第11話 嫌なら辞めればいい

 月末が近づくと、営業部の空気は少し変わる。


 電話の本数が増える。


 普段なら翌日に回す確認も、その日のうちに終わらせようとする。


 ホワイトボードに書かれた数字の前で、足を止める人間も増えた。


 神谷直人は、その空気が嫌いではなかった。


 数字を追うこと自体は分かりやすい。


 足りないなら、何が足りないのかを見る。


 案件数なのか。


 商談数なのか。


 決裁者まで届いていないのか。


 条件で負けているのか。


 原因が分かれば、手は打てる。


 ただ。


 数字を作ることと。


 数字をよく見せることは違う。



「石井、これまだ上がってないの?」


 午前九時過ぎ。


 大森部長の声が、営業部の端まで聞こえた。


 直人は自席でメールを返しながら、視線だけを向ける。


 大森の机の前に、石井が立っていた。


 営業部の中では若い方で、まだ一人で大きな案件を任されることは少ない。


 手には見積書らしい紙を持っている。


「先方から口頭ではいただいてるんですけど、申込書がまだで」


「じゃあ決まってるんだろ?」


「たぶん大丈夫だと思います」


「だったら今月で上げといて」


 石井が困った顔をした。


「でも、まだサインもらってないです」


「明日もらえば同じだろ」


「経理に出すとき――」


「あとで差し替えればいいから」


 大森はパソコンの画面を見たまま言った。


「今月、あと一本足りないんだよ」


「……はい」


「石井の数字にもなるんだから、別に損ないだろ」


 石井は返事をしなかった。


 大森がようやく顔を上げる。


「何?」


「いえ」


「じゃあやっといて」


「……分かりました」


 石井が戻ってくる。


 直人の席の横を通るとき、目が合った。


 何か言いたそうだったが、そのまま自席へ戻った。


 直人も声はかけなかった。



 昼前。


 石井が椅子を寄せてきた。


「神谷さん」


「何?」


「ちょっといいですか」


「いいよ」


 石井は声を落とした。


「朝のやつなんですけど」


「大森部長の?」


「はい」


「申込書まだなんだろ?」


「まだです」


「じゃあ実績じゃないじゃん」


「ですよね」


 石井は小さく息を吐いた。


「でも、部長が上げろって」


「言ってたね」


「神谷さんならどうします?」


「上げない」


 即答すると、石井が苦笑した。


「ですよね」


「何で俺に聞いたの?」


「神谷さん、こういうの気にしなさそうだから」


「どういう意味?」


「いや……会社がそう言ってるなら、そうするみたいな」


「俺そんな感じ?」


「ちょっと」


「失礼だな」


「すみません」


 直人は画面から目を離した。


「別に正義感じゃないよ」


「はい?」


「あとで客がやめたら面倒だから」


「……ああ」


「申込書ないのに実績で上げて、結局契約しませんってなったら、説明するのこっちだろ」


「そうなんですよ」


「だったら最初からやらない方が楽じゃん」


「神谷さんらしいですね」


「褒めてないだろ」


「半分くらいは」


 石井は少し笑った。


 それから自席へ戻っていった。



 午後三時。


 問題は起きた。



「石井」


 大森に呼ばれた石井が立ち上がる。


 数分後。


 さっきより明らかに顔色が悪くなって戻ってきた。


「どうした?」


 直人が聞く。


 石井は椅子へ座り、声を潜めた。


「朝の会社、駄目になりました」


「契約?」


「はい」


「やっぱり」


「社内決裁で止まったらしくて」


 直人は椅子の背にもたれた。


「じゃあ訂正すればいいじゃん」


「それが……」


 石井が大森の席を見る。


「もう今月分で報告上げたから、何で確定してないもの入れたんだって」


「誰に言われたの?」


「部長に」


「入れろって言ったのも大森部長だろ」


「そうなんですけど」


 石井は困ったように笑った。


「『俺は確定してるなら上げろって言っただけだ』って」


「……」


「俺が勝手に確定だと思ったことになってます」


 直人はしばらく石井を見る。


「朝、俺も聞いてたけど」


「ですよね」


「申込書まだって言ってたよな」


「言いました」


「あとで差し替えればいいって言ってたよな」


「言ってました」


「じゃあ大森部長が――」


 そこまで言って、直人は止まった。


 石井が苦い顔で笑う。


「でも、証拠ないですから」


「……」


「俺が訂正出します」


「怒られる?」


「たぶん」


「面倒だな」


「神谷さん、それしか言わないですね」


「面倒なものは面倒だから」


 石井が席へ戻る。


 直人はパソコンの画面へ視線を戻した。


 だが。


 さっきまで読んでいたメールの内容が、頭に入ってこなかった。



 数字を良く見せたい。


 それは分かる。


 会社員なら評価がある。


 部長なら、部全体の数字も見られる。


 月末に一本欲しい。


 そこまでは理解できる。


 直人だって、契約の確率を上げたことはある。


 だが。


 自分で指示して。


 駄目になった瞬間に。


 自分は言っていないことにする。


「……それは違うだろ」


 小さく呟いた。



 夕方。


「神谷」


 今度は直人が呼ばれた。


「はい」


 大森の席へ向かう。


「今月の東栄、どうなってる?」


「先方の最終確認待ちです」


「いけそう?」


「担当者は前向きですけど、まだ決裁終わってません」


「何%くらい?」


 一瞬。


 違う数字が頭に浮かびそうになった。


 能力ではない。


 営業としての感触だ。


「七割くらいじゃないですか」


「じゃあ上げといて」


「何を?」


「今月の見込みじゃなくて、実績」


「まだ契約してないですよ」


「明日か明後日にはするんだろ?」


「分かりません」


 大森が少し苛立った顔をする。


「七割なんだろ?」


「三割はしないです」


「屁理屈いいから」


「屁理屈じゃないです」


「今月だけだよ」


「嫌です」


 大森が直人を見る。


 周囲のキーボードを叩く音が、妙に耳についた。


「……何?」


「契約してないものを実績には入れないです」


「会社の数字なんだから」


「俺が客に確認取ることになるので」


「取ればいいだろ」


「決裁前ですよ」


「神谷」


 大森が椅子へ深く座る。


「お前、最近ちょっと面倒だぞ」


「元からだと思います」


「冗談言ってるんじゃない」


「俺もです」


 大森の眉が動いた。


「営業なんて、ある程度見込みで動くもんだろ」


「見込みは見込みです」


「固い案件なら先に上げることくらいある」


「俺はやらないです」


「何で?」


「後で駄目になったとき面倒だから」


「またそれか」


「はい」


 大森が鼻で息を吐いた。


「石井の件で何か言いたいの?」


「別に」


「だったら余計なこと考えなくていいよ」


 直人は黙った。


 大森は続ける。


「石井は確定してない案件を勝手に上げた。それだけだから」


「……」


「何?」


「朝、申込書まだだって聞いてましたよね」


 大森の顔から表情が消えた。


「だから?」


「その状態で上げろって言ってたように聞こえましたけど」


「神谷」


 声が低くなる。


「聞き間違いじゃない?」


「俺と石井、二人とも?」


「お前、何が言いたいの?」


「別に。確認しただけです」


「俺は、確定してるなら上げろって言ったんだよ」


「あとで差し替えればいいとも言ってましたよね」


 少し離れた席で、誰かの手が止まった。


 大森もそれに気づいたらしい。


 声量を落とす。


「お前さ」


「はい」


「会社員なんだから、会社のやり方に合わせるところは合わせろよ」


「契約前の案件を実績に入れるのが会社のやり方なんですか?」


「言葉尻取るな」


「聞いてるだけです」


「そういうのが面倒だって言ってんだよ」


「そうですか」


「気に入らないなら」


 大森は一度言葉を切った。


「辞めればいいだろ」


 直人は大森を見る。


「……」


「お前ならどこでも営業できるだろ。会社のやり方がそんなに嫌なら、好きにやればいいじゃん」


「そうですね」


「何?」


「いや」


 直人は少し考えた。


「それもありだなと思って」


 大森が呆れたような顔をした。


「もういい。戻って」


「はい」


 直人は自席へ戻った。



 仕事を終えたのは二十時前だった。


 駅へ向かう人の流れに混じりながら、直人は大森の言葉を思い返していた。


 辞めればいい。


「……確かにな」


 金はある。


 仕事をしなくても、生活には困らない。


 そもそも。


 自分はなぜ会社へ行っているのか。


 能力を得た直後にも、一度考えた。


 仕事を辞める確率。


 38.7%。


 あのときは触れなかった。


 自分で決めることだと思ったからだ。


 今も同じだ。


 辞めるかどうかは、自分で決めればいい。


 ただ。


 大森への苛立ちと。


 会社を辞めることは。


 別だった。



 駅へ着く。


 階段を上がる人間。


 改札へ向かう人間。


 仕事帰りの顔が流れていく。


 直人は柱の脇で立ち止まった。


 昼間の石井の顔を思い出す。


 指示された。


 従った。


 失敗した。


 その瞬間、指示した人間が消えた。


「……」


 ひったくり犯のことも思い出した。


 怪我をする確率。


 6.4%から63.8%。


 結果として、男は車にはねられた。


 無関係な運転手まで巻き込んだ。


 あれ以来、人間の怪我に関する数字には触れていない。


 大森に怪我をさせたいか。


 そう考えると。


 答えは、違った。


 そこまでする必要はない。


 会社へ来なくなればいい。


 少なくとも。


 部長として人に指示を出せなくなればいい。


 その理由が怪我である必要はなかった。



 問いが浮かぶ。



 ――今から三か月以内に、大森が営業部長の役職を外れる確率。



 数字が現れた。



 ――8.7%。



「……」


 低い。


 何もしなければ、おそらく三か月後も同じ席に座っている。


 石井の件も。


 今日の会話も。


 そのうち何となく流れていくのだろう。


 直人は数字を見る。


 大森を辞めさせる、と指定したわけではない。


 会社を追い出せ、とも。


 営業部長ではなくなる。


 それだけだ。


 異動かもしれない。


 降格かもしれない。


 本人が辞めるかもしれない。


 今日のようなことが上に知られるのかもしれない。


 どうなるかは分からない。


 けれど。


 結果だけなら、選べる。


「……こっちの方がいいか」


 直人は右手を上げた。


 数字に触れる。


 8.7。


 21.4。


 46.8。


 71.2。


 一度、指が止まる。


 十分高い。


 ここで離しても。


 何かが起こる可能性の方が高い。


「……」


 63.8%を思い出す。


 あのときは。


 確実にすることを避けた。


 怪我だったから。


 人間の身体だったから。


 今回は違う。


 そう考えた。


 違うことにしたかったのかもしれない。


 自分でも、そこまでは分からない。


 直人は再び指を動かす。


 84.5。


 93.1。


 97.8。


 そして。


 ――99.9%。


 手を離した。


 数字が消える。


 駅の構内は何も変わらない。


 電車の到着を知らせる音。


 誰かの話し声。


 改札を抜ける電子音。


 大森は今頃、まだ会社にいるかもしれない。


 三か月以内。


 営業部長ではなくなる。


 ほぼ確実に。


「……」


 直人はしばらく、自分の右手を見た。


 怪我をさせたわけではない。


 誰かを殺そうとしたわけでもない。


 そう考えると。


 ひったくり犯のときより、ずっと抵抗がなかった。


 むしろ。


 拍子抜けするほどだった。


「人の人生ではあるんだけどな」


 小さく呟く。


 役職を失えば。


 収入が変わるかもしれない。


 家族がいれば、その生活にも影響するかもしれない。


 大森が積み上げてきたものが崩れる可能性もある。


 それでも。


 直人は数字を元へ戻そうとは思わなかった。


 石井に責任を押しつけた。


 自分にも同じことをさせようとした。


 指摘すれば、なかったことにした。


 だから。


 部長でなくなる。


 その理屈が正しいのかは分からない。


 ただ。


 今回は。


 自分がそう決めた。


 直人は改札を通った。


 ホームへ向かう人の流れに混じる。


 指先には、やはり何の感触も残っていなかった。

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