第8話 夜道
2年7月10日
二十三時を過ぎたところで、シュンの部屋の宴会はお開きになった。
前期の試験が近いというのに、四人は夕方から『乱闘ヒーローズ』のトーナメントをやり、コンビニの揚げ物を食べ散らかし、アキラとシュンは缶チューハイを三本ずつ空けた。ローテーブルの上には空き缶とレシートの山ができている。リクはそれをゴミ袋に放り込みながら言った。
「アキラ、送る」
玄関でスニーカーのかかとを踏んでいたアキラが、振り返った。
四人で遊んだあとにリクがアキラを送ると言い出したのは、これが初めてだった。
「リク紳士〜」
シュンがベッドの上から茶化した。リクは無視した。
「いいよ、近いし」
「近いから送るんだろう。帰り道のついでだ」
リクのマンションは、アキラのアパートとは反対の方向にある。ついで、は嘘だった。アキラは少し首を傾げたが、「じゃあ、よろしく」と言ってドアを開けた。
外は昼間の熱がまだ残っていて、蒸し暑かった。
アキラのアパートまでの近道は、公園の脇を抜ける細い道だった。片側は公園の植え込み、もう片側は古い倉庫の塀が続いている。街灯は五十メートルおきに一本しかなく、その間は足元がやっと見えるくらいの暗さだった。
アキラは黒のタンクトップに、男物のハーフパンツを履いていた。タンクトップの肩紐の脇から、白い肩が出ている。首筋に汗が光っていた。缶チューハイのせいか、足取りが少しふわふわしている。
「夜道は気をつけろよ」
リクはやんわりと言った。
「は? 俺――」
アキラが何か言い返そうとした。
「今は男じゃ……」
リクはそこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。
二人の間に、数秒の沈黙が落ちた。植え込みの奥で、虫が鳴いている。遠くの国道を、トラックが一台走り抜けていく音がした。
「何言ってんだよ」
アキラが笑って、沈黙を破った。
「いや、何でもない」
リクもそう返した。
二人はまた歩き出した。アキラが前期の試験の範囲の話を始め、リクは適当に相槌を打った。
街灯の下を通り過ぎる時、リクはアキラのうなじを見た。短く刈った髪の生え際から、細い首が伸びている。汗で湿った肌が、白い光を鈍く跳ね返していた。
街灯を過ぎると、また暗くなる。
この暗い道で、とリクは思った。もし今、植え込みの陰から誰かが出てきて、アキラの腕を掴んだら。
想像の中で、知らない男の手がアキラの細い手首を掴む。アキラは振りほどこうとする。振りほどけない。前のアキラなら簡単に振りほどけた手を、今のアキラはどうすることもできない。引き寄せられ、塀に押しつけられて、アキラは抵抗できない。
その想像に、リクは強い感情を覚えた。
胸の奥が熱くなり、脈が速くなった。喉が渇いた。
心配だ、とリクは判断した。
これは、心配だ。
アキラは酔うと隙だらけになる。四月の居酒屋でも、知らない男にあっさり道を塞がれていた。あの時、アキラは笑っていた。困った顔で、笑っていただけだった。
こいつは、自分が女だという自覚がない。危機感がまるでない。
誰かが教えなければならない。
それができるのは、親友の俺だけだ。
リクは自分にそう言い聞かせた。言い聞かせると、胸の中の熱いものに、きちんとした名前がついた気がした。責任感。保護。友情。リクはそれで納得した。
「リク? 聞いてる?」
「聞いてる。民法の範囲だろう」
「刑法って言ったんだけど」
「……刑法だな」
アキラが吹き出した。
アパートの前に着いた。アキラは外階段の一段目に足をかけて、振り返った。
「サンキュ。気をつけて帰れよ」
「お前がな」
「俺はもう家だっつーの」
アキラは笑いながら階段を上がっていった。サンダルの音が、かん、かん、と鉄の段に響く。二階の廊下の奥で、鍵を開ける音がした。ドアが開き、閉まる。
リクは下から、その部屋の窓を見上げた。
数秒後、カーテンの隙間に明かりがついた。
リクはそれを確かめてから、踵を返した。
自分のマンションまでは、歩いて二十五分かかった。来た道を戻り、シュンのアパートの前を通り過ぎ、大学の正門の前を通り過ぎた。蒸し暑い夜で、シャツの背中がじっとりと汗で貼りついた。
歩きながら、リクはさっきの想像を何度か思い返した。暗い道。掴まれる手首。抵抗できないアキラ。
思い返すたびに、同じ熱が胸に戻ってきた。
心配だ、とリクはもう一度思った。こんなに心配になるのだから、やはり自分が気をつけてやらなければならない。
マンションのエントランスに着いた時には、零時を回っていた。
リクは自分の部屋に入り、シャワーを浴び、明日の講義の準備をしてから、きっちりと布団に入った。目を閉じると、街灯の下の白いうなじが浮かんだ。
リクは寝返りを打ち、それを頭から追い払った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます