第10話 変えなかった結果

 夕方から降り始めた雨は、仕事を終える頃にはかなり強くなっていた。


 駅前の歩道を、傘を叩く雨音が埋めている。


 神谷直人は信号を渡りながら、空を見上げた。


「結構降るな」


 朝の天気予報を見ていたので、傘は持っている。


 問題はない。


 ただ、駅まで数分歩いただけでスーツの裾には細かな水滴がついていた。


 このまま電車へ乗る気になれず、直人は駅近くのカフェへ入った。



 店内は混んでいた。


 同じように雨宿りを考えた人間が多いらしい。


 注文を済ませ、空いている席を探す。


 窓際。


 二人掛けのテーブルに、一人で座っている女性がいた。


 帽子をテーブルの端へ置き、スマートフォンを見ている。


「……」


 見覚えのある顔だった。


 向こうも気づいたらしい。


 顔を上げる。


「あ」


 水城凛だった。


「神谷さん」


「どうも」


 凛が向かいの椅子を見る。


「よかったら、ここ空いてますよ」


「いいんですか?」


「混んでますし」


 周囲を見る。


 確かに、他に空席はほとんどない。


「じゃあ、すみません」


 直人は向かいへ座った。


「また会いましたね」


 凛が言う。


「ですね」


「三回目?」


「昼と夜を別に数えるなら」


「別に数えますよ」


「じゃあ三回目ですね」


「意外と会いますね」


「同じ辺りにいるからじゃないですか」


「夢がない」


「何の夢です?」


「こういうとき、普通は『縁がありますね』とか言うんじゃないですか?」


「そうなんですか?」


「たぶん」


 直人は少し考えた。


「じゃあ、縁がありますね」


「言わされた感すごい」


 凛が笑う。


 直人もコーヒーへ口をつけた。



 窓の外では、雨脚がさらに強くなっていた。


 車が通るたび、道路脇の水が跳ねる。


「水城さんも雨宿りですか?」


「そうです」


「傘は?」


「持ってないです」


「天気予報、雨でしたよ」


「朝は見たんですけど」


「じゃあ何で?」


「持って出るの忘れました」


「意味ないですね」


「分かってます」


 凛が少しむっとした顔をする。


「神谷さんは持ってるんですか?」


「あります」


「偉いですね」


「天気予報見たので」


「そこ、もう一回言わなくていいです」


 また笑う。


 前に会ったときより、会話の間が短くなっていた。


 まだ友人ではない。


 けれど、完全な他人でもない。


 そのくらいの距離だった。



「今日は仕事だったんですか?」


「はい。撮影です」


「この雨で?」


「室内だったので、撮影自体は大丈夫でした」


「移動は?」


「最悪です」


「ですよね」


 凛がアイスティーのストローを回す。


 氷が小さく鳴った。


「モデルって、毎回車で移動するんじゃないんですね」


「そんな待遇じゃないです」


「そうなんだ」


「どういうイメージなんですか」


「マネージャーが車で迎えに来る」


「もっと売れてる人ですね、それ」


「水城さんも最近仕事増えてるんじゃないですか?」


 凛が少し目を細める。


「Instagram見てるんですね」


「たまに」


「また『たまたま』って言うかと思いました」


「今回は言ってないです」


「進歩しましたね」


「何の?」


「分かんないですけど」


 凛が笑った。


「でも、最近は少し増えました」


「じゃあ順調ですね」


「どうなんでしょう」


「違うんですか?」


「仕事が増えたら、今度は次も呼んでもらえるかなとか考えるので」


「終わりないですね」


「たぶん、ないです」


「大変そう」


「神谷さん、それよく言いますよね」


「何が?」


「大変そう、って」


「大変そうだから」


「他人事」


「他人なので」


 凛が一瞬止まり、それから笑った。


「神谷さん、結構同じこと言うんですね」


「毎回違うこと言う方が変じゃないですか?」


「それはそうですけど」


 直人も少し笑った。



 雨はなかなか弱くならなかった。


 直人はスマートフォンで雨雲を確認する。


 しばらくは、このままらしい。


 画面を閉じる。


 待てばいい。


 それだけだった。



「神谷さん、仕事辞めないんですか?」


 唐突に凛が聞いた。


「何で?」


「前に、車と家買ったって言ってたから」


「ああ」


「仕事も別に好きじゃないって」


「嫌いでもないです」


「その答え、本当に微妙ですよね」


「でも事実なので」


「お金あるなら、もっと好きなことするとか」


「そこまで金あるとは言ってないですよ」


「あ」


 凛が笑った。


「確かに」


「車と家買っただけです」


「普通はそれを『だけ』って言わないです」


「そうですかね」


「そうですよ」


 直人はコーヒーを飲む。


「辞めたいと思ったら辞めます」


「今は思わない?」


「そこまで」


「じゃあ、意外と仕事好きなんじゃないですか?」


「それはないです」


「即答」


 凛が笑う。


 直人もそれ以上否定しなかった。



 店内の客が少しずつ減っていく。


 十九時を過ぎた頃。


 凛が窓の外を見る。


「全然止まないですね」


「ですね」


「コンビニで傘買おうかな」


「この辺ならありますよ」


「でも、今出たらそこまでで濡れますよね」


「駅ならここからほとんど濡れずに行けますけど」


「私、駅じゃないんです」


「どこ行くんです?」


「このあと事務所寄らないといけなくて」


「歩き?」


「十分くらいです」


「それは無理ですね」


「ですよね」


 凛がスマートフォンで地図を開く。


 直人は窓際に立てかけた自分の傘を見た。


 黒い、ごく普通の長傘。


「これ使います?」


「え?」


「傘」


 凛が直人と傘を交互に見る。


「でも神谷さんが」


「俺は駅までなので」


「そのあと困りません?」


「家の最寄りで買えば済みます」


「それ、神谷さんが傘買うことになるじゃないですか」


「水城さんが買っても一本増えるのは同じでしょ」


「同じじゃないですよ」


「何が?」


「神谷さんの傘じゃないですか」


「千円もしないですよ」


「値段の話してないです」


 直人は少し黙った。


「じゃあ、何の話?」


「借りたものは返すって話です」


「真面目ですね」


「普通です」


 凛は傘を見てから、直人を見る。


「……じゃあ、借りてもいいですか?」


「どうぞ」


「ちゃんと返します」


「別に返さなくても」


「返します」


「はい」


 凛が傘を受け取る。


 そこで、ふと手を止めた。


「でも」


「はい」


「どうやって返します?」


「……」


 直人も考えた。


 次にいつ会うかは分からない。


 撮影現場。


 コンビニ。


 今日のカフェ。


 三度続けて偶然会った。


 だからといって、四度目も同じように起きる保証はない。


「次会ったときでいいですよ」


 そう答えると、凛が少し笑った。


「次会える前提なんですね」


「水城さんがさっき縁があるって言ったので」


「あれ、私が言ったことになってる」


「違いました?」


「言わせただけです」


「似たようなものじゃないですか」


「全然違います」


 凛は笑いながらスマートフォンを取り出した。


「LINE、交換しません?」


 直人は凛を見る。


「傘返すために」


「ああ」


「嫌なら別に――」


「いいですよ」


 直人もスマートフォンを出した。


 QRコードを読み取る。


 画面に名前が追加される。


 水城凛。


「これで返せます」


「律儀ですね」


「神谷さんが適当すぎるんですよ」


「傘一本くらい別に」


「だから値段じゃないですって」


「はい」


「絶対分かってない」


 凛が笑った。



 店を出る。


 雨はまだ強かった。


 凛が黒い傘を開く。


「結構大きいですね」


「俺が使うので」


「あ、そっか」


「小さいと肩濡れるんですよ」


「神谷さん大きいですもんね」


 凛は傘の下へ入った。


「じゃあ、本当に借ります」


「はい」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


「ちゃんと返しますから」


「分かりました」


「じゃあ、また」


「また」


 凛が傘を差したまま軽く手を上げる。


 直人も返した。


 黒い傘は雨の中へ入り、人の流れに混じって少しずつ遠ざかっていった。



 直人は駅へ向かった。


 地下道へ入る直前。


 ポケットの中でスマートフォンが震える。


 画面を見る。


 追加されたばかりの名前。


『水城凛です。傘ありがとうございます!』


 その下に、もう一通。


『ちゃんと返すので、捨てたことにしないでくださいね』


「捨てたことって何だよ」


 思わず口にする。


 直人は歩きながら返信した。


『分かりました』


 数秒後。


『それだけ?』


「……」


 少し考える。


『濡れないように気をつけてください』


 既読がつく。


『ちょっと人間味出ましたね』


 直人は画面を見て、小さく笑った。


『よく言われます』


『絶対嘘』


 そこでやり取りは止まった。



 電車へ乗る。


 窓に雨粒が流れていく。


 直人はスマートフォンを一度開いた。


 水城凛。


 連絡先が一つ増えただけ。


 次に会いたければ、今度は偶然を待つ必要もない。


 メッセージを送ればいい。


 それでも。


 食事へ誘えば来る確率。


 凛から連絡が来る確率。


 この先、親しくなる確率。


 そんな問いは浮かべなかった。


 スマートフォンをポケットへ戻す。


 今は、傘を返すという理由が一つある。


 それで十分だった。



 最寄り駅へ着く。


 外へ出ると、当然こちらも雨だった。


「あ」


 傘は凛に貸したままだ。


 駅前のコンビニを見る。


 入口脇にはビニール傘が並んでいる。


 買えば済む。


 自宅までは五分ほど。


 直人は少し考えて、そのまま雨の中へ出た。


 スーツの肩がすぐに濡れた。


 髪にも雨が落ちる。


 数分歩いたところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。


『事務所着きました。助かりました』


 短いメッセージだった。


 直人は立ち止まらずに返す。


『それならよかったです』


 送信する。


 スマートフォンをしまい、また歩く。


 傘を一本失った。


 自分は雨に濡れている。


 それなのに。


 不思議と、損をした感じはしなかった。

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