第5話
ヴァルハイト公爵家に赴任してから、早くも半年が経過していた。
エリザベート様の「俺に対する激重な感情」に冷や汗を流す日々ではあったが、表面上の生活は至極平和そのものだった。彼女の魔力暴走は一度も起きておらず、公爵城の指導者や使用人たちも、幼き令嬢劇的な変化に驚嘆と安堵の声を上げていた。
だが、俺は知っていた。
原作『グラレガ』の年表において、エリザベート様が本格的に「人間不信の怪物」へと変貌を遂げる最初の決定的なトラウマイベントが、まもなく訪れることを。
「——裏切り、か」
俺は自室の机で、夜遅くにペンを走らせながらつぶやいた。
原作におけるそのイベントの名は『告発と毒杯』。
エリザベート様の身の回りの世話を長年焼き、彼女が「唯一の心の拠り所」と信じていた専属メイドのクラリス。彼女が実は、公爵家の権力失墜を企む対立貴族(分家であるヘルメス伯爵家)に買収されており、エリザベート様の食事に少しずつ精神を蝕む禁忌の毒薬を盛っていたことが発覚するのだ。
原作では、毒の作用で魔力が暴走したエリザベート様がクラリスをその手で凍殺し、さらに父親である公爵から「身内すら見抜けぬ愚か者」と激しく叱責されることで、彼女の心は完全に壊れた。
「……だが、いまのクラリスの標的は、おそらくエリザベート様だけじゃない」
俺は眉間を揉んだ。
この半年間、俺がエリザベート様の食事や体調管理を完璧に掌握してしまったため、クラリスは毒を盛る機会を失っている。それどころか、エリザベート様の一番近くに陣取る俺を「邪魔者」として排除しようと画策している気配があった。
昨日の夕食時、俺の分のスープからほのかに香った、あの奇妙な甘い匂い。
あれは『グラレガ』に登場する遅効性の神経毒『黒百合の雫』だ。
「先手を打たせてもらうぞ、クラリス」
俺は前世のゲーム知識を総動員し、クラリスがヘルメス伯爵家と密会している証拠の裏付け、そして彼女が毒薬を入手したルートの特定を完了させていた。今夜、彼女は最後の勝負として、エリザベート様の部屋に直接毒薬を仕込み、それを俺の罪として擦り付けようとするはずだ。
すべては、今夜決着がつく。
*
深夜二時。静まり返った公爵城の廊下を、滑らかな足取りで進む影があった。
専属メイドのクラリスだ。彼女は手慣れた手つきでエリザベート様の寝室の鍵を解除し、そっと扉を開けた。
「……ふふ、可愛らしい顔で眠りこけて。高慢なヴァルハイトの血筋も、これで終わりよ」
クラリスは懐から小さな小瓶を取り出し、エリザベート様の枕元に置いてある加湿用の魔導具(アルスが手作りしたもの)へ注ぎ込もうと手を伸ばした。
「そこまでだ、クラリスさん」
「〜〜っ!?」
暗闇の中から照らされた魔導ランプの光が、クラリスの蒼白な顔を浮かび上がらせた。
扉の脇の影から歩み出出たのは、俺——アルス・ローゼンバーグだ。
「ア、アルス……!? なぜこんな時間にこんな場所に……!」
「あなたがエリザベート様を害し、その罪を私になすりつけようとしているのを知っていたからですよ。その小瓶……『黒百合の雫』ですね?」
「な、何を言っているのか分からないわ! 私はただ、お嬢様の加湿器にお水を出そうと——」
「言い逃れは不可能です。あなたがヘルメス伯爵家の密偵と接触していた現場の記録、および薬種商からの購入伝票の控えは、すでに騎士団長と公爵閣下の元に届いています」
俺が静かに告げると、クラリスの顔から血の気が完全に引いた。
観念したかのように肩を震わせた彼女は、一瞬ののち、懐から隠し持っていた護身用の短剣を抜き放った。
「生意気なガキがぁぁぁっ!! お前さえ……お前さえ来なければ、私は大金を手に入れて高飛びできたのに!!」
狂乱したクラリスが、鋭い刃を俺の胸元目掛けて突き出してきた!
俺は十歳の子供の体だ。回避運動を取ろうとしたが、狭い室内では逃げ場が限られる。
(くっ……浅い傷なら受けるしかない!)
俺が身構えた、その時だった。
「——私のアルスに、何をしているの?」
冷気。
絶対零度の冷気が、部屋全体を突如として支配した。
クラリスの動きがピタリと止まる。いや、止まったのではない。彼女の足元から一瞬で氷が駆け上がり、太もものあたりまで完全に凍結されていたのだ。
「ひっ……! ひいいいいっ!?」
ベッドからゆっくりと起き上がったのは、エリザベート様だった。
彼女の深海の瞳は、闇の中で妖しく蒼い光を放っている。寝間着姿の小さな幼女でありながら、その姿はまさに『最凶の暴君』そのものの威圧感を纏っていた。
「エリザベート様、お目覚めになりましたか。申し訳ありません、お騒がせして——」
「アルス、下がっていて」
エリザベート様は俺の言葉を遮り、ベッドから降りると、裸足のまま氷の床を歩いてクラリスに近づいた。
「私を裏切っていたのね、クラリス。私があなたを……少しは信頼していたのに」
「お、お嬢様! お許しください! 私は、私はただ伯爵家に脅されて——」
「どうでもいいわ、そんなこと」
エリザベート様の声には、一切の感情がこもっていなかった。
「許せないのは……あなたがアルスに刃を向けたこと。私のアルスを、傷つけようとしたことよ」
「え……?」
クラリスが困惑の表情を浮かべた瞬間、エリザベート様の手が小さく上がった。
無数の氷の針が空中に生成され、クラリスの全方位を完璧に包囲する。刺されれば、ひとたまりもない。
「待ってください、エリザベート様!」
俺は叫び、二人の間へと飛び込んだ。
「アルス……? 邪魔をしないで。その女は、あなたを殺そうとしたのよ? 壊さなきゃ……私が、跡形もなく消し去ってあげないと……!」
エリザベート様の瞳が、狂気と激しい執着で揺れている。
原作のように「自分を裏切った世界」への怒りではない。「自分の宝物(アルス)を脅かした存在」への過剰な排除本能だ。
ここで彼女に殺人を犯させたら、彼女の心に決定的な『一線』が引かれてしまう。更生計画が台無しだ!
「ダメです! エリザベート様の手を、こんな愚かな者の血で汚してはなりません!」
俺は迫り来る氷の針の脅威を無視して、エリザベート様の身体を強く抱きしめた。
「ッ……!?」
「私なら大丈夫です。傷ついてもいません。……だから、どうかその力を収めてください。私を……安心させてください」
俺の体温と、頭を撫でる手の感触。
エリザベート様は息を呑み、空中に浮いていた氷の針が、パラパラと音を立てて砕け散った。
「アルス……アルス……っ」
彼女は俺の服を固く握り締め、胸に顔をうずめた。
その直後、騒ぎを聞きつけた公爵と騎士たちが部屋に雪崩れ込み、クラリスは拘束された。
暗闇の中で、エリザベート様は俺だけに聞こえる小さな声で呟いた。
「ねえ、アルス。私はもう、誰も信じない。父様も、メイドも、世界中の誰も……。私には、あなただけがいればいいの。……あなただけが、私を裏切らないでいてくれれば、それでいいの……」
その言葉は、悲しいほどに澄み切っていて——そして、逃げ場のない「呪い」のように重かった。
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