第12話 力の差
2年11月18日
リクの部屋は、いつも几帳面に片付いていた。
本棚の本は背の高さ順に並び、机の上にはノートパソコンとペン立てしかない。フローリングの真ん中に敷いたベージュのラグには、髪の毛一本落ちていない。ローテーブルの上に、一般教養の共通課題のプリントが広げてあった。レポートは二人一組で、リクとアキラが同じ組になっていた。
アキラはローテーブルの向かいで、ラグの上にあぐらをかいていた。白いニットに、ジーンズ。ノートパソコンの画面を覗き込んで、「ここ、参考文献どう書くんだっけ」と聞いてくる。リクは書式の例を示してやった。
作業が一区切りつくと、アキラが缶コーヒーを開けながら言った。
「ユウトの誕生日、楽しかったよな」
六日前、十一月十二日。ユウトの二十歳の誕生日に、四人で駅前の居酒屋に集まった。ユウトは初めてのビールを一口飲んで「苦っ」と顔をしかめ、シュンが「大人の味だろ!」と背中を叩いた。リクだけが、まだウーロン茶だった。
その日、アキラはネイビーのニットワンピースを着てきた。文化の日にユウトに買ってもらったのだと、照れくさそうに言っていた。
リクは覚えている。そのワンピースで、アキラは座敷の座布団の上に横座りしていた。膝丈の裾から、タイツの脚が伸びていた。隣の席の男性客たちが、何度もこちらを見ていた。アキラは三杯目のサワーのあたりから、隣のシュンの肩にもたれて笑っていた。
「楽しかったけどな」
リクはため息をついた。
「あのワンピースで、床に座るな」
「え?」
「座敷で横座りしてただろう。隣の席の男たち、ずっとお前の脚を見てた」
「えー、見てねーよ」
「見てた。それと、酔って男の肩にもたれるな」
「シュンだろ、あれ」
「シュンでもだ。お前は隙だらけだ」
リクの小言はいつもどおり淀みなく続いた。アキラは缶コーヒーを両手で持ったまま、困ったように笑った。
「リク、大げさだって。俺男だし、そんな心配しなくても平気だぞ」
リクは、もう一度ため息をついた。
それから、立ち上がった。
ローテーブルを回り込む。アキラが「ん?」と顔を上げた。リクはアキラの肩を押した。アキラの体は、驚くほど簡単に後ろへ倒れた。背中がラグに落ちる。缶コーヒーが手から転がって、ラグの端で止まった。
リクは片手で、アキラの両手首をまとめて掴み、頭の上で床に押さえつけた。
細い手首だった。二本まとめても、リクの片手に収まった。
もう片方の手で、アキラのニットの裾を掴み、胸元まで捲り上げた。
白いブラジャーと、白い腹が露わになった。腹は薄く、呼吸に合わせて上下していた。臍の窪みが、蛍光灯の光の下で小さな影を作っている。
リクの手は、そのままアキラのジーンズのボタンにかかった。
そこで、止まった。
数瞬の間、リクは動かなかった。アキラを見下ろしたまま、ボタンに指をかけたまま、息だけをしていた。
アキラは目を見開いて、リクを見上げていた。抵抗しなかった。声も出さなかった。押さえつけられた手首に、力も入れていなかった。ただ、黒い瞳がリクの顔を映していた。
リクはぱっと手を離した。
体を起こし、アキラから離れる。
「これくらい、力の差があるんだ。分かったか」
言いながら、リクは元の席に戻った。ラグの上にあぐらをかき直し、ローテーブルの上のプリントを揃える。
「だから、あのワンピースで床に座るなと言ってるんだ」
小言の続きに戻った。いつもと同じ声が出たことに、リクは安心した。
アキラはしばらく、仰向けのまま天井を見ていた。やがて、捲れたニットを下ろし、ゆっくりと起き上がった。転がった缶コーヒーを拾い、テーブルの上に置く。
「……分かったよ」
そう言ってから、アキラは弱く笑った。
「リク、マジでびびったわ」
「びびらせるためにやったんだ」
リクはノートパソコンの画面に目を戻した。
「続き、やるぞ。考察の二段落目」
「……おう」
二人はレポートに戻った。アキラは少しの間、ニットの袖を指先で引っ張っていたが、やがてそれもやめて、参考文献の書式を打ち込み始めた。リクが誤字を指摘し、アキラが「細けー」と言った。いつもの会話だった。
二十二時、レポートの草稿が仕上がった。アキラは「じゃ、残りは明日な」と言って、コートを羽織って帰っていった。
ドアが閉まる。
リクは玄関に立ったまま、自分の右手の手のひらを見下ろした。
アキラの手首の細さが、まだ残っていた。親指と中指で、ぐるりと一周できそうな細さだった。左手には、捲り上げたニットの下の、白い肌の色が残っていた。
リクは手を握り、開いた。
必要な教育だった、とリクは結論づけた。
言葉で何度言っても、アキラには伝わらなかった。だから、体で分からせた。男の力がどれだけのものか。自分がどれだけ簡単に押さえつけられるか。それを知れば、アキラも少しは警戒するようになるだろう。
そして自分は、ちゃんと止まった。止まれる人間だ。
リクはそれを、自分の理性の証明だと思った。
洗面所で手を洗った。石鹸を泡立てて、指の間まで丁寧に洗った。タオルで拭いて、部屋に戻る。ラグの上に、アキラの座っていた跡が、まだ少しだけ窪んで残っていた。
リクはそれを手のひらで撫でて、平らにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます