2章 欲望

第6話 車道側

2年5月18日


『スニーカー見に行きたいんだけど誰か付き合って』


 土曜の朝、ユウトが『いつもの』に送ると、返事は三つ来た。


『バイト』

『塾。夕方まで』

『行く』


 最後の一つがアキラだった。二人きりになったのはただの偶然で、ユウトもそれ以上のことは何も考えていなかった。


 昼過ぎ、市街地の商店街のアーケードを二人で歩いた。スポーツ用品店を三軒回って、ユウトは白いスニーカーを一足買った。アキラは店の姿見の前で男物のパーカーの裾を引っ張り、ため息をついた。


「男物、全部デカくてさ。なんかもう、全部着られてる感じ」


「サイズ合うの買えばいいじゃん」


 ユウトはバイト先の癖で、通りの向かいのユニセックスの服屋に目をやった。


「あそこ、メンズのXSあるよ。行こうぜ」


 店に入ると、ユウトは棚から無地のTシャツを何枚か抜き出し、アキラの体に当てた。紺と、白と、くすんだ緑。


「これ着てみ。XS」


「XSとか着たことねーよ」


 アキラはぶつぶつ言いながら試着室に入った。カーテンの向こうで、衣擦れの音がする。


 カーテンが開いた。


 紺のTシャツが、アキラの体にぴたりと沿っていた。胸の膨らみを、そのまま丸くなぞっている。その下で生地がすとんと落ちて、驚くほど細い腰の位置が分かる。袖から出た肩は、なだらかに丸かった。


 ユウトは目を奪われた。


 温泉で浴衣姿を見て「可愛い」と思った時とは、違っていた。あれは驚きだった。今、ユウトの中にあるのは、もっとはっきりしたものだった。


 ――俺は今、こいつを女として見ている。触りたいと思った。


 ユウトはその自覚を、自分でもはっきりと聞いた。


 そして、ほとんど同じ速さで、それを包んだ。


 急に体が変わって、服も合わなくて、困ってるんだ。親友として気を遣ってやるのは当たり前だろ。


 ユウトはその理由を、本気で信じた。信じてしまえば、胸の中のざわつきは、友達を心配する気持ちと見分けがつかなくなった。


「……どう?」


「いいじゃん。サイズぴったり。そっちの方が絶対いいって」


「そっか。なんか、ぴったりすぎて落ち着かねーけど」


 アキラは鏡の前で体をひねり、紺と白の二枚を買った。


 店を出て、アーケードを並んで歩く。ユウトは自然に車道側へ回り、アキラを店の並ぶ内側に歩かせた。途中で見つけたカフェの前では、先に立ってドアを押し開け、アキラが通り抜けるまで押さえていた。アキラの買い物袋は、店を出た時からユウトの手にあった。


 カフェでアキラが頼んだのは、ホイップクリームがこんもりと盛られた甘いドリンクだった。


「前はブラックしか飲まなかったくせに」


「なんか甘いもん美味く感じるようになったんだよ。舌も変わったのかな」


 アキラは太いストローでクリームを吸い上げ、満足そうに息をついた。上唇に、白いクリームが少しついていた。


「ついてる」


 ユウトが自分の口元を指差すと、アキラは「ん」と言って、舌先でぺろりとそれを舐め取った。


 ユウトはその舌から目を逸らし、自分のコーヒーを一口飲んだ。


 窓の外を、休日の人の流れが過ぎていく。二人は大学の講義の話をし、シュンのバイト先の店長の悪口で笑い、リクの几帳面さについて意見を一致させた。ふとアキラが、ストローを咥えたまま、面白そうにユウトを見た。


「お前、今日なんか紳士じゃね? ドア開けたりさ」


「いつもだろ」


 ユウトは笑って流した。


「そっか」


 アキラはあっさり納得して、笑った。


 夕方、ユウトはアキラを車で送った。大学近くの二階建てのアパートの前に車を停めると、アキラはシートベルトを外し、後部座席から買い物袋を取った。


「今日、付き合ってくれてサンキュな。また行こうぜ」


「おう、いつでも」


 アキラは袋を振って外階段を上がっていった。二階の廊下の奥で、ドアが閉まる音がした。


 ユウトはしばらくエンジンをかけたまま、フロントガラス越しにその二階の窓を見上げていた。やがて明かりがついた。


 帰り道、郊外へ向かう県道を走りながら、ユウトは今日一日のことを思い返した。試着室のカーテンが開いた瞬間のことは、なぜかあまり思い出さなかった。思い出すのは、「男物、全部デカくてさ」と言ったアキラの、少し困ったような顔だった。


 あいつは、困ってるんだ。


 服のことだけじゃない。歩く速さも、声も、周りの目も、全部が急に変わって、それでもあいつは何でもない顔をして笑っている。


 これからは、あいつが困らないように、俺が気をつけてやろう。


 ユウトはハンドルを握り直して、そう決めた。それは親友として当然の気遣いで、純粋な友情だと思った。


 赤信号で止まり、助手席を見た。誰も座っていないシートに、アキラが座っていた時の窪みがまだ残っている気がした。


 信号が青に変わった。ユウトはアクセルを踏んだ。

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