第2話「静寂のけん玉と、極限の無心」
第2話「静寂のけん玉と、極限の無心」
先日の「卓球決闘」において、ドワーフの暴れん坊である特攻のシマダを真っ向から撃破した雑賀アルヴェインの名は、瞬く間に私立聖樹学園の全土へと響き渡っていた。
「アルヴェイン頭(ヘッド)! 本日の紙相撲の土俵(段ボール)、鉄機山脈から特注で仕入れてきましたぜ!」
「うむ、ご苦労をかけるなシマダ」
相変わらず、極東の意匠を取り入れた長ラン風ローブの下は、真っ白な締め込み(ふんどし)一丁という狂気のスタイルである。アルヴェインは中庭のベンチに腰掛け、差し出された段ボールの反発力を指先で確かめていた。その足元では、霊獣アース・パグの血を引く愛犬トシロウが「グヒ……グヒ……」と無心に日向ぼっこを決め込んでいる。
元・敵対相手であったシマダが、己の剛腕を活かして献身的に肩揉みをしようとした、その時だった。
「そこまでです、雑賀アルヴェイン先輩!!」
透き通るような、しかし絶対的な冷気を孕んだ鋭い声が、中庭の弛緩した空気を切り裂いた。
現れたのは、風紀委員の腕章をピシッと巻き、首から無数の木製玩具……否、古代エルフの儀式具『日月霊玉(にちげつれいぎょく)』――俗に言う「競技用けん玉」――をジャラジャラとぶら下げた2年生のエルフ、「けん玉のサキ」であった。
「その猥雑な白フン姿で神聖な学園をのし歩き、挙句の果てにドワーフと野蛮な暴力の噂を振りまく異端のふるまい……風紀委員として、もはや見過ごすわけにはいきません!」
「……待てよサキ。俺は暴力を振るっちゃいねぇ。男の仁義と、スポーツという盤上で対話をしただけだ」
「弁解は無用! あなたのその乱れた魂を、この僕の『集中力』で真っ向から矯正して差し上げます!」
サキが懐から取り出したのは、千年樹の心材から削り出され、漆黒の木肌に金箔のルーンが施された最高級の精霊木けん玉であった。
そもそも「けん玉」とは、エルフの社会において単なる遊戯ではない。球体を太陽と月に見立て、己の肉体と精神の軸を大自然の運行と完全に同期させるための、極めて高度な修練具である。サキはエルフ族の中でも群を抜く集中力を誇り、その研ぎ澄まされた精神力は、一瞬のブレも許さないミクロの世界を支配していた。
「勝負の種目はもちろん――『けん玉決闘』です!」
決闘の舞台としてサキが指定したのは、学園の最深部に位置する『静寂の回廊』だった。
ここは床から天井までが大樹の根で覆われた特殊な音響共鳴腔であり、わずかなマナの乱れや他者の邪念が、物理的な圧力(ノイズ)となって反響する過酷な空間である。
互いに距離を取り、二人のエルフが対峙する。噂を聞きつけたギャラリーたちが回廊の入り口を埋め尽くし、固唾を呑んで見守っていた。
「いくぞ雑賀先輩……! 我が極限の集中、その目に焼き付けなさい!」
サキの瞳から、スッと感情の光が消えた。完全なトランス状態への移行。
次の瞬間――。
カチカチカチカチッ!!
木と木がぶつかる音すら知覚の限界を超えた、超高速の打撃音。
サキの手元で漆黒の玉が残像を描き、重力という概念を無視したかのように、大皿、小皿、中皿、そして剣先へと吸い込まれるように移動していく。
秘技『疾風・百花繚乱(はやて・ひゃっかりょうらん)』。
周囲のノイズを完全に遮断し、己の指先と玉の軌道のみを世界に残す、サキの絶対領域であった。
(くっ……なんという集中力だ……! 回廊の反響音すら、奴の技の冴えを際立たせている……!)
アルヴェインの額を、冷たい汗が伝い落ちる。
実はアルヴェインには、一つ致命的な弱点があった。運動神経や動体視力は常人離れしているものの、「大勢の他者に見られると妙に緊張して手元が狂いやすい」という、極度のあがり症だったのだ。
現在、回廊にはギャラリーのエルフたちの視線という名の『マナの乱れ』が充満し、目に見えないノイズとなってアルヴェインの鼓膜と皮膚を叩きつけていた。心の中の紙相撲盤面が、ガタガタと音を立てて揺れている。手首が強張り、指先が震える。
(落ち着け……俺が日々磨いているのは、ただの筋肉じゃねぇ。漢の『佇まい』だ……!)
震える手でけん玉を構えたアルヴェインは、不意に足元へ視線を落とした。
「グヒ……スー……グヒ……スー……」
そこには、周囲の喧騒など一切意に介さず、大地の律動と同じペースで腹式呼吸を繰り返すトシロウの姿があった。
アルヴェインは、真っ白な一晒し(ふんどし)を、ぐっと丹田の位置で締め直した。
過剰な衣服はマナの流れを阻害する。だが、この布面積の少ない一晒しは、彼自身の肉体を一本の巨大なアンテナへと変える。彼はトシロウの呼吸音に意識を同期させ、足の裏から大樹の根を通じて、深く、深く、大地の静寂へと精神を潜らせていった。
ギャラリーの視線も、サキの放つプレッシャーも、もはや彼の中には存在しなかった。
見栄えや他人の目は関係ない。ただ、目の前の一点に己の魂を集中させる。それは彼が毎日、トシロウの前で行っている「紙相撲の盤面を繊細に叩く、極限の指先コントロール」そのものであった。
「……ふっ」
カツン。
アルヴェインが放った、静かで、しかし澱みの一切ない一振り。
手にした学園の備品の安っぽいけん玉。その傷だらけの皿に、玉がまるで最初からそこにあったかのように、音もなく吸い付いて静止した。
そこにあるのは、過剰な気負いも、勝利への執着すらも削ぎ落とした、絶対的な「無心」の境地。
「な……なに……!?」
サキの目が驚愕に見開かれた。
「これだけのノイズが渦巻く回廊で、あの完璧な脱力……!? あり得ない、そんなことが……ッ!」
サキの極限の集中力に、わずかな、しかし致命的な「動揺の波」が走った。
アルヴェインの白い締め込み姿。一見すると猥雑でふざけた外見の奥底にある、過剰なまでに純粋な精神性。大自然と完全に一体化したその佇まいに、サキはエルフが到達すべき「けん玉の真髄」を見てしまったのだ。
「さあサキ……男(エルフ)の集中的な生き様、最後まで見せてみろよ」
「くっ……! 負けるかぁぁぁーーっ!!」
圧倒的な精神の格付けを見せつけられたプレッシャーの中、サキは自身の最高難度の技「飛行機」の体勢へと入った。
しかし、心が乱れた状態では、大自然の運行を模倣することなど不可能である。ほんのコンマ数ミリ、手首の角度がブレた。
カロッ……コロコロ……コロン。
玉は無情にも剣先を外し、回廊の硬い床を転がっていった。
「……そこまで! サキのミス! 勝者、雑賀アルヴェイン!」
審判の声が響く中、サキはその場にへたり込んだ。
「ぼ、僕のけん玉が……この僕の集中力が、敗れた……!?」
呆然と呟くサキの元へ、アルヴェインは下駄を鳴らして静かに歩み寄ると、転がったサキの漆黒のけん玉を拾い上げ、丁寧に差し出した。
「いい音を響かせてたぜ、サキ。お前のけん玉には、迷いのない『芯』が通っていた。……だがな、風紀ってのは服の布面積や、外見の取り繕いで決まるもんじゃねぇ。自分の心に恥じない生き様をしてるか、大自然の前に己を晒け出せるか……それだけの話だぜ」
「あ……アルヴェイン先輩……」
サキは差し出された大きな手を取り、その熱さに頬を赤らめながら俯いた。
「負けました……。僕の目は、規則という枠に囚われて曇っていました。先輩のその白フン姿……今なら痛いほどわかります。あれは煩悩を捨て去り、精霊と一体化するための『究極の聖装』だったんですね……!」
「グヒッ!」
足元でトシロウが「その通りだ」と言わんばかりに、得意げに鼻を鳴らした。
こうして、学園の規律を重んじる風紀委員すらもが、アルヴェインの型破りな漢気とその白き精神性に心酔し、新たな同志(舎弟)として加わることとなったのである。
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