第3話
一歩、足を踏み入れた瞬間に、鼓膜を突き破るような風切り音が鼓動を跳ね上がらせた。
あたたかな城の廊下とは完全に遮断された、極寒の空間。
部屋の床も、壁も、天井すらも白銀の薄氷に覆われ、まるで巨大な冷凍庫の中に飛び込んでしまったかのようだ。呼吸を吐き出すたび、白い息が空中で微細な氷の結晶となってサラサラと音を立てて床へ落ちていく。
「くっ……!」
全身の皮膚が一瞬で凍りつくような激痛。だが、俺は足を進めた。
この寒気の正体は、物理的な気温の低下ではない。部屋の中心から波状に放たれている、荒れ狂う「魔力の偏向」そのものだ。
視線を奥へと向ける。
部屋の最奥、豪華な天蓋付きベッドの脇にある小さな隙間に、膝を抱えて丸くなっている少女の姿があった。
エリザベート・フォン・ヴァルハイト。
漆黒の闇を溶かし込んだような美しい艶髪。透き通るほどに白い肌。そして、本来ならば深海のような深い蒼をたたえているはずの瞳は、いまや暴走した魔力の拒絶反応によって、赤く怪しい光を放っていた。
彼女の体から溢れ出す濃密な魔力が、渦を巻いて周囲のあらゆる物質を凍てつかせている。
「来ないで……ッ! 近寄らないでと言っているでしょう、無能どもが……!!」
鋭く、そしてどこか震えた幼い声が部屋に響く。
次の瞬間、空気を切り裂く音とともに、鋭利な氷のつららが数本、俺の足元を目掛けて高速で飛来した。
ドスッ! ドスッ!
床の氷を砕いて刺さる氷柱。爪先からわずか数センチの場所だ。外していなければ、俺の足首は易々と貫かれていただろう。
普通なら、ここで恐怖に気圧されて逃げ出すか、あるいは身を守るために武器や魔法を構えるところだ。先ほどの騎士も、おそらく「制圧」しようとして彼女の防衛本能を過剰に刺激し、吹き飛ばされたのだろう。
だが、俺は違った。
前世で幾度となく画面越しに見つめ、その不遇な生い立ちに胸を痛めた『グラレガ』の知識が、俺の頭脳で冷徹かつ鮮明に答えを弾き出している。
(いまの彼女は、誰かを傷つけたいわけじゃない。己の内に眠る規格外の魔力に恐怖し、暴走する力に怯え、誰からも拒絶されることを恐れて『近づくな』と威嚇しているだけだ)
幼少期のエリザベートの魔導回路は、その膨大な魔力容量に対してあまりにも細く、未発達だ。
例えるなら、家庭用の細い水道管に、ダム一基分の激流を強引に流し込んでいるようなもの。出口を失った魔力が体内で渦巻き、激痛と精神異常を引き起こしている。
公爵家が彼女に施してきた「弱音を吐くな」「魔力を力づくで抑え込め」という拷問のような教育は、膨らみ続ける風船の口を縛り上げ、破裂を待つような愚行に過ぎなかった。
俺は構えていた姿勢を解き、両手をゆっくりと広げて「敵意がないこと」を示した。
そして、一歩、また一歩と、氷のつららが敷き詰められた床を歩み進める。
「な……なになの!? あなた、頭がおかしいの!? 死にたいの!?」
エリザベートの瞳に、困惑と焦燥の色が混じる。
彼女の周囲を包む氷の嵐がさらに威力を増し、俺の肌を刃物のように切り裂いていく。頬から一筋の血が伝い、極寒の空気の中で凍りついてポロリと落ちた。
痛い。激痛だ。だが、立ち止まるわけにはいかない。
「エリザベート様」
俺は穏やかに、しかし部屋の騒音に負けないようハッキリとした声で呼びかけた。
「お苦しいですね。体が熱くて、頭が割れそうに痛くて、周囲のすべてが恐ろしいのでしょう?」
「……っ!? な、何を勝手なことを……! 私を煽りに来たの!? お父様に言われて、私を『落ちこぼれの化け物』だと笑いに来たのね!?」
「いいえ」
ついに、俺は彼女の目線と同じ高さまで腰を落とした。
距離にして、わずか数十センチ。
彼女から放たれる膨大な魔力の波動が、俺の全細胞を拒絶するように叩きつけてくる。立っていることすら奇跡的な状況だ。
「私は、あなたを助けに参りました。アルス・ローゼンバーグと申します。今日より、あなたの専属従者となる者です」
「嘘よ! 誰も私を助けられない! お前もどうせ、私を恐れて逃げ出すんだわ! 私に触ったら、腕が凍りついて腐り落ちるわよ!!」
泣き叫ぶような彼女の警告。
俺はそれに答える代わりに、ゆっくりと右手の皮手袋を外した。
素手を晒し、そのまま——暴走する魔力の中心である、彼女の小さく凍え切った手に向かって、迷わず手を伸ばした。
「やめ——」
ぎゅっと、その手を包み込む。
直後、脳裏が白く染まるほどの衝撃と痛みが走った。
冷気と魔力の奔流が俺の右手に流れ込み、皮膚の感覚が一瞬で吹き飛ぶ。凍傷の痛みが神経を焼き切ろうとする。
だが、俺は歯を食いしばり、絶対にその手を離さなかった。絶対に、逃げなかった。
「……ッ、が……ふっ……!」
「な、なんで……!? 離しなさいよ! 死んじゃうわよ!? どうして手を離さないのよ!!」
エリザベートが目を見開き、パニックを起こして俺の腕を払おうとする。
俺は掴んだ手にゆっくりと自分の魔力を注ぎ込み始めた。
ただし、攻撃でも制圧でもない。
前世で学んだ『グラレガ』の魔力調和理論——相手の魔力波形に自分の魔力を同調させ、優しく包み込んで外部へ逃がす「バイパス作戦」だ。
「エリザベート様……息を、吐いてください。吸うのではなく、長く、ゆっくりと……」
「え……?」
「大丈夫です。あなたの魔力は『化け物の力』などではありません。あまりに大きくて、優しすぎる、最高の才能です。……私に、半分預けてください」
俺は同調させた魔力を使い、彼女の体内で塞き止められていた魔力の「結び目」を、解きほぐすように優しく誘導した。
溢れ出していた暴走魔力が、俺の手を経由して空気中へと緩やかに拡散されていく。
部屋を支配していた狂暴な風が、嘘のように止んだ。
壁や床を覆っていた氷が、パキパキと音を立てて小さな光の粒となり、消え去っていく。
「あ……あ……」
胸の圧迫感と頭痛から解放されたエリザベートは、ぽかんとした表情で自分の手を見つめ、それから俺の顔を見上げた。
赤く染まっていた彼女の瞳が、少しずつ清廉な深海の蒼へと戻っていく。
「痛みが……なくなった……?」
「はい。もう大丈夫です」
俺は凍傷で感覚のなくなった右手で、ポケットからあらかじめ用意していた保温効果のある小さな魔法石(安物だが、効果はある)を取り出し、彼女の手に握らせた。
「お寒かったでしょう。……よく、耐えられましたね。お見事でした、エリザベート様」
そう言って、俺は彼女の頭にそっと手を置き、優しく撫でた。
「っ……!?」
エリザベートの体がビクッと跳ね上がった。
生まれて初めて受けたであろう、「肯定」と「頭を撫でられる」という行為。
彼女は真っ赤な顔をして俺の手を見つめ、それから信じられないものを見るような目で俺を凝視した。
「な……な、何をするのよ不敬者! 私の頭に勝手に触るなんて……っ!」
怒鳴ろうとしているが、その声には先ほどまでの殺気も拒絶も存在しなかった。ただひたすらに狼狽し、戸惑っているだけだ。
さらには、握られた俺の手を振り払おうともせず、むしろぎゅっと握り返してきていることに、本人は気づいていないらしい。
(よし……! 第一関門、完全突破だ!)
俺は心の中でガッツポーズを決めた。
これで死亡フラグは回避した。彼女に「こいつは味方だ」と認識させることに成功したのだ。
これからは彼女を健全に甘やかし、メンタルケアを行い、立派で心優しい公爵令嬢に育て上げればいい。
……ただ、俺はこの時、まだ気づいていなかった。
彼女の深海の瞳の奥に、解放された安らぎとともに「異常なまでの熱量」が宿り始めていたことに。
「ねえ……あなた」
「はい、エリザベート様」
「名前……もう一度言いなさい」
「アルスです。アルス・ローゼンバーグ」
「アルス……」
エリザベートは、噛み締めるようにその名を呟くと、俺の手を両手で抱え込むようにして胸元に引き寄せた。
「あなたは……私を捨てないのね? 私を『化け物』って言わないのね?」
「勿論です。命に代えても、お側でお支えいたします」
死亡フラグを折るための、ごく一般的な忠誠の言葉。
だが、幼いラスボスの心に刺さったその言葉は、俺の想像を遥かに超える勢いで「歪んだ種」を芽吹かせてしまったのだった。
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