第14話「未知の横文字と、ABCのララバイ」

第14話「未知の横文字と、ABCのララバイ」

​​ 大地下図書室は、もはやエルフンドシ番長・雑賀アルヴェインにとって、幾度となく敗北を刻まれた絶望の古戦場と化していた。

 漢字ドリルという古の睡眠魔法に沈み、100マス計算で命を削り、世界魔法史のテキストで過去の記憶へと逆行催眠(フラッシュバック)を引き起こし、三度目の爆睡からハッと目を覚ましたアルヴェイン。

 彼の専属家庭教師である新入生タキモトは、深すぎるため息をついて眼鏡を押し上げると、最後の望みを懸けて、カバンの中から色鮮やかな表紙の一冊を取り出した――『初級・外国語(共通語)テキスト』である。

「……いいですか先輩。漢字は『自然を枠に閉じ込めるからダメ』、魔法史は『過去の記憶がリアルすぎてダメ』。先輩の言い分は分かりました。なら、この外国語(共通語)はどうですか!? 横文字(アルファベット)なら、漢字みたいに画数が多くて複雑な形はしていません。シンプルな線の組み合わせですよ!」

「……よこもじ? なんだ、その得体の知れない呪文みたいな響きは」

 白フン姿で正座を崩さず、アルヴェインは怪訝そうに銀色の眉をひそめた。

 そう、伝統と格式を重んじ、星の運行や大地の息吹を『古代ルーン文字』として縦や円環で記す古きエルフの集落で育ったアルヴェインにとって、左から右へと均等に並ぶ「横文字」は、完全に未開の概念であったのだ。

「いいですか、まずは基本中の基本、『A(エー)』『B(ビー)』『C(シー)』からです! これが書けなきゃ始まりません!」

 タキモトがテキストの最初のページをドンと力強く指差し、アルヴェインの大きな手に華奢なシャープペンシルを握らせる。

 アルヴェインは純白の一晒し(ふんどし)をバシッと締め直し、気合いの証であるハチマキを頭に巻き直すと、穴が開くほどの鋭い眼光で、テキストに印字された『A』の文字を睨みつけた。

「……ほう。この『A』という記号……。鋭角な三角形の屋根に、不自然な横棒を渡したような形……。まるで、森に侵入したゴブリンが仕掛けるトラバサミの罠か何かか?」

「ただの文字です!! 罠じゃないですから、余計な想像をしないで早くノートに書いてください!!」

 180cmの美形ハイエルフが、震える指先で「A、B、C……」と、ノートの罫線に沿って不格好な文字を書き連ねていく。

 だが、アルファベット単体の練習から、英単語の学習に入った瞬間、アルヴェインの脳内に致命的な異変が生じた。

『Apple(りんご)』『Dog(犬)』『Desk(机)』――。

「くっ……漢字は黒い羽虫の集団に見えたが……。この横文字ってやつは……白い紙の上を、均等な間隔でミミズが這い回ってるようにしか見えねぇ……ッ!」

「ミミズじゃないです! 意味を持った単語です! アルファベットを数個見ただけで、知恵熱を出さないでください!」

 アルヴェインの額から、滝のような冷や汗が流れ落ちる。

 エルフとは本来、事物そのものの『本質』を直接感知する種族だ。「りんご」を見れば、その芳醇な香りと赤い果実の生命力をそのまま魂で理解する。それをわざわざ「A」「p」「p」「l」「e」という、個々では意味を持たない無機質な記号の羅列に分解し、人為的に再構築しなければならない。そのプロセス自体が、彼らにとっては「自然への冒涜」であり、脳の魔力処理領域を著しく圧迫するエラーを引き起こすのだ。

 未知の記号の連続に、アルヴェインの脳内処理能力は完全に限界を突破。オーバーヒートを起こしたおバカエルフの脳細胞が悲鳴を上げ、頭頂部からシュウゥゥと白い湯気が立ち上り始める。

 さらに、彼を追い詰めるのは単語の『形』そのものであった。

「だ、ダメだ……タキモト……。漢字が『過去への逆行催眠』なら……この横文字は……さらにタチが悪い……ッ!」

「弱音を吐かないでください! ただ左から右に読んでいくだけでしょう!」

「違うんだ……! 左から右へ、同じ幅、同じ高さで、機械のように均等に並べられたこの無機質な羅列……! 自然界には存在しない、この『人工的な均質化』が……俺の視覚を通じて、脳を一定のリズムで直接揺さぶってくる……ッ!」

 そう、横一列に並ぶ均質なアルファベットの連続は、視覚を通じた『メトロノーム』としてアルヴェインの脳に作用していたのだ。

 カチ、カチ、カチ……。

 単調で機械的な視覚情報が、大地の不規則なリズム(自然のゆらぎ)に慣れ親しんだエルフの脳波を、強制的に鎮静化(アルファ波へ移行)させていく。

「こ、これは……異国の……抗いようのない『子守唄(ララバイ)』だ……ッ!! 脳みそが……均等なリズムで……溶かされていく……」

「子守唄じゃないです! 文字のゲシュタルト崩壊に勝手にリズムを感じて寝落ちしようとしないでください! 踏ん張って!」

 アルヴェインは最後の気合いを振り絞り、「ぬおぉぉぉッ!」と咆哮しながら、自らの白フンを両手でバシバシと力任せに叩き、痛覚で正気を保とうとした。

 しかし、視界を完全に埋め尽くす「ABC」という均質な呪縛から、彼のエルフの魂は逃れられなかった。まばたきをする度に、アルファベットたちが羊のように均等なリズムで柵を越えていく幻影が見える。

 カク……カクン……。

 バタンッ!!

 色鮮やかな外国語テキストの上に、180cmの巨躯が、見事な放物線を描いて顔面から豪快に沈み込んだ。

「……すー……すー……(完全なる爆睡)」

「そ、そこまでぇぇぇっ! 雑賀アルヴェイン、横文字の均等な波(メトロノーム)に呑まれて――またしてもリタイヤーッ!!」

 タキモトの血を吐くような絶叫が、冷たい石壁の図書室に虚しく響き渡る。

 ふと足元を見ると、アルヴェインの脳から漏れ出す「均質な催眠魔波」にあてられたのか、霊獣アース・パグのトシロウと雷獣チワワのチワ丸までもが、一定のリズムで船を漕ぎ始めていた。

 二匹の犬は「グヒ……」「キャン……」と呆れ顔で見つめ合った後、抗えない眠気に負け、爆睡するアルヴェインの左右にぴったりと寄り添う。そして、三つの命が完全に同期したメトロノームのような等間隔のリズムで、すやすやと平和なお昼寝を開始するのであった。

​ 体育『5』、盤上遊戯『規格外』、しかし全教科『1』の留年・エルフンドシ番長。

 世界に存在するあらゆるテキストを、己の強靭な理屈で「極上の安眠枕」へと変換してしまう彼の補習突破への道のりは、あまりにも深く、そして果てしなく遠い――。

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