第10話 二次会

2年9月22日


 旅行サークルの夏合宿の打ち上げは、駅前の居酒屋の座敷を貸し切って開かれた。


 長いテーブルが三列並び、部員が三十人ほど、ぎゅうぎゅうに座っている。合宿先の島で撮った写真がスマホからスマホへ回され、あちこちで笑い声が上がっていた。


 リクはテーブルの端で、ウーロン茶のグラスを傾けていた。十九歳だ。周りに何度勧められても、リクは首を横に振り続けた。


 アキラは斜め向かいの席にいた。一杯目の生ビールを空け、二杯目にレモンサワーを頼み、すでに顔が赤い。膝丈のハーフパンツで、座布団の上にあぐらをかいている。隣の同級生の女子と、合宿で見た海の話をしていた。


 リクの目は、何度もアキラの方へ向いた。


 あぐらをかいたハーフパンツの裾が、太ももの付け根近くまでずり上がっている。そこから伸びる白い脚。アキラが体を揺らして笑うたびに、裾が動く。リクはそれを見ていた。三年の先輩の男が、同じテーブルの向こうから、同じものを見ていることにも気づいていた。


 二十一時、一次会がお開きになった。


 部員たちがぞろぞろと店の外に出て、歩道に溜まる。二次会はどうする、カラオケか、もう一軒か、と声が飛び交っている。リクが靴を履いて外に出ると、店の前の街灯の下に、嫌な光景があった。


 三年の男の先輩が三人、アキラを囲んでいた。


「浅木さん、二次会カラオケ行こうよ」


「一年の時から思ってたけどさ、浅木さんって声いいよね。歌うまそう」


 一人がアキラの二の腕を掴んで、軽く引いている。アキラは困った顔で笑っていた。


「いや、俺、今日はちょっと……」


「いいじゃんいいじゃん、一曲だけ」


 断りきれずにいる。四月の居酒屋の前と、同じ顔だった。


 リクは人の間を抜けて歩いていき、アキラの手首を掴んだ。


「帰るぞ」


 そのまま引く。先輩の手が、アキラの二の腕から外れた。


「結城、過保護かよ」


 先輩の一人が笑った。


「こいつ、明日一限なんで」


 リクは表情を変えずに言った。アキラに明日の一限はない。リクはアキラの時間割を知っている。嘘だった。


「あ、そうなんだ。じゃあ仕方ないね」


 先輩たちはあっさりと引き下がり、他の女子部員の方へ流れていった。リクはアキラの手首を掴んだまま、駅と反対の方向へ歩き出した。


「……リク、手、痛い」


 リクは手を離した。


 大通りを外れると、急に静かになった。九月の夜はまだ生ぬるく、アスファルトから昼の熱が立ち上っている。アキラは少しふらつきながら、リクの半歩後ろを歩いた。


「あれは完全に狙われてる」


 リクは前を向いたまま言った。


「えー、ただカラオケ誘われただけだろ」


「腕を掴まれてただろう。掴まれたら、すぐ振りほどけ。笑ってるから、相手が調子に乗るんだ」


「はい」


「それと、酒の量を考えろ。ビール一杯で赤くなるくせに、サワーまで飲んでただろう」


「はい」


「あと」


 リクは一度、息を吐いた。


「座る時に足を開くな。座敷であぐらをかいてただろう。ハーフパンツでも、中が見えてるんだ」


「え、マジで?」


 アキラが自分の裾を見下ろした。


「マジだ」


「うわ、恥ず……」


 アキラは少し黙り、それから吹き出した。


「リク、母ちゃんかよ」


「親友だから言ってるんだ」


 リクは即座に言った。言ってから、その言葉の正しさに満足した。そうだ。親友だから言っている。他の誰も、アキラにこんなことは言わない。


 歩きながら、リクは一次会の間のことを思い出した。自分がずっと、アキラの太ももを見ていたこと。


 あれは、監視していたのだ、とリクは記憶を整理した。


 先輩たちの視線がアキラのどこに向いているのか、それを見張っていた。だから、アキラの脚に目が行っていた。それだけのことだ。リクはそう整理して、それで片付けた。


「てかさ、リク、今日一回も飲まなかったよな。えらいよな」


「ルールだ」


「二月で二十歳だっけ。そしたら一緒に飲もうぜ」


「気が向いたらな」


 アキラのアパートの前に着いた。アキラは外階段の手すりに掴まって、振り返った。


「送ってくれてサンキュ」


「部屋に入ったら、鍵を閉めろ。閉めたら、ツナグで報告しろ」


「えー、なにそれ」


「いいから」


「はいはい」


 アキラは笑いながら階段を上がっていった。ドアの閉まる音がした。


 リクはアパートの前で、スマホを手に持ったまま待った。


 一分。二分。


 三分後、手の中のスマホが震えた。アキラとの個人チャットだった。


『閉めた』


 その下に、敬礼をしている犬のスタンプが一つ。


 リクは画面を見下ろした。


 胸の奥に、深い満足が広がった。温かく、重たい、腹の底まで沈んでいくような満足だった。アキラが、自分の言ったとおりに鍵を閉め、自分の言ったとおりに報告してきた。


 これでいい、とリクは思った。親友として、正しいことをした。


 リクは『よし』とだけ返し、スマホをポケットに入れた。二階の窓に明かりがついているのを確かめてから、自分のマンションへ歩き出した。


 帰り道、リクは何度かポケットの上からスマホに触れた。そこに『閉めた』の三文字が入っていることを、確かめるように。

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