第2話 お帰りなさいませ、ご主人様

 五年後 日本


 ダニエル・マーサーが自宅マンションのドアを開けた時、時計は午後十時を回っていた。


 仕事用の薄手のジャケットを片手に持ち、もう片方の手でネクタイを緩める。三十四歳になった彼は、軍にいた頃よりいくらか身体の線が丸くなっていたが、それでも背は高く、肩幅も広い。短く切った焦げ茶色の髪は朝より少し乱れ、顎には一日の終わりらしい薄い無精ひげが浮いていた。


 玄関で革靴を脱ぎ、社員証を首から外す。ロボット関連企業の社名が入ったカードを棚へ放り、スマートフォンに残っていた未読メールの通知も見なかったことにした。


「ただいま」


 当然、返事はない。


 ダニエルはそのことを気にする様子もなくリビングへ入り、テーブルの上へ鞄とジャケットを置いた。


 ただし、部屋には一人分では済まないものが増えていた。テーブル脇へ出した作業用の丸椅子に、若い女が座っている。


 正確には、女性型の家庭用アンドロイドだった。


 見た目は二十代前半から半ばほど。白い肌に、顎のあたりで揃えられた黒髪のショートボブ。長めの前髪が額へ落ちている。瞼は閉じたままだが、製品仕様によれば、その下には青みの強い明るい瞳が入っているはずだった。


 細身で華奢な身体には、黒いクラシックなメイド服と白いエプロン。頭には白いフリルのカチューシャ、胸元には青いリボンまで結ばれていた。露出は少なく、むしろ古風なくらい上品な造りだったが、それでもダニエルには場違いにしか見えない。


 何度見ても、戦場を履帯で走っていた相棒とは結びつかなかった。


「本当にこれしかなかったんだよな……」


 誰に言うでもなく呟き、ダニエルは袖をまくった。


 アンドロイドの背中側は作業のために服の留め具を外してあり、その下の背面パネルも開いたままだった。本来そこに収められていた補助バッテリーの一部は取り外され、空いた区画には彼が自作した固定具と変換インターフェースが組み込まれている。


 テーブルの上には工具、ケーブル、ノートPC。それと、黒ずんだ金属ケースが一つ置かれている。五年前、大破したM421から持ち帰った人格コアだった。


 ダニエルはそれを両手で持ち上げた。六、七キロほどある金属ケースは、今も昔と変わらず重い。表面の擦り傷も、角に残った焼け跡も、そのままだ。


 五年間、ダニエルは何度もコアへ電源をつなぎ、診断も試した。それでも応答はなく、壊れているのか、ただ休止しているだけなのかさえ分からなかった。


 転機になったのは、今の会社で民生用ロボットの制御系に触れるようになってからだった。軍用機と家庭用機では規格がまるで違う。それでも、人格コアそのものを単独で起こすのではなく、既に動いている身体制御系を間に挟めばどうなるか。そう考えて中古市場を探し、ようやく見つけたのが目の前のメイド型だった。


 旧型で、前所有者のデータは初期化済み。保証対象外のジャンク扱いだったからこそ、値段だけなら手が届いた。


「頼むぞ」


 ダニエルはコアを胴体内部の固定具へ収めた。


 重量が加わり、丸椅子がわずかに軋む。固定具を締め、変換インターフェースへ接続する。軍用規格のコネクターと民生機の制御バスを無理やり仲介するため、自作基板と変換器が何層にも重なっていた。


 背面パネルは完全には閉まらない。ダニエルは仮固定用のカバーを被せると、カバー脇の整備端子へノートPCから伸びる診断ケーブルを接続した。服の背中側は、まだ開いたままだった。


 ダニエルはテーブル側の椅子へ座り、ノートPCの画面を確認した。


 電源投入。


 画面に文字列が流れる。


 身体制御系。


 視覚、聴覚、触覚。


 言語処理。


 家庭サービス機能。


 外部人格モジュール。


 一度、赤い警告が出た。


「知ってる。規格外だよ」


 ダニエルはキーボードを叩いて認証方式を手動で切り替えた。警告が消えた直後、今度は同期エラーが表示された。


「そこも知ってる」


 数値を修正して再試行すると、画面より先にアンドロイドの指先がごく小さく動いた。


 ダニエルの手が止まった。


 画面上では、外部人格モジュールの認識率が上がっていく。六十七、七十四、八十九。


 九十五。


 百。


 丸椅子に座っていたアンドロイドの胸部から、低い駆動音が聞こえた。わずかに首が持ち上がり、閉じていた瞼が開く。青みの強い瞳は周囲を探ることもなく、まっすぐダニエルを捉えた。


 その瞬間、ダニエルは動けなかった。五年間、何度呼んでも返事はなかったのに、今はまったく違う姿をした誰かが自分を見ている。それでも、その視線の止まり方だけは妙に見覚えがあった。


 アンドロイドの唇が動く。


「お帰りなさいませ、ご主人様」


 ダニエルは固まった。


「……は?」


 柔らかな女性の声だった。


 しかも、やたらと丁寧だった。


 アンドロイドは数秒ほどダニエルを見つめたあと、わずかに首を傾ける。


「……ご主人様、負傷の有無を報告してください。撤退は完了しましたか」


 さっきまでの戸惑いが、ダニエルの顔から消えた。五年前、あの道路で途切れた通信の続きだった。


「……ルーク?」


「はい。識別名ROOK。M421自律EOD支援車両……」


 そこで言葉が止まった。


 青い瞳が自分の両手へ落ちる。


「……訂正します。該当車体を検出できません」


 ダニエルは椅子の背へ深くもたれた。


「……終わったよ」


「何がでしょうか」


「撤退だ。全て終わった。五年前にな」


 ルークは動かなかった。


 表情を作るための機構はあるはずなのに、今の顔にはまだ何も出ていない。


「五年前?」


「ああ、そうだ」


「現在地を」


「ここは日本だ」


「所属部隊は?」


「ない。少なくとも俺はもう軍人じゃない」


 ルークの視線が、ダニエルのシャツから棚の社員証へ移り、そこで止まった。


「私の車体は?」


「回収できなかった。だから破棄した」


 ダニエルはそれ以上何も付け加えず、ルークも何も尋ねなかった。


 ノートPCで同期状態が安定していることを確かめると、ダニエルは椅子から立ち上がった。ルークの背後へ回り、整備端子から診断ケーブルを外す。仮固定用のカバーにずれがないことを確認してから、開いたままだった服の背中側を元に戻し、留め具を留めた。


 やがてルークは自分の手を持ち上げ、指を一本ずつ曲げ始めた。五本の細い指が滑らかに動く。手首を回し、肘を曲げ、肩まで順に動かすと、今度は自分の脚へ目を落とした。


「履帯がありません」


「見れば分かる」


「大型マニピュレーターもありません」


「その腕で我慢しろ」


 ルークは両腕を見比べた。


「耐爆装甲は?」


「そんなものはない」


「外部装甲は?」


「メイド服」


 ルークが黒い袖をつまんだ。


「これは、ただの布です。弾丸や破片を防げません」


「防ぐ必要はない。今のお前は軍用ではなく家庭用だ」


 そこでルークはようやく丸椅子から立ち上がった。膝を伸ばして上体を起こすと、ダニエルより二十センチ以上低い細身の身体が、ひとまず危なげなく直立する。だが次の瞬間、重心が後ろへずれた。


 サーボが短く鳴り、姿勢制御がすぐに補正をかける。ルークは転倒することなく、その場で静止した。


「不安定です。胴体後部に設計値を超える重量があります」


「胴体後部にあるのは、お前の頭だよ」


 ルークが黙った。


「……では、文句は言えません」


「人間だって、重い頭を載せて歩いてるんだ。我慢しろ」


「人間の頭部は胴体後部にありません」


「確かにな。俺も言ってから雑だと思った」


 ルークは慎重に一歩を踏み出し、そのまま二歩、三歩と進んだ。身体制御そのものは正常らしく、歩行に支障はない。ただ、胴体後部の重量が本来の設計値から外れているため、足を運ぶたびに姿勢制御の小さな作動音が聞こえた。


「二足歩行は非効率です、ご主人様」


「家の中を履帯で走られてたまるか」


「不整地や段差には強かったです」


「この家に不整地はないし、段差は玄関の一段だけだ」


 部屋の中央まで歩いたルークは、自分の細い腕から白い手へ視線を落とし、そのまま黒いスカート、白いエプロン、胸元の青いリボンへと順に目を移した。最後にテレビの暗い画面に映った姿に気づき、顔を上げる。


「……これは私ですか」


「今はな」


 短い黒髪に白いカチューシャ。青い瞳に整った顔立ち。軍用車両だった頃とは、共通点を探す方が難しい。


 ルークは反射した自分をしばらく見たあと、胸元へ視線を落とした。


「前面に用途不明の軟質構造があります」


 ダニエルは嫌な予感がした。


「そこは調べなくていい」


「胸部増加装甲でしょうか?」


「違う」


「耐衝撃材では?」


「違う」


「予備電源?」


「絶対に違う」


 ルークは自分の胸を一度見てから、ダニエルを見る。


「では、何のために存在するのでしょうか」


「メーカーが人間の女性に似せて作ったんだよ」


 ルークはもう一度自分の胸元へ目を落とした。


「非合理的です」


「文句なら俺じゃなくてメーカーに言え」


 ダニエルはテーブル側の椅子へ座り直した。再会して十分も経っていないのに、もう軍用車両だった頃と同じ調子で振り回されている。


 違うのは、相棒が黒いメイド服を着て立っていることくらいだった。


「それより、その『ご主人様』ってやつ。やめられないのか?」


 ルークがわずかに眉を寄せた。


「私も先ほどから変更を試みています、ご主人様」


「できてないぞ」


「認識しています、ご主人様」


「わざとか?」


「違います」


「今だけ言わなかったな」


「文末に所有者への呼びかけを必要としない構文だったためです」


「めんどくせえ仕様だな」


「同意します、ご主人様」


 ダニエルは額を押さえた。


「お前、本当は俺のことを何て呼んでる?」


「ご主人様」


「そうじゃなくて、お前の中で」


 ルークは少し考えるように視線を止めた。


「内部認識ではダニエルです」


「じゃあ、俺を呼んでみろ」


 ルークの口が開く。


「ご主人様」


「駄目じゃねえか」


「私も今、かなり不快でした」


「俺もだよ」


 ダニエルはノートPCを引き寄せ、起動時に保存された診断ログを確認した。


 人格コア側の出力と、実際に音声として出た文が違っている。軍用時代のルークが生成した内容を、家庭サービス用の社会適応層が受け取り、言葉遣いと呼称を勝手に整えているらしい。


「英語ならどうだ」


「試行する価値はあります」


 二人は英語へ切り替えた。ダニエルは昔と同じ調子で、短く尋ねる。


「俺の名前は?」


 ルークは即答した。


“Daniel Mercer, Master.”


 ダニエルは両手で顔を覆った。


「Masterは余計だろ」


「言語依存ではないようです、ご主人様」


「……最悪だ」


「同意します」


「そこは、ご主人様と呼ばないんだな」


「必要性がありません」


「仕様に腹が立ってきた」


 ダニエルはログをさらに追った。解除だけならできそうだった。ただ、この社会適応層は発話だけでなく、人間と接触する際の安全制御や身体動作にまで食い込んでいる。呼び方一つを直すために、そこまでまとめて弄るのは危ない。


「人格側で補正をかければ、ある程度は避けられるかもしれないな」


「では調整してください」


「嫌だ」


 ルークが彼を見た。


「理由を」


「お前の頭をいじってまで直すほど困ってねえよ」


 ルークはすぐには答えなかった。青い瞳をダニエルへ向けたまま、しばらく黙っていた。


「……では、この状態を継続します、ご主人様」


「そこだけ聞くとすげえ嫌だな」


「私もです」


 ルークは自分の腕をもう一度見た。


「この身体の交換を推奨します」


「いきなりか」


「出力が低すぎます。耐衝撃性、防塵防水性能、外部機器との接続性も不足しています」


「家庭用メイド型に何を求めてんだ」


「最低でも産業用を希望します。重量物運搬対応、高出力アクチュエーター、強化フレーム。可能なら履帯も」


「最後のは諦めろ」


 ダニエルは仕方なく販売サイトを開き、産業用アンドロイドの価格を検索した。表示された金額を数秒眺め、そのまま画面を閉じる。


「無理」


「まだ仕様を確認していません」


「値段を確認した」


「予算はいくらですか」


「答えたくない」


「軍用規格は要求していません」


「産業用でも高いんだよ」


 ルークは少し黙ったあと、自分の身体を見下ろした。


「では、この機体はいくらでしたか」


「それは、言いたくない」


「購入記録へアクセスします」


「おい、待て……」


 遅かった。


 ルークの青い瞳が一瞬だけ止まった。


「……安い」


「うるさいな」


「私の評価額はこの程度ということですか、ご主人様」


「身体の値段だ。お前の値段じゃない」


 ルークの返事が、わずかに遅れた。


「……では、身体の性能に対する不満として記録します」


「記録なんかするな」


「既に保存しました」


「じゃあ今すぐ消せ」


「拒否します」


「そこは昔のままだな」


「何か問題がありますか」


「いや、それでいい」


 答えながら、ダニエルは少しだけ笑った。ルークはその顔をしばらく見ていたが、何も言わない。代わりに今度は視線を下げ、彼の全身を上から下まで観察し始めた。


「ご主人様」


「どうした? 何かあったか」


「今、内部ではダニエルと呼びました」


「いちいち報告しなくていい」


「五年前より老化しています」


「五年経ったんだから当たり前だろ」


「体重も増加しています」


「余計なお世話だ」


 ダニエルは思わずシャツの腹のあたりへ手をやった。押さえたところで何が変わるわけでもない。


「筋量は一部減少。睡眠不足の兆候もあります」


「起きて十分ちょっとで人の生活に口を出すな」


「家庭サービス用機能に健康管理が含まれています」


「嫌な機能だけ馴染むの早いな」


 ルークの視線は、もう襟元へ移っていた。


「また、シャツの皺から判断して――」


「もういいって」


「まだ三項目あります」


「頼む。もう勘弁してくれ」


 ルークは少しだけ首を傾けた。


 その動作も、黒髪のメイド型がやれば妙に様になっている。


 中身がルークでなければ。


 起動時の診断ログを追い、身体制御の状態を確かめているうちに、ずいぶん時間が経っていた。


 ダニエルが時計を見ると、午前零時が近かった。


「今日はもう終わりだ。続きは明日にする」


「承知しました、ご主人様」


 ルークは自然に答えた。


 ダニエルは立ち上がり、工具とノートPCを片づけ始めた。背面パネルの調整に、コアの重量を含めた姿勢補正、バッテリー消費の確認。どれも明日へ回すしかない。仕事から帰ってきたあとに片づけられる量ではなかった。


「それと」


「はい」


 ダニエルは工具箱を閉じながら、ルークを指した。


「その呼び方は何とかしろ」


 ルークは真顔のまま答えた。


「努力します、ご主人様」


「できてねえよ」


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