第4話 この家は私の言うことを聞きません
日曜日の朝、ダニエルが寝室から出ると、リビングの中央にルークが立っていた。
黒いメイド服に白いエプロンという姿は、この数日ですっかり見慣れた。ただ、何もせず立っているルークを見ると、最近は少し警戒する。そういう時に限って、ろくでもないことを始める。
「おはようございます、ご主人様」
「おはよう。何をしてる?」
「家庭内機器への接続を試行しています」
ダニエルは欠伸を噛み殺しながら、キッチンへ向かった。ルークはほとんど動かず、青い瞳だけをゆっくり巡らせている。今の身体に備わった家庭サービス用の通信機能で、周囲の機器を探しているらしい。
「日曜の朝から何やってんだよ」
「家庭サービス用機能の確認です。室内機器を検出していますが、先ほどから接続可能な機器が一台も見つかりません」
「そりゃそうだろ」
「現在、電波妨害の有無を確認しています」
冷蔵庫を開けかけたダニエルの手が止まった。
「……家の中でか?」
「念のためです。以前は、妨害下でも子機との通信を維持する必要がありましたので」
M421だった頃は、通信環境が悪化しても六台の子機を動かし続ける必要があった。応答が途絶えれば、まず妨害や通信障害を疑う。今も同じ手順で原因を切り分けているらしい。
「妨害なんかされてないよ。故障でもない」
「では、なぜ応答しないのでしょうか」
ダニエルは冷蔵庫の扉を閉じ、改めて部屋を見回した。電子レンジは中古で買った古い型で、洗濯機も似たようなものだ。エアコンは壁際のリモコンで操作する昔ながらのタイプ。掃除機に至っては、押し入れの中でコードを巻かれたまま眠っている。
「そいつら、最初から通信機能なんか付いてないぞ」
「……ネットワーク制御に対応していないのですか?」
「ああ、一台もな」
ルークは答えず、電子レンジから洗濯機、エアコンへと順番に視線を移した。どれも沈黙したままだ。
やがて、ぽつりと言った。
「……この家では、誰も私の言うことを聞きません」
あまりに深刻な声だったので、ダニエルは思わずルークを見る。
「そんな顔で言うことか?」
「以前は妨害下でも、六機の子機を統制していました。それが今は、電子レンジ一台動かせません」
「家電は指揮系統に入ってないんだよ」
「家庭用機器は相互接続され、連携して動作するものだと認識していました」
「最近の家ならな。残念ながらうちは違う」
ルークはしばらく考え込み、ようやく別の結論へ辿り着いた。
「では、機器の更新を推奨します」
「結局それかよ。朝一番から金使わせようとするな」
ダニエルがトーストを焼く横で、ルークは掃除機の整備履歴を調べていた。
「ご主人様」
「今度は何だ」
「掃除機の最終フィルター交換時期を確認できません」
「そんな記録ついてないだろ。まあ、買ってから替えた記憶もないけどな」
ルークがゆっくりダニエルを見た。
「それは記録がないのではなく、交換していないのでは?」
「まだ使えるし問題ないだろ」
「使用可能であることと、適切な状態であることは別問題です」
「お前、昨日まで履帯だったくせに急に家事に厳しくなってないか」
「履帯だったのは五年前までです」
「細かいな!」
結局、朝食を食べ終える頃、ルークは当然のように宣言した。
「本日は室内清掃を実施します」
「俺の休日だぞ。勝手に予定組むなよ」
「何か特別な用事があるのですか?」
「……ないけど」
「では問題ありません」
「そういう問題じゃない気がするんだけどな……」
ルークは押し入れから掃除機を取り出し、コードを伸ばしてコンセントへ差し込んだ。家庭用アンドロイドのサービスデータには一般的な家事の手順も収められている。使い方に迷う様子はなく、すぐに低いモーター音が響き始めた。
「リビング第一区域から処理を開始します」
「掃除って言え」
「床面異物を除去します」
「余計に嫌な感じになった」
ルークはソファの前を掃除し、そのままテーブルの下へ回った。家具の位置を確かめ、コードを踏まず、障害物を避けながら一定の速度で進んでいく。
そのまま部屋の端まで行ったところで、掃除機が止まった。
「どうした?」
「……行動半径が不足しています」
「コンセントを差し替えればいいだけだろ。掃除機ってのはそういうもんだよ」
ルークは床に伸びたコードを見る。
「以前の履帯車体であれば、こんなコード一本に行動を制限されることはありませんでした……」
「まだ履帯に未練があったのか。家の中を履帯で走ったら床が終わるだろ」
「ゴム履帯でした」
「そういう問題じゃねえよ」
ルークはコンセントを差し替え、何事もなかったように掃除を再開した。
十分ほどすると、ソファの下からボールペンが転がり出てきた。続いて小銭が二枚、何かのケーブル、包装を開けたまま忘れていた予備の電池まで出てきた。
「ご主人様」
「次は何だ」
「ここを最後に清掃したのはいつですか」
ダニエルは少し考えた。
「……記録がない」
掃除機の音が止まり、ルークがこちらを見る。
「私と同じ言い方をして逃げないでください」
「その言い方、使えると思ったんだけどな。それに、そんなに汚れてなかっただろ」
「汚れていないのではなく、見ていなかっただけです」
「普通はソファの下なんて、そんなに見ねえよ」
「では今後、私が確認します」
「そこまで管理される予定はなかったんだけどな……」
ルークは返事をせず、掃除機を再び動かした。
昼前には、リビングの床はすっかりきれいになっていた。するとルークは、テーブルの端に積んであった工具へ手を伸ばした。
「そこは触るな」
ダニエルがすぐに止めた。
ルークの手が止まる。
「整理されていません」
「どこに何があるかは俺には分かるんだよ」
ドライバー、六角レンチ、精密工具、ケーブル、変換基板用の部品。ダニエルには自分なりの整理ルールがある。それで十分だった。
「以前の整備工具も同様の扱いでした」
ダニエルがルークを見る。
「そんなことまで覚えてるのかよ」
「私の整備に使用する工具を、毎回違う位置へ置いていました」
「最終的には見つけたんだから問題なかったろ」
「私が場所を記録していたからです」
「……そうだったか?」
「ご主人様がレンチを探している間に場所を報告した回数は、記録に残っています」
「そんなの聞きたくない」
「必要であれば集計できます」
「絶対にいらない」
ルークは工具へ伸ばしかけていた手を戻した。
「では、ここは現状維持とします」
「そうしてくれ」
「ただし、推奨したわけではありません」
「余計な一言まで昔のままだな」
ルークはそれには答えず、今度は窓際へ向かった。
窓ガラスを内側から拭き上げ、サッシのレールに溜まった砂埃を細いブラシで掻き出していく。それが終わると、カーテンの裾の皺を一枚ずつ指で伸ばし始めた。
「なんでそこまでやるんだよ」
「来客時に備えています」
ダニエルが眉を上げた。
「誰か来る予定あったか?」
ルークは一瞬だけ黙った。
「今後の来客に備えているだけです」
どこかで聞いた返しだった。
「……なるほどな」
「どういう意味でしょうか」
「問題ない。任務に集中したまえ」
わざとおどけた軍人口調で言うと、ルークはすぐに窓の方へ向き直った。
「了解しました、ご主人様」
返事だけは昔と同じ速さだった。最後に「ご主人様」が付くところを除けば。
午後に入り、最後に残ったのは浴室だった。ダニエルはもう十分だと思っていたが、ルークは掃除道具を持って浴室へ向かった。
「浴室清掃を開始します」
「今日はもう十分じゃないか?」
「未処理区域です」
「だからその言い方やめろって」
浴室から、水の音とブラシが擦れる音が聞こえ始める。
最初のうちは順調だった。浴槽、床、壁際、排水口を一つずつ確認しながら、ルークは作業を進めていく。
だが、浴室はリビングより狭く、何度も姿勢を変えなければならない。今の細身の身体の背部には、本来想定されていない重量の人格コアが収められている。屈むたびに小さくサーボが鳴り、姿勢制御が細かく働く。それでもルークは手を止めなかった。
ダニエルが様子を見に行くと、ルークは浴槽の内側をブラシで擦っていた。
「まだやってるのか」
「水垢の除去に時間を要しています」
「落ちなきゃ今日はそれくらいでいいだろ」
「清掃途中です。終了と判断できる状態ではありません」
ルークがさらに力を込めると、サーボがまた短く鳴る。
「家庭環境でここまで継続的な摩擦作業が必要とは想定していませんでした」
「みんなやってることだよ。人間の生活なんて、そういうもんだ」
ルークはしばらく無言で浴槽を擦っていたが、やがて手を止めた。
「ご主人様」
「どうした」
「……人間がなぜ泣くのか、理解しました」
ダニエルは浴室の入口で瞬きをした。
「何だって?」
「私には涙を流す機能がありませんが」
「風呂掃除でそんな重要なことを理解するな」
「精神的負荷については参考になりました」
「そんな悟りいらねえよ」
ルークはまたブラシを動かした。その拍子に身体がわずかに後ろへ傾き、すぐに姿勢補正が入った。ダニエルの表情から笑いが消えた。
この身体の背中へ、六、七キロもある人格コアを押し込んだのは自分だ。固定具も変換器も、まず動かすことを優先して組んだ。動いた時はそれでよかった。少なくとも、こんな姿勢で何度も屈ませることまでは考えていなかった。
「ルーク」
「はい」
「もういい。今日はそこまでにしろ」
「まだ完了していません」
「かまわん。明日でいい」
ルークがダニエルを見る。
「まだ稼働可能です」
「動けるのは見れば分かる」
「なら継続できます」
ダニエルは少し黙った。
「できるかどうかじゃない。任務と違って家事なんだから、疲れたらやめていいんだよ」
ブラシが止まり、水音だけが続いている。
ルークは清掃途中の浴槽を見てから、ダニエルへ視線を戻した。
「……家事とは随分寛容な任務ですね」
「だから任務じゃねえって」
「未完了でも、中断してよいのですか?」
「いいよ」
「残りは翌日に回しても?」
「構わない」
「途中で休憩しても?」
「好きに休め」
ルークは少し考えた。
「非効率では?」
「軍とは違う。効率だけで生活すんな」
「難しい要求です」
「だったら早く慣れろ」
ダニエルは浴室へ入り、ルークの手からブラシを取ろうとした。
「残りは俺がやる」
ルークが手を引いた。
「ご主人様の清掃能力は信用できません」
「そこまで言うか?」
「観察データは十分です」
「その言い方、昨日も聞いたな。……じゃあ分担すればいい。俺も一緒にやってやる。それなら問題ないよな」
ルークはしばらくダニエルを見ていたが、やがて掃除道具の中から別のブラシを一本取り、ダニエルへ渡した。
「では、浴槽をお願いします」
「了解」
「洗剤は少量で十分です」
「分かってる」
「力を入れすぎる必要はありません」
「だから分かってるって」
「同じ場所を何度も――」
「お前、どんだけ俺のこと信用してないんだ?」
ダニエルが浴槽、ルークが床と壁際を担当し、二人で並んで風呂掃除をすることになった。
ダニエルは浴槽を擦りながら口を開いた。
「俺たち、昔はもうちょっと大事な仕事してなかったか?」
「昔の仕事は爆発物処理です」
「そう、それ!」
「現在は水垢処理です」
ダニエルは小さくため息をつき、手を止めた。
「落差がすごすぎないか」
「除去対象という点では共通しています」
「上手いこと言ってんじゃねえよ」
ルークは淡々と床を擦っている。
「危険度は現在の方が低いです」
「そりゃそうだろ」
「作業環境も良好です」
「風呂場だからな」
「敵性勢力も確認されません」
「風呂場にいたら困るよ」
そう言いながら、ダニエルはまた浴槽を擦った。
◇
掃除が終わった頃には、日がかなり傾いていた。
リビングへ戻ったルークは、室内を一通り見回した。床の埃は消え、ソファの下も片づき、郵便物まで種類ごとに揃っている。
ダニエルはソファへ沈み込んだ。
「もう今日は何もしないぞ」
「これからの予定はありません」
「お前の言う予定は信用できない」
ルークは自分の両手を見た。掌を返し、指を一本ずつ曲げては伸ばしていく。以前の大型マニピュレーターでは、こうした細かな家事には向かなかっただろう。
「家庭環境での作業には、この身体の方が適しています」
ダニエルが顔を上げる。
「やっと認めたか」
「細かい作業、室内移動、階段昇降には有利です」
「だろ? 履帯じゃ無理だからな」
「ただし、履帯があればさらに機動性を高められます」
「……まだ言うのかよ。家の中を戦場に戻すな」
ルークは反論せず、代わりにテーブルの上に置いてあったタブレットを手に取った。
「ご主人様、こちらに今後の作業効率改善案をまとめてあります」
ダニエルは目を細めた。
「嫌な予感しかしない」
ルークがタブレットを差し出すと、画面には商品一覧が並んでいた。
掃除機。
洗濯機。
エアコン。
その他、ダニエルには用途すら分からない家庭用機器がいくつか。
しかも全部、今ある物より明らかに高い。
「お前、全部買い替える気か?」
「長期的には合理的な判断です」
「却下」
「まだ総額を提示していません」
「そんなの見なくても分かる」
「では優先順位を設定します」
「君の意見は求めていない」
ダニエルは昼間と同じ軍人口調で返した。
「最優先は掃除機です」
「聞けよ」
あの時はすぐ従ったルークが、今度は気にせず画面を操作した。
「第二優先は洗濯機です」
「だから聞けって!」
「第三優先は――」
「分かった! もういい」
「私は適切な意見具申をしています」
「この家で一番言うこと聞かないのはお前だよ」
ダニエルは額を押さえた。
「昔のお前は、家計には攻撃してこなかったんだけどな」
ルークはタブレットから顔を上げた。
「当時は必要な装備を軍が調達していました」
ダニエルはしばらく黙った。
「それ言われると何も返せねえよ」
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