第7話 膝の上

2年6月10日


 梅雨に入って三日目だった。


 四限が終わると、シュンは傘を差して大学を出て、自分のアパートとは反対の方向へ歩いた。リュックの中で、携帯ゲーム機と充電器がかたかた鳴っている。


『今から行く』


『おー』


 アキラの返事は三秒で来た。


 二階建てのアパートの外階段を上がり、二階の角部屋の呼び鈴を押す。「開いてるー」という声がして、シュンはドアを開けた。


「お邪魔しまーす」


 アキラの部屋は、シュンの部屋よりずっと片付いていた。床に物が落ちていない。ベッドの上の掛け布団も、ちゃんと形になっている。その枕元に、見覚えのある白いものが置いてあった。四月にユウトがクレーンゲームで取った、アザラシのぬいぐるみだ。


「うわ、女子の部屋っぽくなってんじゃん」


「ぬいぐるみ一個だろ」


「一個でも置いてる時点でアウトだろ」


「何がアウトなんだよ」


 アキラは床にあぐらをかいて、もう自分のゲーム機を起動していた。部屋着は男物の大きなTシャツと、裾の広い男物のハーフパンツだった。ハーフパンツの裾から、白い膝と脛が出ている。


 窓の外で雨の音が続いていた。二人は並んで座り、同じゲームで協力プレイを始めた。巨大なモンスターを二人がかりで追い回す。アキラが回復薬を飲むタイミングを間違え、シュンが「なにやってんだよ!」と叫ぶ。いつもの時間だった。


 一時間ほどして、シュンは首をぐるりと回した。


「首いてー。枕貸せ」


 返事を待たずに、シュンはアキラのあぐらの膝に頭を乗せて寝転がった。高校の頃から、シュンは誰の太ももでも勝手に枕にしてきた。ユウトの時も、リクの時も、アキラの時も。今までと同じことをしただけだった。


 頭の下の太ももが、柔らかかった。


 温かかった。ハーフパンツの薄い生地越しに、体温がじかに首筋へ伝わってくる。前にアキラの膝を枕にした時は、骨ばっていて硬かった。今は違う。後頭部がやわらかく沈み込む。


 見上げると、ゲーム画面を見下ろすアキラの顎の線があった。その手前を、Tシャツ越しの胸の膨らみが塞いでいる。視界の半分が、それで埋まっていた。雨の湿った匂いに混じって、アキラの肌の匂いがした。石鹸と、少し汗の混じった、甘い匂いだった。


 触りたい、とシュンは思った。


 もっと近くにいたい。この柔らかいところに、顔を埋めてみたい。


 それは、はっきりとした欲だった。


「お前の太もも、最高の枕だな!」


 シュンは大声で言った。


「重い、どけ」


 アキラはゲーム画面から目を離さずに言った。言っただけで、膝をどかそうとはしなかった。シュンもどかなかった。シュンは寝返りを打ち、アキラの膝の上で顔の向きを変えて、「このまま寝るわ」と冗談を言った。アキラは「寝たら落とす」と笑った。


 しばらくそうしてから、シュンは起き上がった。アキラはまたゲームに集中している。シュンはアキラの後ろに回り込み、その背中に寄りかかった。顎をアキラの肩に乗せて、画面を覗き込む。


「そこ、右から回り込め」


「分かってるって。邪魔」


 アキラは笑うだけで、シュンを押しのけなかった。


 胸と背中がくっついている。Tシャツ一枚越しに、アキラの体温が伝わってくる。肩甲骨の間あたりに、下着の線の硬い感触があった。シュンは顎を乗せたまま、画面の中の自分のキャラクターを適当に動かした。


 膝枕も、背中に寄りかかるのも、高校の頃に四人の誰にでもやっていたことだった。だから誰にも咎められない。アキラにも、自分にも。


 シュンはそれを分かっていた。分かったうえで、今まで通りの無遠慮なダチの顔をして、その中に自分の欲を紛れ込ませていた。


 女の体って、やっぱすげーな。


 シュンは素直にそう思った。


 でも、アキラはダチだ。


 それも本当だった。


 二つの気持ちは、シュンの中で何もぶつからずに並んでいた。男なんだから、女の体に反応するのは当然だ。それとアキラがダチであることは、別の話だ。男同士なんだし、このくらいのノリは今までだってやってきた。両立して当たり前だと、シュンは思っていた。


 雨は夜になっても止まなかった。二人はコンビニの弁当を買いに行き、戻ってきてまたゲームをした。二十二時を過ぎた頃、シュンは大きく伸びをした。


「帰るわ」


 玄関で靴を履いていると、アキラが後ろから顔を出した。


「また来いよ」


「おう、明後日来るわ」


 ドアを開けると、外廊下に雨の匂いが満ちていた。シュンは傘を開き、外階段を降りた。


 アパートの前の道で、一度だけ二階を見上げた。アキラの部屋の窓に、明かりがついている。


 首の後ろに、まだ太ももの温かさが残っている気がした。シュンは傘を肩に担ぐようにして、水たまりを避けずに歩いた。


 罪悪感は、どこにもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る