第11話「指先の封印と、命懸けの100マス計算」
第11話「指先の封印と、命懸けの100マス計算」
大地下図書室の重苦しい空気の中、漢字ドリルという古の睡眠魔法(ただの極度な勉強嫌い)に手も足も出ず、完全敗北を喫して爆睡していたエルフンドシ番長・雑賀アルヴェイン。
彼が顔面に『木』という文字の鉛筆跡をつけたままハッと目を覚ますと、専属家庭教師である新入生タキモトが、冷ややかに光る眼鏡の奥から一枚のプリントを差し出してきた。
「……おはようございます、先輩。国語の絶望的な実力は把握しました。気を取り直して、次は得意だと言っていた算術です。この『100マス計算』を、できるだけ早く埋めてください」
「ふっ……待たせたな。計算(物理演算)なら俺の独壇場だ!」
アルヴェインは立ち上がり、白フン一丁の逞しい腰をバシッと叩いて勝利を確信した。そして、長ランの懐から必勝の相棒である使い込まれた木製『そろばん』を抜刀するように構える。
極限まで研ぎ澄まされた彼の指先が、光の速さで珠へと伸びようとした、その瞬間だった。
スッ……。
タキモトの容赦のない手が伸び、アルヴェインから愛用のそろばんを無情にも没収した。
「あ、そろばんは本番の試験に持ち込み禁止なので、当然この特訓でも禁止です」
「……何ぃ!? そろばんを使っちゃダメだと!?」
アルヴェインは目を見開き、まるで親の仇でも見るかのような顔で叫んだ。
「お、お前……! 侍から魂の刀を奪う気か!? 盤上と珠という実体(ぶき)を取り上げられて、どうやってこの算術という名の透明な魔物と戦えというんだ!」
「紙と鉛筆だけで、己の脳内を使って計算するのがテストというものです! ほら、文句を言わずにシャープペンシルを持って。制限時間は五分! よーい、スタート!」
カチ、カチ、カチ……。
タキモトが押したストップウォッチの、無慈悲なカウントダウンが始まる。
アルヴェインは額から冷や汗をダラダラと流しながら、震える手でシャープペンシルを握りしめ、真っ白な100マスの牢獄へと視線を落とした。
(くっ……実体の珠がないなら……己の精神力で創り出すまでだ……! 脳内の仮想空間に珠を構築し、指先にその感覚を直結させる……秘技『空(エア)そろばん』ッ!)
アルヴェインは中空に向けて、見えない珠を弾くように「パチパチパチッ!」と激しく指を動かし始めた。
しかし、それはエルフの生態系を根底から揺るがす禁忌の行為であった。エルフは本来、自然界にある実体(マナ)に干渉し操作する種族である。実体のない仮想の珠を脳内に留め、そこに擬似的なマナを注ぎ込んで演算させることは、脳神経に『多重結界構築魔法』を展開するに等しい、恐るべき負荷を生み出すのだ。
「3+4は……7! 8+6は……くっ!」
一桁の足し算が五マス、十マスと進むにつれ、アルヴェインの脳内で強引に維持されていた五位玉と一位玉の配列が、ガラガラと音を立てて崩壊し始める。
(アカン……! 桁が増えるごとに、仮想マナの維持に魔力を食われすぎる……! 空中の玉が霧散していく……ッ!)
「エアそろばんは意味ないです! 余計な魔力(リソース)を使わずに、頭の中で普通に数字の概念として暗算してください!」
あまりの脳への過負荷(オーバーヒート)に、180cmのハイエルフの巨大な身体がブルブルと痙攣し始めた。
たかが「3+4」や「7+8」といった単純計算。しかし、体育『5』、盤上遊戯『規格外』、学科『1』のおバカエルフの脳細胞にとっては、数式という名の大型魔獣の群れに、武器を持たずに生身で放り込まれるような絶望的な地獄であった。
カチ、カチ、カチ……。
「だめだ……! 残り三十秒! なのにまだ三十マス以上残ってます! 先輩、時間がありません!」
タキモトの焦燥に駆られた声が図書室に響く。
見れば、アルヴェインの鉛筆は「6+9」のマスで完全にフリーズしていた。オーバーヒートした頭頂部からはシュウゥゥと白い湯気が立ち上り、透き通るような肌は極限の知恵熱によって真っ赤に上気している。
(くそっ……頭が爆発しそうだ……! このままじゃ、俺の気高きエルフの脳みそが、濃厚な海鮮味噌煮込みになっちまう……!)
意識が急速に遠のきかける。
だがその時、彼の視界の隅に、足元で小刻みに震えながら静電気を放つ雷獣チワワのチワ丸と、その放電(アーシング)を黙って受け止め、太い首を伸ばして主人を見上げる霊獣アース・パグのトシロウの姿が映った。
(ここで筆を置いたら……俺はただの、口先だけの留年バカエルフだ……! 俺の漢気を信じて、この絶望的な特訓に付き合ってくれているタキモトの顔も潰れちまう……!!)
アルヴェインの濁りかけた瞳の奥に、野生の猛獣のような怒りと、強烈な気合いの炎が点火された。
バシィィィィンッ!!
自らの白フンを両手で激しく叩き、腹の底の「丹田」へと、空間中の全てのマナを強制的に集束させる。
彼には算術の正解など分からない。だが、空欄という名の『敗北の余白』を恐怖で残しておくことは、彼の美学が許さなかった。
(俺の武器は計算じゃねぇ……大地の重みを乗せた『振動』だ!!)
アルヴェインはシャープペンシルを短く握り直した。弓矢で培った超絶的な動体視力、紙相撲で極限まで研ぎ澄ませた手首のスナップ、そしてベーゴマで学んだ『旋風の軸』。そのすべての物理的エネルギーを、極小の鉛筆の芯先一点へと叩き込む!
「答えなんざ知らん! 数式の真理(ロジック)は、魂の軌跡(タッピング)で強制的にねじ伏せるまでだぁぁぁッ!! 喰らえ、『一晒(ひとざら)し・神速筆記(しんそくひっき)』――ッ!!」
カリカリカリカリカリカリカリカリッッッ!!
残像すら見えない、恐るべきストローク! 鉛筆の芯が紙との摩擦で超高温に達し、プリントの表面から焦げ臭い煙が上がり始める。
アルヴェインの右腕は、まさに千手観音の如き迫力で、残された三十の空欄に次々と『数字らしき独自の波動の形』を刻み込んでいった!
チ――――ン!!
「そこまでぇぇぇっ!!」
ストップウォッチの無慈悲なアラームが鳴り響くと同時。
最後の右下のマスに、もはや数字なのか魔法陣なのか分からない「81」という文字を親の仇のように殴り書き、アルヴェインは煙を吹くシャープペンシルを弾き飛ばした。
「はぁ……はぁ……ハァ……っ!」
「ぜ、全マス……埋まった……!? しかも制限時間、ピッタリジャストです!!」
タキモトが目を限界まで丸くして、焦げ跡のついたプリントを覗き込む。
採点してみれば、当然ながら正解率はボロボロであった。後半の三十マスに至っては、半分以上が野生の勘による無茶苦茶な数字(中には古代エルフ語すら混じっていた)の羅列である。
だが――制限時間という絶対的な壁の前に屈することなく、100のマス目全てを己の気合いと物理的な重みで埋め切ったという事実だけは、紛れもない『戦いの証』であった。
「ひ……一歩も、引かなかった……」
タキモトは、震える手でそのプリントを握りしめた。下町で生きてきた彼にとって、計算とは常に「正確であること」がすべてだった。分からないなら空白にしておくのが合理的だ。しかし、目の前の男は違った。未知の絶望に対して理屈を捨てて魂の振動だけで挑み、余白を恐怖のまま終わらせず、己の気合いで塗りつぶしたのだ。
「100マス計算相手に……ここまで命を削って、魂のタッピングで戦う漢(ひと)を、オレは初めて見ました……!」
計算では測れない、圧倒的な『漢の質量』。タキモトの眼鏡の奥で、確かな尊敬の念が光った。
当のアルヴェインはといえば、全身の魔力と気力を使い果たし、真っ白な灰のように正座したまま燃え尽き、カクンと首を垂れてピクリとも動かなくなっていた。
「グヒッ!」
「キャン♪」
トシロウとチワ丸が、まるで大魔獣との激闘を終え、世界を救った英雄を讃えるかのように、真っ白になったアルヴェインの白フンの膝元へと、誇らしげに擦り寄るのであった。
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