第12話
幼年社交会での「独占欲爆発事件」から数日。
王都での滞在を終え、ヴァルハイト公爵城への帰路についていた俺たちだったが、その道中で予期せぬ事態が発生した。
深い森を抜ける街道を進む公爵家の馬車。
突如として、馬車の周囲の空間がぐにゃりと歪み、周囲の鳥の羽ばたきや風の音が完全に遮断されたのだ。
「結界……!?」
俺は即座に腰の護身用剣に手をかけ、エリザベート様を庇うように前に立った。
エリザベート様も瞬時に警戒態勢に入り、その小さな手には黄金の風と闇の魔力が混ざり合った高密度の球体が形成されている。
「おや、素晴らしい反応速度ですね。さすがは『暴君の再来』と謳われた公爵令嬢……いや、今は『改心した聖女』とお呼びすべきでしょうか?」
空間の亀裂から、影のようにゆらりと姿を現したのは、黒いフード付きのローブを纏った痩せ型の男だった。
顔の半分を不気味な仮面で覆ったその男の雰囲気を、俺は見間違えるはずもなかった。
(……『黒の教団』の幹部、ネクロシス……!?)
俺は血の気が引くのを感じた。
『黒の教団』。それは原作『グラレガ』における真の黒幕組織であり、エリザベートの絶望や憎悪を利用して彼女を完全な『魔王』へと覚醒させ、世界を滅ぼそうとしていた狂信者集団だ。
原作ゲームの中盤以降で登場するはずの宿敵が、なぜこんな幼少期に現れる!?
「何の用だ、教団の狗が」
俺が静かに問いただすと、ネクロシスは底意地の悪い笑みを漏らした。
「ククク、下級貴族の小僧が、我らの存在を知っているとは目ざとい。……だが、用があるのはお前ではない。エリザベート・フォン・ヴァルハイト様……あなたですよ」
ネクロシスは恭しく一礼し、エリザベート様に向かって手を差し伸べた。
「あなたの中に眠る闇の魔力は、世界を統べる至高の力。……だというのに、そのような下等な小僧のぬるま湯のような教えに毒され、己の真の力を封じるなど愚かの極み! さあ、我らと共に来なさい! あなたを真の『魔王』として擁立し、この下らない世界を滅ぼす術を与えて差し上げましょう!」
ネクロシスの言葉と共に、強力な精神誘導の闇魔力が波となってエリザベート様に押し寄せた。
普通の十歳児であれば、恐怖と誘惑で正気を失うほどの強力な洗脳術式だ。
(くそっ! エリザベート様を渡すわけには——)
俺が前に出ようとした、その時。
エリザベート様が、俺の制服の裾をそっと引っ張った。
「アルス、下がっていて」
「エリザベート様!?」
エリザベート様は俺の前に進み出ると、ネクロシスに向かって冷ややかな視線を向けた。
その表情には、恐怖も、惑いも、教団の誘惑に対する興味すら微塵も存在しなかった。
「……何か勘違いしているみたいだけれど」
エリザベート様の手が、胸元の小さなロザリオに触れる。
そこから溢れ出すのは、俺が彼女に授けた温かな愛の魔力だ。
「私がアルスと一緒にいるのは、毒されているからでも、無理をしているからでもないわ。……私が、私自身の意思で、アルスの隣にいたいからよ」
「な……何だと……!?」
「世界を滅ぼす『魔王』? そんな下らないものに何の意味があるの? アルスが私を褒めてくれて、私を優しく抱きしめてくれる……それ以上の価値が、この世界のどこにあるというの?」
エリザベート様の全身から、怒りと共に凄まじい魔力が放出された。
それは、かつての「暴走」による破壊の魔力ではない。
俺の「魔力調和理論」によって完全に制御され、洗練された、神聖にして不可避の『全属性融合魔術』だ。
「アルスの教えを……アルスが私にくれた宝物を『ぬるま湯』と呼んだこと、死んで詫びなさい」
「ひ、ヒィィィッ!? な、なんだこの魔力量は!? 十歳の子供の出す力ではない——」
「『清聖滅氷風牙(アルス・ブレス)』」
エリザベート様が手をかざした瞬間。
男が張っていた空間結界ごと、ネクロシスは巨大な黄金と氷の嵐に呑み込まれ、何千もの風の刃によって一瞬で遥か彼方の空の彼方へと吹き飛ばされた。
ドンッ……!!
静寂が戻る街道。
黒幕組織の幹部が一瞬で全滅(あるいは遥か遠くへ撃退)せしめられたというのに、エリザベート様は気にした様子もなく、クルリとこちらを振り返った。
そして、先ほどまでの破壊神のような顔から一変し、不安そうに上目遣いで俺を見つめてきた。
「あ……アルス……。私、また乱暴な魔法を使っちゃった……。嫌いにならないで……くれる……?」
彼女の瞳には、俺に嫌われることに対する本気の恐怖が浮かんでいた。
俺はしばらく呆然としていたが、やがてフッと息を吐き、彼女の元へ駆け寄ると、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「嫌いになるわけがないでしょう! 私を守るために、ご自分の意志で力を使ってくださった……! 本当に、本当にお見事でした、エリザベート様!」
「アルス……っ!」
俺の腕の中で、エリザベート様は心底安心したように表情を緩め、俺の首に腕を回してきた。
(すごい……。彼女はもう、黒幕の誘惑にも、闇の感情にも負けない。己の力と意志で、破滅の運命を完全に粉砕したんだ……!)
俺は感動に震えていた。
更生計画は、ついに最終段階を超え、完全なる成功を収めたのだ。
エリザベート様はもう『最凶の暴君魔王』などではない。世界で最も気高く、強く、優しい少女へと成長したのだから。
……ただ。
「アルス……私ね、決めたの」
俺の胸の中で、エリザベート様が甘い声で囁いた。
「私、もっと強くなるわ。黒幕だろうが、神様だろうが、アルスと私の邪魔をするものは……全部私が消してあげる。だから、アルスは永遠に私のものよ……ね?」
耳元に伝わる、彼女の情熱的すぎる体温と、どこまでも深い執着。
更生計画は大成功を収めた。
破滅ルートも回避した。
……だが、俺の人生が「彼女からの逃げ場のない愛の牢獄」に永久拘留されることが確定した瞬間でもあったのだった。
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