第4話

エリザベート様の魔力暴走を鎮め、無事に部屋から連れ出した俺は、カルロ・フォン・ヴァルハイト公爵の前に再び立っていた。


執務室の重厚なデスク越しに、公爵は信じられないといった様子で俺を見つめている。

その隣には、すっかり落ち着きを取り戻し、なぜか俺の服の裾を小さな手でしっかりと掴んで離さないエリザベート様の姿があった。


「……信じがたい」


公爵が重々しい声を漏らした。


「数々のベテラン魔導士や家庭教師ですら手を焼いていたエリザベートの暴走を、十歳の子供が解決しただと? しかも、怪我一つ……いや、手傷程度で済ませて見せるとは」


「運が良かっただけにございます、公爵閣下。エリザベート様の才能が素晴らしいが故に、魔力の調整が少し繊細だっただけに過ぎません」


俺は深々と頭を下げ、謙虚さをアピールした。

ここで出しゃばっても良いことはない。目指すはあくまで「信頼される無害な専属従者」のポジションだ。


「父様」


不意に、エリザベート様が鈴を転がすような声で公爵を呼んだ。

その声には、以前のような怯えや反抗の色彩は削ぎ落とされていた。


「私は、このアルスを専属従者とすることを望みます。他の者はいりません。……彼以外が私に近づくなら、私は二度と食事も魔法の訓練もしません」


(ん? ちょっと言い方が強気すぎないか?)


一瞬首を傾げたが、まあ幼少期の我儘の範囲内だろうと思い直した。

公爵は眉をひそめ、一審の沈黙ののち、深く溜息を吐いた。


「……よかろう。ローゼンバーグ家のアルス。本日よりお前をエリザベートの専属従者兼、家庭教師補佐として任命する。娘の教育と魔力管理、すべてお前に一任する」


「はっ! 全身全霊を捧げて務め上げます!」


こうして、俺の「幼少期ラスボス更生生活」が正式にスタートしたのだった。


*

それから数週間が経過した。


俺の更生計画は、順調そのもの……のはずだった。


エリザベート様のスケジュールは、本来なら早朝から深夜までぎっしりと詰まった地獄のようなスパルタ教育だ。帝王学、高階級マナー、暗黒魔法、剣術、歴史学……十歳の子供に課すには正気の沙汰ではない量である。


だから俺は、従者の権限と前世の知識をフル活用して、彼女の負担を劇的に減らした。


「エリザベート様、本日の帝王学の講義はここまでとしましょう。公爵閣下には『集中力が限界に達したため、効率を考慮して切り上げた』と報告しておきます」


「えっ……? でも、まだ規定の時間になっていないわ。お仕置きされるわ……」


不安そうに身を縮めるエリザベート様。

原作での彼女は、決められた日課をこなせないたびに暗い部屋へ閉じ込められていた。そのトラウマが残っているのだ。


俺はふっと優しく微笑み、彼女の目の前に皿を置いた。

そこに乗っているのは、俺が公爵城の厨房を借りて手作りした、特製の「イチゴのタルト」だ。


「大丈夫です。責任はすべて私が持ちます。それよりも、今日の勉強の成果は素晴らしかったですよ。特に古代語の解読、完璧でした。ご褒美です」


「……っ! ほ、褒めてくれるの……? 私、失敗しなかった……?」


「失敗どころか、大正解です。エリザベート様は本当に賢くて優秀なお方です。さあ、温かい紅茶もお淹れしましたから、召し上がってください」


エリザベート様は恐る恐るフォークを取り、タルトを一口口に運んだ。

甘みが口いっぱいに広がった瞬間、彼女の深海の瞳がキラキラと輝き始める。


「おいしい……! こんなの、食べたことない……!」


「ふふ、良かったです。甘いものは脳の疲労回復に最適なんですよ。頑張った後は、しっかり休む。これが一番上達する近道です」


俺はそう言いながら、彼女の頭をなでなでした。

最初は照れて顔を赤くしていたエリザベート様だったが、最近ではすっかりこの「頭撫で」に慣れてしまったらしく、俺の手がかかると気持ち良さそうに目を細めるようになった。


(完璧だ……! 過酷な環境を改善し、肯定感を与え、トラウマを先回りして除去する! これで彼女の心は健やかに育ち、闇堕ちルートは完全に消滅する!)


俺は自分の完璧な更生計画に、内心で大満足していた。

原作の冷酷無比な暴君魔王の面影など、いまの彼女には微塵もない。ただの可愛らしい、少し甘えん坊な公爵令嬢だ。


……しかし。

俺は重大な見落としをしていた。

「闇」が抜けた彼女の心に、何が充填されているのかということを。


*

ある日の午後。

俺がエリザベート様の部屋の清掃と、明日の教材の準備をしている時のことだ。


新しく雇われた若手の女メイドが、紅茶のおかわりを持って部屋に入ってきた。


「アルス様、お茶の準備ができました。あ、お仕事お疲れ様です。少し肩に糸くズがついていますよ?」


「おや、本当だ。ありがとうございます、メイドさん」


親切なメイドさんが、俺の肩についたゴミを払ってくれた。ほんの数秒の、ごく普通のやり取りだ。


だが——。


ゾクッ。


突然、部屋の中の気温が急降下した。

第3話で味わったあの「極寒の空気」が、背後から突き刺さるように伝わってくる。


驚いて振り返ると、そこには勉強机に座っていたはずのエリザベート様が立っていた。

その表情から笑みは消え去り、瞳は底知れない闇のような冷たさをたたえている。


「エリザベート様……? どうされましたか?」


俺が尋ねても、彼女は答えない。

彼女の視線は、俺の肩に触れた女メイドの手元に一直線に注がれていた。


「……触ったわね」


ぽつりと、エリザベート様が呟いた。


「え……? あ、あの、エリザベート様……?」

メイドが怯えた声を出す。


「私のアルスに……私のものに、気安く触ったわね?」


ピキッ、と部屋の窓ガラスにヒビが入る。

彼女の周囲から漏れ出す圧倒的な魔力が、以前の「暴走」とは明らかに違う、確固たる「明確な意図(殺意)」を持って渦巻き始めていた。


「あ、あの、エリザベート様!? 彼女はただ親切でゴミを取ってくれただけで——」


俺が慌てて二人の間に割って入ると、エリザベート様の視線が俺に向いた。

次の瞬間、氷のような冷徹さは消え去り、今度はトロリと甘く、そして恐ろしく重い笑みが彼女の唇に浮かんだ。


「そう……アルスがかばうのね? 優しいのね、アルスは。でもダメよ。あなたの体に触れていいのは、私だけなんだから」


「え……?」


エリザベート様はゆっくりと俺に歩み寄り、俺の腰にその小さな腕を回してギュッと抱きついてきた。

子供の抱きつき方ではない。絶対に逃がさないと言わんばかりの、強い力だ。


「アルスは私の専属でしょ? 私を助けてくれて、私を褒めてくれて、私を甘やかしてくれる……私の『世界』のすべてなんだから。他の女に見とれたりしたら……私、どうなっちゃうか分からないわ」


彼女は俺の胸に顔を埋め、クスクスと可愛らしく笑った。

だが、その背後に見え隠れする魔力の波動は、原作のラスボス時代すら凌駕するほどの「粘着質な執着」を孕んでいた。


(……待て)


俺の額から、冷や汗がダラダラと流れ落ちる。


(闇堕ち……してないよな? 世界を滅ぼす魔王ルートは回避したよな? ……なのに、なんで別の意味でヤバい雰囲気が漂ってるんだ!?)


「アルス? これからも、ずっと私だけを見てくれるわよね? 約束してくれたものね?」


上目遣いで俺を見つめるエリザベート様の蒼い瞳。

そこにあったのは、更生された健やかな心……ではなく、俺という存在に異常なまでに依存し、執着する「覚醒したヤンデレ」の光だった。


原作知識のどこを探しても、こんな『アルス執着性ヤンデレルート』なんて存在しない。


「あ、あはは……もちろんですとも、エリザベート様……」


俺の絞り出した声は、極寒の部屋の中で虚しく響くのだった。

こうして、俺の「更生計画」は明らかな狂いを見せ始め、更なる混乱の渦へと巻き込まれていくことになる。

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