第8話 その「大丈夫」は信用しません

 平日の朝、ダニエルが目を覚ました時には、枕元の時計がいつもの起床時間を四十分ほど過ぎていた。


 寝過ごした。


 そう思って身体を起こしたところで、額の奥に鈍い重さが残っていることに気づく。喉も少し痛い。昨夜から妙に身体が重かったが、仕事が続いていたせいだと思って、そのまま寝てしまった。


 ベッドを出ると、床に足をつけた瞬間に軽くふらついた。


「……寝不足だな」


 誰に言うでもなく呟いて寝室を出ると、リビングではすでにルークが朝食の準備を終えていた。黒いメイド服の上に白いエプロンを着け、テーブルへコーヒーとトーストを並べている。


「おはようございます、ご主人様。通常より四十二分遅い起床です」


「見れば分かる」


 返した声が、自分で思っていたより掠れていた。ルークが振り返る。


「体調に異常がありますか?」


「ない。ただの寝不足だ」


「声が通常と異なります。歩行時にもふらつきがありました」


 ダニエルは足を止めた。


「見てたのかよ」


「廊下を歩いてこられましたので」


「監視してたみたいに言うな」


「見ていただけです」


 ルークはそう答えながら、いつものようにコーヒーカップをダニエルの席へ置いた。ダニエルは椅子へ座ったが、コーヒーの匂いを嗅いでも飲みたいと思わず、トーストにも手が伸びない。


 その様子を、ルークが正面から見ていた。


「何だよ。さっきから」


「朝食に手をつけていません。コーヒーもそのままです」


「朝からそんなに食わない時もあるだろ」


 ダニエルはカップへ目を落とした。


「あとで飲むよ」


「体温を測ってください」


「大丈夫だ。ちょっと寝不足なだけだ」


 ルークの目がわずかに細くなった。


「奈緒様のお話どおりですね」


「何の話だ」


「困っていても『大丈夫』とおっしゃいます。体調についても同様と判断しました」


 ダニエルは顔をしかめた。


「あいつ、お前に何教えてんだよ」


「事実関係の確認です。体温を測ってください」


「分かったよ。測ればいいんだろ」


 言い返しても話が戻るだけだと分かり、ダニエルは棚から体温計を取った。数十秒後に表示されたのは、三十八・一度だった。


 しばらく数字を見つめる。


「……思ったよりあるな」


「大丈夫ではありません」


「その顔やめろ」


「どの顔でしょうか」


「……何でもない」


 ダニエルは体温計をテーブルへ置き、立ち上がった。


「シャワー浴びてくる」


「その後、出勤されるおつもりですか?」


「午前だけ顔出して、必要なこと片づけたら帰る」


「休んでください」


「人の話を聞けよ」


「聞いた上で同じ回答をしています」


「頑固だな、お前」


「ご主人様ほどではありません」


「うるせえよ」


 ダニエルはそのまま浴室へ向かった。


     ◇


 二十分後。シャワーを浴びて少し目が覚めた気はしたが、身体の重さは消えていなかった。


 それでもシャツを着て、ズボンを穿き、腕時計をつける。ネクタイまでは必要ない。いつもの出勤用バッグを取ろうとして、玄関脇へ手を伸ばした。


 ない。


「……ルーク」


「はい」


 キッチンから返事が来る。


「俺の鞄、どこにやった」


「保管しています。本日は不要ですので」


 ダニエルはゆっくりキッチンへ振り返った。


「勝手に決めんな。午前だけだって言っただろ」


「発熱した状態での出勤は推奨できません。午前で帰宅される保証もありません」


「帰るって言ってるだろ」


「その『帰る』も信用できません。奈緒様からの情報に基づく判断です」


 ダニエルは額を押さえた。熱のせいか、言い返す言葉がすぐに出てこない。


「……朝から信用ねえな。奈緒から俺の話、どこまで聞いたんだ」


 ルークは答えず、ダニエルのスマートフォンを指した。


「勤務先へ連絡してください」


「そこまで管理すんな」


「発熱したまま出勤するより合理的です」


 ダニエルはしばらくルークを睨んだが、立っているだけで身体が重い。


「……分かったよ」


 渋々スマートフォンを取り出し、上司へ休む旨を送る。ほどなく了解の返信が来た。


「ほら。休んだぞ」


「確認しました」


 ルークは小さく頷いた。ひとつ仕事を片づけた時のような、妙にきっちりした仕草だった。


「何でお前が達成感出してんだよ」


「では、着替えて休んでください」


「家でメールくらいは確認させろ」


 ルークが無言で、リビングの端に置かれたノートPCへ目を向ける。


「見るな」


「何もしておりません」


「その顔は何かする顔だろ」


「表情から行動予定は判断できないはずです」


「屁理屈を覚えやがって」


 ダニエルはノートPCを先に確保した。


「メール返すだけだ。十分で終わる」


「休養を優先してください」


「じゃあ二十分……いや、十五分。それならいいだろ」


「増えています。先ほどご自身で十分とおっしゃいましたので、十分までです」


「……そういうのだけ覚えてんじゃねえよ」


「記録していますので」


 ルークはそれ以上何も言わず、こちらを見ている。融通が利かないのは昔からだった。


 ダニエルは返事をせず、ノートPCを抱えて寝室へ戻った。


     ◇


 五分経って、ルークは寝室を覗いた。その時、ダニエルは「あと一通」と言って作業を続けた。さらに五分後、ベッドの上でノートPCを開き、最後の返信を打っているところへ、ルークが今度は部屋の中まで入ってきた。


「十分経過しました」


「あと一通」


「五分前に確認した時も、同じことをおっしゃいました」


「今のは本当だ」


「前回も本当だと認識されていた可能性があります」


「面倒くせえな、お前」


 ダニエルはメールを送信し、ノートPCを閉じた。


「ほら、終わったぞ」


 ルークは閉じたノートPCをそのまま持ち上げた。


「おい!」


「リビングへ戻します」


「持ってくなよ」


「使用しないのであれば問題ありません」


「そうだけどよ……」


 そのまま持っていかれ、ダニエルは枕へ頭を落とした。数分もしないうちに、またドアが開く。


「ご主人様」


「今度は何だ」


 ルークが水の入ったグラスを差し出した。


「水分を取ってください。朝食時には、ほとんど飲まれていません」


「……そこまで見てんのか。もう監視だろ、それ」


「生活支援です」


「言い方変えただけじゃねえか」


 それでも喉は渇いていたので、ダニエルはグラスを受け取り、一気に半分ほど飲んだ。冷たい水が喉を通って、思っていたより身体が水分を欲しがっていたことに気づく。


「飲んだぞ。これでいいだろ」


「ありがとうございます。協力していただけると、看病の効率が上がります」


「俺の風邪なのに、何でお前が礼を言うんだよ。患者を作業対象みたいに扱うな」


「作業対象にはしておりません。発熱中のご主人様の生活支援です」


「……介護みたいで余計嫌だ」


 ルークは半分ほど水の残ったグラスを受け取り、代わりに体温計を差し出した。


「もう一度測ります。前回の測定から四十分経過しました」


「四十分で治るわけねえだろ」


「変化を確認します。変わっていなければ、三十分後に再確認します」


「やめろ。寝かせてくれ」


「では、三十分後に」


「そういう意味じゃねえよ……」


 言い返す気力も続かず、結局測らされた。三十八・〇度。


「ほぼ同じだろ」


「〇・一度低下しています。経過は記録します」


 誤差だと言い返す気にもなれなかった。


「……もう、好きにしろ」


 そう言って横になると、さすがに今度は眠気が勝った。


     ◇


 目が覚めた時、部屋の明るさが少し変わっていた。時計を見ると、昼を回っている。身体を起こしてみると朝より頭は軽いが、まだ節々に重さが残っていた。


 ベッド脇には新しい水が置かれていた。ダニエルはそれを一息で飲み干した。


「ルーク」


 呼ぶと、すぐに寝室の外から返事があった。


「はい」


 ほとんど間を置かず、ドアが開く。


「起きられましたか」


「今起きた」


「体調はいかがですか」


「朝よりはマシだ」


「体温を測ります」


「またかよ」


「三時間以上経過しています」


「今度は……まあいい」


 測ってみると、三十七・八度だった。


「下がってるな」


「まだ平熱ではありません」


「そんなの分かってる」


 ダニエルは立ち上がった。


「水取ってくる」


「必要なものは私が持ってきます。今日は休んでいてください」


「すぐそこだろ。キッチンまで歩くだけだ」


「私が行きます」


「分かってる。無茶はしない」


 ルークの動きが止まった。ほんの短い間だった。


「前回も、そうおっしゃって戻ってこられました」


 ダニエルも動きを止めた。


 五年前の光景が頭の奥へ戻ってきた。煙を吐いて道路脇に傾いた履帯車両。後方から怒鳴る声。途切れかけたヘッドセットの向こうの声。


『戻るな!』


「分かってる」


 そこで通信は切れた。


 ダニエルはルークを見る。


「……覚えてたのか」


「はい」


 それだけだった。声の調子も、表情も変わらない。


 ダニエルはしばらく黙っていた。あの後、ルークは何も見ていない。通信も途絶えていた。それでも、今ここに人格コアがある以上、自分があの車体まで戻ったことはルークにも分かる。


 息を吐いてから、ダニエルは言った。


「あれと風邪を一緒にするなよ」


「指示を理解したと返答し、その直後に守らなかった点は同じです」


「うるせえよ」


「事実です」


「そういうとこだぞ、お前」


 ダニエルはベッドへ座り直した。


「……じゃあ、水頼む」


「持ってきます」


 ルークが寝室を出ていく。その背中を見送ってから、ダニエルはもう一度枕へ身体を預け、今度は素直に目を閉じた。


     ◇


 次に起きた時には、窓の外が午後の光に変わっていた。しばらく天井を見たあと身体を起こすと、喉の痛みは残っているものの、朝のような重さはかなり抜けている。


 寝室の扉は少しだけ開いていた。その向こう、廊下の壁際にルークが立っているのが見える。


「お前、ずっとそこにいたのか?」


 ルークがこちらを向いた。


「必要時に対応できる位置にいました」


「それをずっといたって言うんだよ」


「途中でリビングとキッチンへ移動しています」


「そういう話じゃねえから」


 ダニエルが立ち上がると、ルークも寝室へ入ってきた。


「ご気分はいかがですか」


「だいぶ良くなった。どうせ次は体温だろ」


「はい」


 測ってみると三十七・四度だった。ルークが表示を確認する。


「低下しています」


「だろ?」


「まだ休養が必要です」


「分かってるよ。今日はもう仕事しねえ」


「信用します」


「そこは信用するんだな」


「今回は行動と一致していますので」


「細けえな」


 その時、腹が鳴った。ルークの視線がそちらへ落ちる。


「空腹ですか?」


「腹の音で分かるだろ。昼飯も食ってねえし」


「何か用意します」


「食えそうなやつ頼む」


「冷蔵庫の中は確認済みです。すぐ用意できます」


「仕事早いな」


 ルークはキッチンへ向かい、ダニエルもゆっくり後をついていった。


「休んでいてください」


「ずっと寝てたら腰痛えんだよ。どうせ座ってるだけだ」


「無理はしないでください」


「分かったって」


 キッチンの椅子へ腰を下ろすと、ルークは鍋を出し、冷蔵庫から鶏肉と野菜を取り出した。動きに迷いはなく、包丁で材料を刻んでは鍋へ入れていく。


 しばらく眺めていたダニエルが言った。


「昔のお前じゃ、こういうの無理だったな」


「以前の車体では、キッチンへの進入自体が困難です」


「というか、お前は今でも味見できないだろ」


「レシピの数値を遵守しています」


「料理って数字どおりにいかねえ時もあるぞ」


「調理用センサーで温度と状態は確認できます」


「頑なに味見できないところから目をそらすな」


「必要な機能は備わっています」


「負けず嫌いかよ」


 返事はなかった。代わりに、ルークは鍋の火加減を調整した。


 少しして、鶏肉と野菜の入った薄いスープがテーブルへ置かれる。香りは悪くない。ダニエルはスプーンで一口飲んだ。


「どうですか」


「普通にうまい」


「そうですか」


「嬉しそうにしろよ」


「現在の回答で十分ではありませんか」


「まあいいけど」


 食欲は朝より戻っていた。一杯を時間をかけて食べ終えると、向かいに座っていたルークが空になった器を見る。


「食欲は改善しています」


「いちいち診断みたいに言うな」


「事実の確認です」


 ダニエルは器をルークの方へ押した。


「『事実』って、今日何回目だよ」


「数えておりません」


「珍しいな」


「記録はしています」


「同じことだろ」


 ダニエルは水を飲み、椅子の背へ身体を預けた。


 外ではいつもどおり車が走り、遠くで子供の声が聞こえる。キッチンでは、ルークが鍋を洗う水音が続いていた。ダニエルはその音を聞きながら目を閉じた。


     ◇


 夕方には熱が三十七度台前半まで下がった。ルークは体温計の表示を確認してから、ダニエルへ返す。


「改善しています」


「だから言っただろ。大丈夫だって」


「その『大丈夫』は信用しません。実績がありますので」


「……何の実績だよ」


 ルークは答えなかった。答えないこと自体が答えになっているのが、余計に癪に障る。


「急に黙るな」


「ご自身で理解されていると判断しました」


 ダニエルは舌打ちして、体温計を棚へ戻した。それでも、朝より明らかに身体は軽い。


「明日は仕事に行けそうだな」


「朝の体調を確認してから判断してください」


「そんなの分かってるよ」


「その返答も信用できません」


「どんだけ信用落としてんだよ、俺は」


「必要であれば一覧化します」


「絶対やめろ。……おい、本当に作るなよ」


「現時点では作成しておりません」


「現時点ではって何だ」


「将来については未定です」


 ダニエルはもう言い返さなかった。


     ◇


 夜、ダニエルはいつもより早くベッドへ入った。枕元には水と体温計が置かれている。


「ルーク」


「はい」


「もう体温測るなよ」


 ルークは枕元の体温計へ視線を落とした。


「次回は二時間後です」


「寝かせろ」

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