第7話 この家は私の言うことを聞きます
日曜の昼前、ダニエルとルークは奈緒の部屋の前にいた。
同じ建物で、階も近い。わざわざ待ち合わせをするほどの距離でもないので、奈緒から「お昼まだなら、うちで食べない?」とメッセージが来てから十分もかからなかった。
インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい。ほんとに早かったね」
「近いからな」
奈緒が笑って身体をずらすと、ルークが丁寧に頭を下げた。
「お邪魔いたします、奈緒様」
「どうぞ。靴そこに置いてくれればいいから」
ルークはダニエルの後ろから玄関へ入った。
間取りはダニエルの部屋とほとんど同じだった。玄関から廊下が伸び、その先にリビングとキッチンがある。ただし、同じなのは箱だけだった。
奈緒の部屋は明るい。家具の色や置き方もあるだろうが、ダニエルの部屋より生活の手が入っている。壁際には小さな棚があり、写真立てや観葉植物が並んでいた。キッチンの家電も、形を見る限りこちらの方が新しい。
「適当に座ってて。ちょっと暗いね」
奈緒がリビングへ入りながら言った。
「照明、つけて」
天井灯が点いた瞬間、ルークが足を止めた。だが、ダニエルはそれに気づかず、ルークの脇を通ってソファへ向かった。
「ダニエル、そっちじゃなくて椅子使って。これからクッション置くから」
「はいよ」
「気を抜きすぎ。返事が軽いよ」
奈緒が窓際へ行き、今度はカーテンに向かって声をかけた。モーターの小さな作動音がして、半分閉じていたカーテンがゆっくり開く。
そこでダニエルも気づいた。
ルークがまだ部屋の入口付近に立ったまま、カーテンを見ている。
「どうかしたのか?」
「……今の機器は、音声制御に対応しているのですか?」
「うん。カーテンは去年替えた時にね。照明はもっと前から」
奈緒は特に珍しいことでもないように答え、キッチンへ向かった。
ルークの視線が、今度は壁の空調へ移る。
「空調も対応していますか?」
「してるよ」
奈緒が答えると、ルークの視線はすぐテレビへ移った。
「テレビもですか?」
「一応。そんな使わないけど」
どうやら家電を一つずつ確認するつもりらしく、質問の間隔が妙に短い。ダニエルは椅子へ腰を下ろしながら、ようやく事情を察した。
「……お前、まさか」
ルークがこちらを向く。
「何でしょうか」
「いや。なんでもない」
なんでもないどころか、ダニエルには心当たりしかなかった。少し前、ルークは自宅の家電へ片端から接続を試み、何一つ返事をもらえなかったのだ。
奈緒は冷蔵庫から飲み物を出しながら、二人を見比べた。
「二人ともどうしたの?」
「こいつ、家電と話せる家に飢えてるんだ」
「話す、という表現は正確ではありません。制御信号に対する応答です」
「ほら、もう食いついてる」
奈緒が笑った。
「ダニエルの家って、そんなに古いの?」
「古いっていうより、安いのを必要な時に買ってるだけ。冷蔵庫は冷えればそれでいいし、洗濯機は回ればいい」
「その結果、連携機能を持つ機器が一台もありません」
「生活するには困ってないだろ」
「私は困りました」
「うちで困ってるのは、お前だけだよ」
奈緒が声を上げて笑い、グラスをテーブルへ置いた。
「私の家も最初から揃えたわけじゃないよ。壊れたら買い替えて、どうせなら連携できるやつにしようってやってたら増えただけ」
部屋は同じでも、置かれている家電だけでルークの反応はまるで違っていた。
ルークが奈緒を見る。
「奈緒様。家庭内機器への一時接続を許可していただけますか?」
「いいけど……何するの?」
「対応状況を確認します」
奈緒はスマートフォンを取り出した。
「壊したりしない?」
「通常の制御範囲を超える操作は行いません」
「その言い方、ちょっと怖いんだけど」
横からダニエルが口を挟んだ。
「まあ、壊しはしないだろ」
「なんで断言しないの?」
奈緒が画面を操作し、ゲスト機器としての接続を許可する。
数秒後、ルークの瞳がわずかに動いた。
「接続を確認しました」
それだけ言うと、天井灯が少し暗くなった。
続いて明るく戻る。
「照明制御、応答しました」
「うん。するよ」
ルークは構わず次へ進んだ。空調の表示が切り替わり、風量が一段落ちる。
「空調も応答しています」
「ちゃんとするって」
カーテンが二十センチほど閉じ、止まった。
また開く。
「カーテン制御も正常です」
「そこまで確認するの?」
「接続を確認するための必要事項です」
返事がいちいち早い。ダニエルは腕を組み、次の機器へ目を向けるルークを眺めた。
「なんだか楽しそうだな」
「動作確認を行っているだけです」
「本当に動作確認だけか?」
「応答速度の確認も重要です」
そう言った直後、テレビの電源が入った。音量はゼロで、画面だけが点く。
奈緒がとうとう笑い出した。
「ちょっと待って。ほんとに全部試す気?」
「許可範囲内の機器については」
「テレビは別にいいけど、空調の温度変える時だけ言ってね。暑いのに急に暖房とか嫌だから」
「承知しました。温度設定の変更前に確認します」
「そこは素直なんだ。ダニエルの家でもそうしてる?」
「私のご主人様は、設定温度を変更しても気づかないことがあります」
「うん。あるな」
「自分で認めるんだ」
奈緒が呆れたところで、ルークの視線がもう一度、室内を巡った。
同じ間取りの部屋に、照明があり、空調があり、カーテンがある。ただそれだけなのに、さっきから全部がルークの指示へきちんと返事をしている。
ルークはしばらく黙っていた。
「……奈緒様」
「なに?」
「この家は、私の言うことを聞きます」
奈緒が瞬きをした。
「え?」
ダニエルにはすぐ分かった。
「お前、それまだ根に持ってたのか。うちで誰も言うことを聞かないって落ち込んでただろ」
「落ち込んではおりません。事実を報告しただけです」
「その割に今日はやたら機嫌いいけどな」
奈緒が肩を震わせた。
「ダニエルの家、本当に全滅なんだ」
「家電に全滅とか言うな」
「一台も応答しませんでした」
「だから、お前も話に乗るな」
ルークは気にせず、まだ点いたままだったテレビを消した。命令どおり画面が暗くなる。
その動きを見た奈緒が、にやりと笑った。
「そんなに気に入ったなら、うちの子になる?」
「可能ですか?」
返事が早すぎた。
「おい」
ダニエルが口を挟んだ時には、奈緒も驚いた顔をしていた。
「え、本気?」
「この住居は、私の生活支援機能との互換性が非常に高いです。家事支援に使用できる設備も多く、運用効率は――」
「待って待って。そこまで真面目に考えなくていいから」
奈緒がルークを見た。
「条件がいい家に転職するんだ」
「転職させない」
奈緒が吹き出す。
「ダニエル、即答じゃん」
「当たり前だろ。人の家に来て十分で転職されてたまるか」
「待遇改善の余地はあります」
「家電買い替えろって話だろ。全部替えたらいくらになると思ってるんだ」
ルークが一瞬黙った。
「やめろ。見積もりを始めるな」
「まだ何も申し上げておりません」
「そんなの顔を見れば分かる」
「金額までは分からないはずです」
「そういう意味じゃねえよ」
奈緒は腹を押さえて笑っていたが、まだ続きそうな二人を見て、「はい、ここまで」と手を叩いた。
「ご飯にしよ。大したもの作れないけど」
「手伝います」
ルークがすぐにキッチンへ向かう。
「じゃあ、お皿出してもらっていい? 上の棚。白いやつ」
「承知しました」
ダニエルも立ち上がろうとしたが、奈緒に止められた。
「ダニエルは座ってて」
「俺だけ何もしないのもな」
「じゃあテーブル拭いて」
「扱いが雑じゃないか?」
「ダニエルに包丁を持たせるより、そっちの方が安心でしょ」
「ご主人様より包丁の取り扱いには慣れています」
「なんでお前まで俺を下げるんだよ」
そんなやり取りをしながら、三人で昼食の支度にかかった。奈緒が冷蔵庫から作り置きのスープを出し、ルークは食器を並べていく。ダニエルも言われたとおりテーブルを拭いたものの、すぐにやることがなくなり、結局また椅子へ座らされた。
ルークは奈緒の指示を聞きながら動いていた。勝手の違う台所でも戸惑う様子はない。皿の位置を一度教えれば次から迷わず、必要なものを先回りして手渡す。
「ルークちゃん、便利だなあ」
奈緒が鍋をかき混ぜながら呟いた。
「やらないぞ」
「まだ何も言ってないけど」
「さっき転職させようとしただろ」
横で食器を並べていたルークが、ダニエルへ顔を向けた。
「ご主人様」
「お前は黙ってろ」
「まだ何も申し上げておりません」
「お前ら、その返し気に入ったのか?」
奈緒が鍋の前で肩を震わせた。
昼食そのものは簡単なものだった。スープとサンドイッチ、それに奈緒が買っておいた小さなサラダ。ルークは食事をしないので、向かいの椅子に座り、二人が食べるのを見ながら食器や飲み物の残量を気にしていた。
食べ終えて皿を下げたところで、奈緒がふと思い出したように言った。
「そういえばダニエル、前の紙袋」
「紙袋?」
「この前、お菓子持ってった時の。返すって言ってなかった?」
ダニエルは数秒考えた。
「……あ、そうだった」
奈緒がじっと見る。
「忘れてたでしょ」
「すまん、部屋にある」
「別に今日じゃなくてもいいよ」
「近いから取ってくる。どうせ帰りにまた忘れるから」
奈緒は呆れたように笑った。
「そういうところなんだよね」
「どういうところだよ」
「いいから行ってきなよ」
奈緒に追い出されるように玄関へ向かったダニエルは、靴を履きながら一度振り返った。ルークはついてくる様子もなく、当然のようにキッチンで皿を洗い始めている。
「ルーク、ここで待ってろ」
「承知しました」
「別に連れてってもいいけど?」
「こいつ、ここから離れたくないと思ってる」
「否定はしません」
「ほら」
ダニエルは一人で部屋を出た。自室まではすぐなので、往復だけなら数分で済む。ところが自室へ戻ると、紙袋をどこへ置いたのか思い出せず、結局、キッチン脇の隙間に立ててあった袋を見つけるまで少しかかった。
◇
ダニエルが出ていったあと、奈緒は洗った皿を拭きながら、隣にいるルークを見た。
「ほんとに気に入ったんだね、うち」
「はい」
間を置かない返事に、奈緒は笑った。
「そこ、もう隠す気ないんだ」
「隠す必要がありますか?」
「ないけど。ダニエルの家、かわいそうになってきた」
「設備の更新を提案しましたが、費用がかかると却下されました」
「まあ、全部替えたら結構するしね」
ルークは洗ったグラスを水切りラックへ置いた。奈緒が置く場所を教えたのは最初の一つだけだった。
「昔からあんな感じなの? 物は壊れるまで使うとか、細かいところ適当とか」
ルークは手を止めずに答えた。
「使える物は、壊れるまで使う傾向があります。整備用の工具は、使うたびに置く場所が違いました」
「やっぱり」
「ただ、必要な時は私が場所を覚えていましたので、問題はありませんでした」
奈緒の手が止まった。
「それ、片付いてたんじゃなくて、ルークちゃんが全部覚えてただけじゃない?」
「はい」
「今も似たようなことをしてるよ。鍵とかスマホとか、置いた場所を忘れて探してる」
「改善されていませんね」
「全然」
二人で同時にキッチンの入口を見る。
当然、本人はいない。
奈緒は笑いながら布巾を畳んだ。
「なんか変な感じ」
畳んだ布巾を置いて、奈緒はルークを見た。
「ルークちゃんは、昔のダニエルを知ってるんだなって」
ルークも奈緒へ顔を向ける。
「はい」
「私は、ダニエルがここに越してきてからしか知らないから。最初の頃は、今よりもうちょっとよそよそしかったけど」
「よそよそしい、ですか?」
「挨拶はちゃんとするし、頼めば何でも手伝ってくれるんだけど、自分から人に頼ることはほとんどなかったかな。荷物持つよって言っても『大丈夫』、困ってないか聞いても『大丈夫』。なんでもそれ」
「今もよくおっしゃいます」
「今は言いながら普通に手伝わせるでしょ」
ルークは少し考えてから頷いた。
「はい。発言と行動が一致していません」
奈緒は最後の皿を棚へ戻しながら笑った。
「こっちが遠慮しなくなっただけかもしれないけどね」
ルークはしばらく何も言わなかった。奈緒も急かさず、黙って隣に立っていた。
「奈緒様」
「ん?」
「ご主人様は、ここへ越してきた頃も、休日は今と同じように過ごしていたのですか?」
「同じって?」
「自宅で過ごすことが多いのでしょうか」
「ああ。最初の頃は今より仕事してたかな。休みの日なのに会社のメール見てたり。最近は前よりちゃんと休んでると思う」
「そうですか」
「一緒に住んでるのに、知らないこともあるんだね」
「私の記憶にない期間があります」
それだけだった。ルークは説明を足さず、奈緒もそこへ踏み込まなかった。
奈緒はキッチン台へ腰を預けた。
「じゃあ、お互いに知らない時期があるんだね」
「そのようです」
奈緒はそこで少し笑った。
「なんか安心した。私だけ知らないわけじゃないんだなって」
ルークはすぐには答えなかった。
「私にも、現在のご主人様について知らないことがあります」
「じゃあ、情報交換する?」
ルークの目がわずかに細くなる。
「内容によります」
「急に警戒するじゃん」
「ご主人様の個人情報ですので」
「そこはちゃんとしてるんだ。じゃあ、しょうもないやつだけね」
「それであれば検討します」
「検討なんだ」
奈緒が笑ったところで、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま。あったぞ」
紙袋を持ったダニエルがリビングへ戻ってきた。二人が並んでいるのを見て、眉を上げる。
「何の話をしてた?」
「ちょっと、ルークちゃんと内緒話」
「ご主人様についてです」
奈緒が横のルークを見る。
「それ、言っちゃうんだ」
「機密ではありません」
ダニエルが紙袋を差し出しかけた手を止めた。
「その言い方が一番怖いんだよ」
奈緒はその手から紙袋を受け取り、笑った。
「工具を毎回違うところに置いてたって話」
「そんな話かよ」
「現在も改善されていないことを確認しました」
「勝手に確認するな」
奈緒が付け足す。
「あと、休みの日に仕事するの減ったよねって話」
「俺がいない間に結構しゃべってるな」
「五分くらいだよ」
「五分もあれば十分だろ」
ダニエルは警戒するように二人を見たが、奈緒は気にせず紙袋を畳み直した。
「そのうち昔の恥ずかしい話も聞こうかな」
「却下」
「内容によっては、ご主人様の許可が必要です」
「そこはちゃんと俺側なんだな」
「内容によります」
「お前、そればっかだな」
奈緒が吹き出した。
食後も三人はそのままリビングに残った。奈緒が飲み物を用意し、ダニエルは椅子に腰を落ち着ける。ルークも最初のように一つずつ機器を動かすことはなくなったが、許可された範囲で設定を確認し、照明や空調から状態通知が返るたびにそちらへ目を向けていた。
ダニエルはそれを見ながら、とうとう諦めて言った。
「そんなにいいなら、今度うちも一個くらい対応してるの買うか」
ルークがすぐに振り返った。
「本当ですか?」
反応の速さに、ダニエルはわずかに身を引いた。
「一個だぞ」
「優先順位を選定します」
「だから見積もり始めるな」
「まだ何も――」
「そのやり取り、今日何回目だよ」
奈緒が笑いながら口を挟む。
「照明くらいにしとけば? そんな高くないし」
「奈緒までそっちに乗るなよ」
「でも、一個でも返事してくれたら寂しくないでしょ」
「私は寂しいとは申し上げておりません」
「本当かな」
奈緒の返しに、ルークは反論しなかった。
夕方になる前に、二人は帰ることにした。
玄関で靴を履いていると、奈緒がドアに手をかけたまま言う。
「二人とも、また来ていいからね。今度はもうちょっとちゃんとしたもの作るから」
「今日ので十分だっただろ」
「そういう意味じゃないの」
ルークが靴を履き終え、立ち上がった。
「奈緒様」
「なに?」
「次回も、家庭内機器へ接続してよろしいでしょうか」
「もちろん!」
「やっぱり目的そっちじゃねえか」
ダニエルが呆れると、ルークは奈緒へ顔を向けた。
「奈緒様も含まれています」
奈緒が一瞬だけ黙った。
それから、ふっと笑う。
「それならよし。またおいで」
「はい」
またしても間を置かず答えたルークを見て、ダニエルは二人を見比べた。
「いつの間にそんな仲良くなったんだよ」
「ダニエルが紙袋探してる間」
「五分で?」
「五分あれば十分です」
「俺の台詞を返すな」
奈緒の笑い声を背中に聞きながら、二人は廊下へ出た。
◇
自分の部屋へ戻ると、玄関から先の間取りは、さっきまでいた奈緒の部屋とほとんど同じだった。けれど、こちらの照明は声をかけても点かない。ダニエルが壁のスイッチを押すと、ぱちりと明かりがついた。
ルークは一度だけ天井を見上げ、それから何も言わずに靴を脱いだ。
「今日は満足したか?」
「非常に有意義でした」
「家電触っただけだろ」
「奈緒様宅の生活支援環境は優秀です」
ダニエルはまだ奈緒の家を引きずっているルークに苦笑した。
「帰ってきてまで奈緒の家の話かよ」
そのままキッチンへ向かうと、背後からルークがついてくる。
「ご主人様」
「なんだ」
「奈緒様宅への配置変更についてですが」
ダニエルは振り返った。
「お前の配属先はここだ」
ルークが少しして答えた。
「……了解しました」
それから何事もなかったように、いつもの位置へ立った。
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