第3話 平穏の代償
神代悠里と付き合っている。
――そんな噂は、俺が思っていたよりずっと早く城南高校中に広まったらしい。
翌朝。
教室へ入った瞬間、それを嫌というほど思い知らされた。
「…………」
視線。
また視線。
さらに視線。
女子はひそひそ。
男子は露骨にこっちを見ている。
「……なんだよ」
思わず呟いた。
昨日までこんなことはなかった。
「相河」
「何」
席へ向かおうとしたところで、クラスメイトの男子に呼び止められた。
「お前……神代さんと付き合ってんの?」
「…………まあ」
偽物だけど。
当然、そんなことは言えない。
「マジかよ……」
「なんでお前が落ち込むんだよ」
「男子代表として」
「勝手に代表になるな」
「だって神代さんだぞ?」
「知ってる」
「神代悠里だぞ?」
「本人から聞いてるから知ってる」
「くっ……!」
「なんで悔しがる」
朝から面倒くさい。
とはいえ。
騒がしいのは噂だけだった。
一時間目が始まれば普通に授業。
二時間目も普通。
三時間目も、別に何も起こらない。
休み時間になるたびに誰かがちらちら見てくる程度。
「……まあ」
これくらいなら。
思っていたより大したことはない。
昨日の時点では、この偽装交際のせいで何か大事件でも起きるんじゃないかと思っていたが。
結局、噂なんて最初だけだ。
何日かすれば飽きる。
「案外、普通に過ごせそうだな」
そう思った。
昼休みまでは。
◇
「相河」
「ん?」
昼休み。
弁当を取り出そうとしたところで、友人が俺の机に寄ってきた。
「今日、学食行かない?」
「珍しいな」
「なんとなく」
「まあいいけど」
財布を持ち、教室を出る。
廊下を歩けば相変わらず視線は感じる。
でも朝よりは慣れてきた。
じろじろ見られるだけなら、まだどうということもない。
「相河」
「何」
「お前、本当に神代さんと付き合ってるんだな」
「その話まだする?」
「いや……なんか現実味なくて」
「俺にもないよ」
「え?」
「なんでもない」
危ない。
余計なことを言うところだった。
そのまま学食へ向かう。
昼休みの食堂は相変わらず混んでいた。
なんとか席を確保し、俺はカレーを注文する。
「やっぱ学食といえばカレーだよな」
「それ毎回言ってない?」
「気のせい」
席に戻り、スプーンを持つ。
ようやく一息つける。
――はずだった。
「相河くん」
「…………」
聞き覚えのある声。
顔を上げる。
神代悠里が立っていた。
「何」
「ずいぶんな反応ね」
「いや、別に」
「ここ、空いてる?」
「見れば分かるだろ」
「じゃあ座るわね」
「聞いた意味」
悠里は俺の向かいへ座った。
手にしているのは、綺麗に包まれた弁当箱。
俺の友人が固まっている。
「…………」
「どうした?」
「いや……」
悠里を見て。
俺を見て。
もう一度悠里を見る。
「俺、席外そうか?」
「なんで?」
「邪魔かなって」
「邪魔じゃないけど」
「じゃ、じゃあ俺、購買見てくるわ!」
「お前もう昼飯あるだろ」
逃げるように去っていった。
「変な人ね」
「お前が来たからだろ」
「私?」
「自覚ないのか」
悠里は首を傾げる。
本気で分かっていないらしい。
「まあいいけど」
俺はカレーを一口食べた。
「神代は弁当?」
「ええ」
「家の人が作ったの?」
「今日は私」
「へえ」
「何よ、その反応」
「いや。料理するんだなと思って」
「するわよ」
「神代家のお嬢様だから、料理人が全部やるのかと」
「料理人はいるけど」
「いるのかよ」
「でも自分で作るのも好きなの」
悠里が弁当箱を開ける。
卵焼き。
唐揚げ。
野菜。
見た目もかなり綺麗だ。
「普通に上手いな」
「普通って何?」
「褒めてる」
「もっとちゃんと褒められないの?」
「美味そう」
「……それならいいわ」
少し満足そうに笑う。
なんというか。
話していると、思っていたより普通だ。
遠くから見ていた神代悠里は、もっと近寄りがたい印象だった。
いつも背筋を伸ばしていて。
表情もあまり崩さなくて。
いかにも名家のお嬢様という感じで。
でも実際は――。
「何?」
「いや」
「今、失礼なこと考えたでしょう」
「考えてない」
「嘘ね」
「お前、意外と普通だなと思っただけ」
「それが失礼なのよ!」
「褒めてる」
「全然褒めてない!」
思わず笑う。
「ふっ」
「今笑った?」
「少し」
「……あなた、本当に失礼ね」
そう言いながら。
悠里も少しだけ笑っていた。
その表情を見て。
俺は一瞬だけ思った。
ああ。
こういう顔もするんだな、と。
神代家のお嬢様。
学園でも有名な美少女。
そんな肩書きではなく。
ただの神代悠里として。
初めて少しだけ見えた気がした。
「…………」
「相河くん?」
「何」
「ぼーっとしてる」
「してない」
「してたわよ」
「気のせい」
誤魔化すようにカレーを食べる。
その時。
ふと。
背中に妙なものを感じた。
「…………」
なんだ?
振り返る。
食堂のあちこち。
男子生徒たちが、こっちを見ていた。
一人。
二人。
三人。
いや。
もっといる。
目が合った。
そらされた。
別の方向を見る。
また目が合う。
今度はそらされない。
睨まれた。
「……神代」
「何?」
「なんか……視線が痛いんだけど」
「今さら?」
「今さら?」
「私たち、付き合ってることになってるんでしょう?」
「そうだけど」
「なら仕方ないんじゃない?」
「お前には向いてないから平気なんだよ」
改めて周りを見る。
女子の視線は、どちらかといえば好奇心。
男子の視線は――。
明らかに違う。
嫉妬。
不満。
恨み。
そんなものが混ざっている。
「……思ったより敵多いな」
「相河くんも女子から人気あるでしょう?」
「俺はこんな睨まれ方したことない」
「そのうち慣れるわよ」
「慣れたくない」
悠里は小さく笑う。
「楽しそうだな」
「少し」
「他人事だと思って」
「恋人でしょう?」
「偽物な」
「声」
「あ」
慌てて口を閉じる。
危ない。
これだけ注目されている中で、関係が偽物だとバレたら全部終わりだ。
「……面倒だな」
「今さら?」
「その言葉好きだな、お前」
「だって本当に今さらなんだもの」
そう言って、悠里は卵焼きを口に運ぶ。
俺はため息をついた。
でも。
不思議と嫌ではなかった。
視線は痛い。
面倒なのも事実。
それでも――。
こうして悠里と話している時間そのものは、思っていたより悪くない。
そんなことを。
この時の俺は、まだ深く考えもしなかった。
◇
午後。
授業が終わり、生徒会室へ向かう。
朝よりも、明らかに周囲の視線が増えている。
「…………」
気のせい。
そう思いたい。
「相河先輩」
「ん?」
後ろから呼び止められた。
二年生らしい男子だった。
「神代先輩と……本当に付き合ってるんですか?」
「…………」
またか。
今日は何回この質問をされればいいんだ。
「付き合ってるよ」
「……そうですか」
「何?」
「いえ……」
男子は何か言いたそうにしながらも、そのまま去っていった。
「なんなんだよ……」
小さく息を吐く。
今日だけで何人目だ?
いちいち相手にしていたらきりがない。
噂なんて、そのうち飽きられる。
そう思うことにした。
そして、生徒会室のある校舎へ続く廊下を曲がった時だった。
「相河」
「…………」
また?
反射的にため息が出た。
「今度は何だよ」
声のしたほうを見る。
そこには、一人の男子生徒が立っていた。
背が高い。
俺と同じ三年。
制服の上からでも分かるくらい、体格がいい。
肩にはスポーツバッグ。
そこから覗いているバスケットシューズ。
胸元には、バスケ部の徽章。
どこかで見た顔だと思った。
確か――。
バスケットボール部の主将。
「お前、神代さんと付き合ってるって本当なのか?」
「…………」
やっぱりそれか。
「またその話?」
「何?」
「いや。今日それ何回も聞かれてるから」
俺はメガネを押し上げた。
「本当だよ」
「…………」
男の眉が動く。
どうやら、それだけ聞いて終わり――。
ではなさそうだった。
「そうか」
「じゃあ俺、生徒会あるから」
横を通り過ぎようとする。
「待て」
腕を掴まれた。
「…………何?」
「話は終わってない」
「俺の中では終わったけど」
男が俺を睨む。
今までの奴らとは違った。
質問したいだけじゃない。
明らかに何か言いたそうだ。
「相河」
「だから何」
「お前――」
一瞬。
男が言葉を止める。
そして。
まっすぐ俺を睨みながら言った。
「本当に神代さんに相応しいと思ってるのか?」
「…………は?」
何を言ってるんだ、こいつ。
相応しい?
どういう意味だ?
「いや、ちょっと待て」
「なんだ」
「なんで俺が、お前にそんなこと聞かれないといけないんだ?」
「それは――」
男の拳が握られる。
その様子を見て。
俺はようやく気づいた。
こいつ。
もしかして――。
「…………」
いや。
考えるのはやめよう。
絶対面倒くさい。
「とにかく俺、生徒会あるから」
「相河!」
また呼び止められる。
振り返る。
男は今度こそ、はっきりと俺を睨んでいた。
「明日、放課後――体育館に来い」
「…………なんで?」
「お前に話がある」
「今じゃダメなの?」
「明日だ」
「いや、意味分からないんだけど」
「逃げるなよ」
そう言い残して。
男は去っていった。
「…………」
一人。
廊下に取り残される。
「なんだったんだ……?」
今日の朝までは。
視線が増えただけだった。
昼には、少し居心地が悪くなった。
午後には、直接声を掛けられるようになった。
そして今度は。
知らない男から、体育館に来いと言われた。
たった一日。
それだけなのに。
昨日までの穏やかな日常が。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
別のものへ変わり始めている。
「…………」
嫌な予感しかしない。
それでも、この時の俺はまだ知らなかった。
翌日の体育館で。
自分がまったく身に覚えのない理由から――。
勝負を挑まれることになるなんて。
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