左門が書き付けを畳む。
「ところで、旅費は出るんだろうな」
「もちろんです」
「報酬は?」
「そういえば、セン様が亡くなられて、カツ様もお可哀想でしたね」
「……ああ、そうだな」
左門は少し黙った。
アサヲが顔を上げる。
「それで、何でしたっけ?」
「……いや、何でもねえ」
「そうですか」
アサヲは頷いた。
「では、行きましょう」
「おう」
藤丸が荷を担ぎ直した。
「天鼓島なら、まず港までの足を調べんとな」
「ああ。そこは俺に任せろ」
三人は駅舎へ向かった。
「お前、さっきから妙に静かだな」
左門が隣を歩く藤丸へ声を掛けた。
「いつもだ」
「そうか?」
「ああ」
「……まあ、そうだな」
左門は納得して、先に駅舎へ入っていった。
藤丸がアサヲを見る。
アサヲは左門の背中を確かめると、藤丸に向かって小さく胸を張った。
藤丸は何も言わず、後に続いた。
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