第10話「学力特訓開始」

第10話「学力特訓開始」

​ 桜吹雪の舞う新学期が始まり、前代未聞の留年が確定したエルフンドシ番長・雑賀アルヴェイン。

 彼に残された道はただ一つ。一ヶ月後に行われる進級をかけた「特別補習テスト」において、壊滅的な全教科の単位をもぎ取ることだけであった。

「いいですか先輩。テスト本番まで時間がありません。今日からオレが付きっきりで特訓しますからね!」

 放課後。私立聖樹学園の地下深く、千年の知識が堆積し、古い紙の匂いと重いマナが停滞する『大地下図書室』。

 新入生でありながらアルヴェインの専属家庭教師となったタキモトが、年季の入った分厚い教本を長机の上にどさりと積み上げた。

 白フン一丁に長ラン風ローブという、厳粛な図書室にはおよそ相応しくない出で立ちのアルヴェインは、腕を組んで不敵に鼻で笑ってみせた。

「ふっ……案ずるなタキモト。こう見えて俺は、計算(算術)の領域においては、学園の教師どもを凌駕する神技を持つ男だ」

 そう言うと、アルヴェインは長ランの懐から、使い込まれた木製の長方形の物体を取り出した。極東の島国から伝来した、木枠に無数の珠(たま)が通された呪具――『算盤(そろばん)』である。

 珠に指を添えた瞬間、アルヴェインの涼やかな瞳が極限まで研ぎ澄まされた。

 紙相撲の土俵を叩き、ベーゴマの軸を安定させてきた、あの繊細かつ強靭な指先のスナップが、そろばんの盤上で爆発する。

 パチパチパチパチッ!! ご算用ッ!!

「な……なにぃ!? 六桁の掛け算と複雑な割り算を、一瞬で弾ききった……!?」

 アルヴェインの指先が残像を描き、正確無比に珠が弾かれていく。珠同士がぶつかる高音の連続が、まるで激しいタップダンスのように心地よい物理的なビートを刻む。あまりの神速の手さばきに、下町で帳簿を叩いてきたタキモトでさえ驚愕に目を見開いた。

「す、凄すぎる……! 先輩、算術の才能めちゃくちゃあるじゃないですか!」

「ふ……当然だ。そろばんってのは計算じゃねぇ。珠の移動という力学を、指先の繊細なタッピングで弾き出す『物理演算』だ。これは盤上の勝負。丹田の集中力と大地の重みがブレなければ、答えは自然と導き出される」

「なるほど……そういう理屈ですか。じゃあ、この文章問題を見てください! 『大樹のリンゴが5個ありました。ゴブリンに3個奪われると――』」

「……待て」

 アルヴェインの指が、ピタリと止まった。

「……読めん。黒い虫が這い回っているような複雑な文字(漢字)が多すぎて、目が滑る」

「文字が読めなきゃ、いくら計算が速くても文章問題が解けないでしょ!? だいたい、試験会場にそろばんは『物理演算用魔導具』に指定されてるから、持ち込み禁止なんですよ!!」

「なにぁぁぁーーっ!? そろばん持ち込み禁止なのか!?」

 衝撃の事実(※テストとしては当たり前である)に、アルヴェインの巨躯に激震が走った。

「暗算でやれってことか!? この俺から盤上と珠を奪い取る気か、学園の奴らは!」

「いいですか、算術以前の問題です。文章が読めないんじゃ全科目赤点確定です。まずは国語……『漢字』の基礎から叩き直します!」

 タキモトが呆れ顔でカバンから取り出したのは、初等部用の『基礎・漢字ドリル』であった。

「……な、なんだこの紙片は……。幾何学的な模様(文字)が、升目の中にギッシリと閉じ込められてやがる……」

「ただの漢字ドリルです! ほら、鉛筆を持って! まずは基本中の基本、この『犬』とか『木』っていう漢字から、升目に沿って丁寧に書いてください!」

 白フン姿で正座し、冷や汗をダラダラと流しながら、華奢なシャープペンシルを両手で力強く握りしめる180cmの美形ハイエルフ。

 アルヴェインは震える手で『木』という漢字をじっと見つめた。

(木……。木とは、千年の大樹……精霊の……囁き……。風が……温かい風が……吹いて……いる……)

 彼の脳内で、深刻なエラーが発生していた。

 エルフとは本来、自然の事象を風の音や、葉擦れの音、精霊の囁きといった『音声(波動)』として捉え、記憶する種族である。対して「漢字」という表意文字は、大自然の自由な形を四角い枠(升目)の中に強制的に閉じ込め、概念を固定化する人間の文化だ。

 エルフの魂にとって、それは「自然を束縛する呪縛の檻」に他ならない。漢字のゲシュタルト崩壊、そして枠に囚われた文字の群れから放たれる、恐ろしいまでの精神的負荷(※ただの勉強嫌いによる強烈な眠気)が、アルヴェインの脳細胞を容赦なく破壊していく。

「くっ……な、なんだこのドリルは……! ページを開いた瞬間、空間のマナが停滞し、頭が鉛のように重くなってきやがる……!」

「しっかりしてください! まだ一文字も書いてませんよ! トメとハネを意識して!」

「バカな……! 丹田に力を込めようにも……文字が枠から抜け出そうと暴れてやがる……目蓋が……重い……ッ!」

 カク……カク……と、巨大な身体を揺らし、舟を漕ぎ始めるアルヴェイン。

 エルフ特有の澄んだ美しい瞳がどんどん濁り、虚無を見つめ、ゆっくりと白目を剥きかけていく。

「駄目だ……勝てねぇ……! この漢字ドリル……強力な古の睡眠魔法(スリープ)が掛けられていやがる……ッ!!」

「魔法じゃないです! 己の不勉強による単なる知恵熱です!」

 必死に一晒し(ふんどし)の結び目を締め直し、大地のマナを引き上げて気合を入れ直そうとするアルヴェインだったが、文字という概念に対する魂の拒絶反応と、脳の強制シャットダウンには抗えなかった。

 バタンッ!!

 180cmの巨躯が糸の切れた操り人形のように傾き、漢字ドリルの真っ白なページの上へと、顔面から激しく突っ込んだ。

「……すー……すー……(完全な爆睡)」

「そ、そこまでぇぇぇっ! 雑賀アルヴェイン、漢字ドリルに手も足も出ず――無念のリタイヤーッ!!」

 タキモトの虚しい絶叫が、地下図書室の静寂の中に虚しく響き渡る。

 その傍らでは、タキモトの連れている雷獣チワワの『チワ丸』が、「キャンキャン!(なさけない!)」と静電気を散らしながら甲高く吠え立てていた。

 そして、そのチワ丸にぴったりとくっつかれ、体内の過剰な電力を放電(アーシング)させてやっている霊獣アース・パグのトシロウが、「グヒ……」と呆れ果てたように深く刻まれた顔のシワを寄せ、爆睡する主人の銀髪の後頭部に、そっと慰めるように短い前足を乗せるのだった。

​ 体育『5』、盤上遊戯『規格外』、しかし学科『1』の留年・エルフンドシ番長。

 彼が直面した最大の強敵「座学」。補習テスト合格と進級への道のりは、鉄機山脈の頂きよりも遥かに高く、そして険しい――。

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