第5話 これは整備です
姿勢制御のずれがまだ続いていると気づいたのは、休日の朝、ルークが朝食の皿を片づけようとした時だった。
ダニエルはダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら、仕事用の端末に届いていたメールを流し読みしていた。視界の端で、ルークが二枚の皿を重ねてキッチンへ向かう。途中、床に落ちていた布巾を拾おうと身体を屈めたところで一度動きが止まり、わずかに後ろへ重心を戻した。
ほんの短い動きだったが、ダニエルは端末から顔を上げた。
「今の、もう一回やってみろ」
ルークは布巾を手にしたまま振り返った。
「何をでしょうか、ご主人様」
「屈んだ時、一回補正が入っただろ。もう一度、同じ動きをしてみろ」
「了解しました」
ルークは布巾を床へ戻し、さっきと同じように身体を屈める。今度は意識して見ていたので分かった。上半身が一定の角度を越えたところで、背中側のサーボが一瞬だけ余計に働いている。
立ち上がる動作そのものに問題はなく、転倒するほどでもない。それでも、さっきの補正は見間違いではなかった。
「歩いてみろ」
「歩行には異常を認識していませんが」
「分かってる。確認したいだけだ」
ルークはリビングを端まで歩き、向きを変えて戻ってくる。普通に歩いている分には何も起きない。
「右腕を上げて。そのまま身体を左へ向け」
ルークが指示どおり動く。肩を上げ、腰から身体を捻ったところで、また一瞬だけ姿勢補正が入った。
「やっぱりずれてるな」
「私も先ほどから姿勢制御値に軽微な誤差を検出しています。通常動作には支障ありません」
「支障が出てから直すのは整備じゃないんだよ」
ダニエルはコーヒーを置いて立ち上がった。先日の掃除でも、ルークが深く屈むたびに姿勢制御が細かく働いていた。今の身体はもともと家庭用メイド型で、六、七キロもある軍用の人格コアを積むようには設計されていない。固定具も変換器も、あとからダニエルが組み込んだものだ。身体側が重量に合わせて補正を学習したことで日常動作にはほとんど支障がないが、負荷そのものがなくなったわけではなかった。
「一回開けるぞ。固定具も見たい」
「了解しました。必要な姿勢を指定してください」
ルークはすぐに従った。その返事まで昔と変わらない。M421だった頃も、不具合を見つければこうして工具を出し、ルークに動作確認をさせていた。違うのは、今のルークには履帯も大型マニピュレーターもなく、黒いメイド服を着た人型の身体があることだった。
ダニエルが工具箱をリビングへ持ってくると、ルークは椅子の横に立ったまま待っていた。
「胸部側から開ける。服が邪魔だな」
「では脱ぎます」
ルークが迷いなく胸元の留め具へ手をかけたので、ダニエルは反射的に止めた。
「待て。全部脱ぐ必要はない。必要なところだけ開ければいい」
「整備の妨げになる部分を除けばよいのですね」
「そういうこと」
「最初からそうおっしゃってください」
「お前が全部脱ごうとすると思わなかったんだよ」
ルークは数秒考えたようだったが、結局ダニエルの指示に従った。
黒いワンピースの前の留め具を外し、白いエプロンごと胸元から腹部まで大きく開く。人工皮膚に覆われた細身の胴体が露出したが、ルーク本人は何も気にしていない。ダニエルもサービスパネルの位置を確認すると、すぐに工具へ手を伸ばした。
胸骨に相当する位置から上腹部にかけて、外見からは分からない細い継ぎ目がある。専用工具を差し込んでロックを解除すると、人工皮膚と外装を兼ねた薄いパネルが開いた。
内部には補助フレームや配線束、姿勢制御用のセンサー群が整然と収められている。その奥には、家庭用の細いフレームに似つかわしくない頑丈な固定具が伸びていた。背部寄りに収めた人格コアを前側から支えるため、ダニエルがこの身体へ追加したものだ。
「やっぱり少し緩んでるな」
「許容範囲外ですか?」
「今すぐどうこうってほどじゃない。でも、このまま使えば緩みが広がる」
レンチを差し込み、固定部を確認する。人格コアの重量が一方向へ偏らないよう複数箇所で支えているが、右上側の固定具にわずかな遊びが出ていた。
「右を向け。顔だけじゃなくて身体ごと。もう少し……そこで止まれ」
ルークが指示どおり身体を捻る。
「この程度ですか、ご主人様」
「ああ、そのまま」
ダニエルはセンサー値を端末で確認しながら、固定具を締め直した。
今の身体になってからまだ日が浅い。それでも、工具を握ってしまえば手は迷わなかった。どこを支え、どこを確認し、どの動作で症状が出るのかを見る。目の前にいるルークの形は変わっても、やることは昔と変わらない。
「一回、正面に戻れ」
ルークが正面を向く。
「もう一回だ。右腕を上げて、そのまま腰から左へ捻ってみろ」
「了解しました」
動きはさっきより滑らかだった。
「どうだ?」
「姿勢補正の介入量が減少しました。ただし、基準値との差が残っています」
「センサー側も見るか」
ダニエルが顔を近づけ、胸部内側の小さなセンサーユニットへライトを当てる間、ルークは姿勢を崩さずじっと立っていた。
「以前とは、ずいぶん整備方法が変わりましたね」
「そりゃ身体が違うからな」
「以前は胸部を開ける必要はありませんでした」
「胸部そのものがなかっただろ」
「正確には前部装甲区画がありました」
「そういう訂正はいらない」
ダニエルは小型ドライバーへ持ち替えた。
しばらく調整を続けているうちに、また手が止まった。
「……合わないな」
「何がでしょうか」
「右側の値だけ微妙に戻る。固定じゃなくて基準値かもしれない」
端末に表示されたログを何度か見直す。数値のずれは大きくない。だが、調整しても一定動作の後に戻る。
ダニエルは工具を手にしたまま、片手で額を押さえた。
「面倒だな、これ」
ルークの青い瞳がダニエルへ向く。
「疲れていますか、ご主人様」
「ちょっと考えてるだけだ。大げさに取るな」
「大丈夫ですか、ご主人様。おっぱい揉みますか」
ルークはダニエルの顔を見たまま真顔で言った。
ダニエルの手から工具が指から滑り落ち、小さな音を立てて床を転がった。
「……どこで覚えた、それ」
「人間の精神的負荷を軽減する表現として取得しました」
「その知識は信用するな。あと実行しなくていい」
「了解しました」
ダニエルは何か言いかけたが、やめて端末へ視線を戻した。
原因が分かったのは、それから数分後だった。
「これだ」
姿勢制御系そのものが故障しているわけではない。人格コアの重量を補うために身体側が学習した補正値と、胸部センサーの基準値が少しずつずれ、特定の姿勢で二重に補正が入っていた。
「身体がお前の重さに慣れようとして、補正をかけすぎてる」
「私が重いということでしょうか」
「お前じゃない。コアが重いんだ」
「同じことでは?」
「人型相手に『お前は重い』って言うと感じ悪いだろ」
「私は気にしません」
そういう問題でもないのだが、ダニエルはそれ以上言わずに基準値を再設定し、固定具をもう一度確認した。
「よし、歩いてみろ」
ルークは開いた服をそのままに、リビングを数歩歩いた。胸部サービスパネルも開いたままだが、本人には何の抵抗もないらしい。
「今度はどうだ?」
「良好です」
「じゃあ、左右に捻ってみろ」
ルークが身体を両方向へ捻る。今度は余計な補正が入らない。
「よし。次、腕を上げて」
ルークが右腕を上げる。
「そのまま止まれ」
ダニエルは開いた胸部パネルの内側へ手を入れ、センサーユニットの固定位置を最後に微調整した。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
ルークの視線だけが玄関方向へ動く。
「来客です、ご主人様」
「ちょっと待ってろ」
ダニエルは胸部パネルの内側から手を抜き、インターホンの画面を確認した。そこには、紙袋を提げた奈緒が映っている。
「奈緒だ」
ダニエルはルークの格好を見た。メイド服の前は胸元から腹部まで大きく開き、サービスパネルも開いたままだ。普通なら人前へ出る格好ではないが、本人はまったく気にしていない。
「このまま入れていいか?」
「はい。問題ありません」
ルークは迷わず答えた。ダニエルはインターホンを操作した。
「奈緒、今は手が離せない。開いてるから入ってきてくれ」
『はーい』
通話が切れると、ダニエルはそのままルークの前へ戻った。
「続けるぞ」
「はい、ご主人様」
奈緒が玄関からリビングへ来るまでの間に、ダニエルは再び胸部パネルの内側へ手を入れていた。小型レンチでセンサーユニットの角度を微調整し、ルークは右腕を上げたまま静止している。
「そこで少し左を向け」
「この程度ですか?」
「もうちょい。はい、止まれ」
玄関のドアが開く音がした。
「お邪魔しま――」
奈緒の声が途中で止まったが、整備に集中していたダニエルはすぐには気づかなかった。手元の固定具を確かめ、端末の数値を確認してから顔を上げる。
「よし。これで――」
言葉が途中で止まった。
リビングの入口では、奈緒が紙袋を提げたまま立ち尽くしている。その視線の先にいるのは、メイド服の正面を胸元から腹部まで大きく開いたルークと、その胸元へ顔を寄せ、開いたサービスパネルの内部へ片手を入れているダニエルだった。床には工具も広がっているが、奈緒の視線はそこまで落ちていない。
その視線を追って、ダニエルもルークの開いた胸元と、そこへ入れたままの自分の手を見た。
「……違う」
奈緒の眉がゆっくり上がった。
「まだ何も言ってないけど」
「何を言いたいかは顔を見れば分かる」
奈緒はもう一度二人を見比べた。
「……相棒に欲情してんの?」
「整備だよ!」
ダニエルが思わず声を上げる。
ルークは胸部を開いたまま奈緒へ顔を向けた。
「事実です。ご主人様は以前から私の内部を何度も確認しております」
「言い方!」
奈緒の目がさらに細くなった。
「何度も……?」
「M421だった頃からです」
奈緒の表情がいっそう複雑になり、ダニエルは額を押さえた。
「ルーク、もう黙ってろ。お前が口を開くたびに悪化してる」
「事実を説明しているだけですが」
奈緒はようやくリビングへ入り、今度はルークの胸元を近くから覗き込んだ。開いたサービスパネルの内側には金属フレームと配線が見え、床には工具が並んでいる。奈緒の視線が、ダニエルの小型レンチと診断用端末へ移った。
「……本当に整備だったんだ。だって、あの状況じゃ整備だなんて思わないって」
「俺には最初から工具とパネルしか見えてないけど」
「それはそれでどうなの」
奈緒がルークの胸元をもう一度覗き込んだ。
「この奥に、この前言ってたコアが入ってるの?」
「もう少し奥だ。今触ってるのは姿勢センサーで、その後ろにコアがある。六、七キロくらい」
奈緒は開いた胸部とルークの細い身体を見比べた。
「そりゃ、この身体には大変だね」
「ご主人様の設計に問題があります」
「お前、さっきから言い方ってもんがあるだろ」
奈緒が吹き出した。
「そういうところは昔から変わってないんだ?」
「ああ、全然変わってない」
奈緒はまだ笑いながら、ダニエルの方へ向き直った。
「まあ、欲情してたわけじゃないのは分かったけど」
「当たり前だろ。お前、俺のこと何だと思ってたんだよ」
そこでルークが、念を押すように付け加えた。
「私にはそういう機能はありませんので」
「知ってるよ!」
ダニエルは反射的に答えた。
奈緒がぴたりと止まる。
「……なんで知ってるの?」
ダニエルも固まった。開きかけた口を一度閉じる。
「いや、それは……」
奈緒が答えを待つようにじっと見てくる。
「……整備したからだよ」
ようやく出た答えに、奈緒は片手で顔を覆った。
「さっきからずっとその説明してるじゃん」
「だから最初から整備だって言ってるだろ!」
「整備時に容易に確認できる構造です」
「だから今は黙ってろ!」
「先ほども同じ指示を受けました」
「覚えてるなら守れよ!」
奈緒はとうとう声を上げて笑った。
しばらくして落ち着くと、持ってきた紙袋をテーブルへ置いた。
「分かった。本当に整備なのは分かったよ。でも、途中から入ってきたら普通に誤解するからね」
「俺も今そう思ってる」
「ご主人様は奈緒様が来られると分かった上で、整備を再開されました」
「お前もこのままでいいって言っただろ」
「問題があるとは判断していませんでした」
奈緒は肩をすくめた。
「インターホンで一言言ってくれればよかったのに」
ルークはしばらく黙った。
「では次回から、整備中であることを来訪者へ明示します」
ダニエルは眉をひそめた。
「何を表示するつもりだ」
「現在検討中です」
「その検討はいらない。奈緒が誤解しただけだろ」
「同様の誤解の再発防止には必要です」
奈緒は口元を押さえて笑っている。ダニエルだけが、インターホンで一言言っておけばよかったと本気で後悔していた。
奈緒は紙袋から小さな箱を取り出した。
「これ、また実家から。今度はクッキー」
「また甘いものか」
「前回は、奈緒様との会話中に二つ続けて召し上がりました」
「……余計なこと言うな」
奈緒が吹き出した。ダニエルはため息をつき、ルークへ向き直った。
「最後だけ確認する。奈緒、悪いけど少し待っててくれ」
「ごゆっくり。もう勘違いしないから」
奈緒は笑いながらソファへ座った。
ダニエルは残りの調整を終えて胸部サービスパネルを閉じると、ルークに腕を上げさせ、身体を左右へ捻らせ、最後に何度か歩かせた。今度は余計な補正が入らない。
「どうだ?」
「正常範囲です。姿勢制御値も安定しています」
「よし。終わり」
ルークはメイド服の前を留め直し、白いエプロンと青いリボンを整えた。数分前まで胸部を開けていたとは思えない、いつものメイド姿へ戻る。
奈緒がそれを見て感心したように言った。
「本当に何事もなかったみたいに戻るんだね」
「外装は通常の状態に戻っています」
「中身は全然通常じゃないけどな」
「ご主人様が入れましたので」
「人を犯人みたいに言うな」
ダニエルが工具を片づけていると、しばらくその様子を見ていたルークが声をかけた。
「ご主人様。先ほどの再発防止策について、適切な表示を考えました」
「まだ考えてたのか」
ルークは真顔だった。
「次回は『ご主人様による胸部整備中』と入口へ表示します」
「絶対やめろ」
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