第9話 自業自得
昼休みを少し過ぎた頃。
神谷直人は取引先から会社へ戻るため、駅前の大通りを歩いていた。
信号を待つ人。
スマートフォンを見ながら歩く学生。
買い物袋を提げた老人。
どこにでもある平日の街だった。
確率のことを考えていたわけでもない。
ただ、会社へ戻る途中だった。
「返して!」
突然、女の声が響いた。
直人が振り向く。
歩道の少し先で、女性が地面に手をついていた。
その前を、一人の男が走っている。
黒いパーカー。
キャップ。
右手には、女性物らしい小さなバッグ。
「ひったくり……?」
考えるより先に状況が分かった。
「誰か! 捕まえて!」
女性が叫ぶ。
周囲の人間も振り返った。
だが、何が起きたのか理解するまでには少し時間がかかる。
男はその間にも走っていく。
直人との距離は二十メートルほど。
追えば、追いつけるかもしれない。
ただ、直人はスーツ姿だった。
男の方が明らかに速い。
それに、追いついたあと相手がどう出るかも分からない。
刃物を持っている可能性だってある。
「……」
直人の視線が男を追う。
その瞬間。
頭の中に問いが浮かんだ。
――あの男が、今日中に救急搬送が必要な怪我をする確率。
数字が現れる。
――6.4%。
直人の足が止まった。
普段なら、そのまま消している。
他人が怪我をする確率など、わざわざ見る必要はない。
まして。
数字を変える必要などない。
数週間前。
テレビに映った無差別殺傷事件の犯人を見たとき。
一年以内に死亡する確率は1.6%だった。
直人は触れなかった。
死ねばいいと思うことと。
実際に数字を動かすことは違う。
そう考えた。
今も、同じはずだった。
「返して……!」
背後から女性の声がする。
転んだらしく、膝から血が出ていた。
逃げる男は一度だけ後ろを振り返る。
それでも止まらない。
「……悪いことして逃げてるんだよな」
誰に言うでもなく呟いた。
数字はまだ浮かんでいる。
6.4%。
直人は指を伸ばした。
触れる。
6.4。
18.7。
31.5。
48.2。
そこで一度止まる。
「……」
99.9%まで上げることもできる。
だが。
そこまでする必要があるのか。
直人自身にも分からなかった。
少しだけ、指を動かす。
――63.8%。
止めた。
「これくらいなら……」
何が「これくらい」なのか。
自分でも曖昧だった。
男が角を曲がろうとする。
その先には交差点があった。
直人は動かずに見ていた。
男が歩道から車道へ飛び出す。
「危な――」
甲高いブレーキ音。
次の瞬間。
鈍い音が響いた。
「……」
周囲から悲鳴が上がる。
男の身体が横から弾かれ、バッグが道路へ転がった。
車は交差点の途中で停止している。
運転席から男が慌てて降りてきた。
「大丈夫ですか!」
誰かが救急車を呼ぶ。
別の誰かが警察へ電話している。
数秒前まで走っていた男を中心に、人だかりができていく。
直人はその場から動けなかった。
「……マジかよ」
聞こえない程度の声が漏れた。
怪我をする確率を上げた。
その直後。
男は車にはねられた。
63.8%。
確実ではない。
数字を変えなくても、同じ事故が起きた可能性はある。
それでも。
ただの偶然だと思い切ることはできなかった。
救急車のサイレンが近づいてくる。
ひったくられた女性のそばには、別の女性が付き添っていた。
「バッグ、あそこ!」
誰かが道路を指差す。
倒れた男には意識があるらしい。
身体を起こそうとして、近くにいた人間に止められている。
「動かないで!」
直人は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
死なせようとは思っていなかった。
車にはねられろとも。
足を折れとも思っていない。
ただ。
救急搬送が必要な怪我をする確率を上げた。
結果だけを選んだ。
そこへ至る方法までは、選んでいない。
「……そういうことか」
直人の視線が、事故を起こした車へ移る。
運転していた男が、青ざめた顔で警察へ何かを説明していた。
ひったくり犯とは関係のない人間。
少なくとも、直人が怪我をさせようと思った相手ではない。
「……あの人は関係ないな」
数字は。
直人が考えていなかったものまで使って、結果へ向かった。
そこだけは、嫌でも分かった。
救急隊員が到着する。
倒れていた男の周囲に人が集まった。
「……自業自得か」
口にしてみる。
悪いことをした。
逃げた。
事故に遭った。
そう並べれば簡単だった。
だが。
そこに63.8%という数字があったことを知っているのは、自分だけだ。
直人は腕時計を見る。
「会社戻らないと」
男が救急車へ運ばれていく。
最後まで見届けることなく、直人は駅へ向かった。
午後。
仕事をしていても、何度かブレーキ音を思い出した。
電話をする。
メールを返す。
見積書を確認する。
目の前の仕事に集中している間は忘れている。
ふとした瞬間に。
キィッ、とタイヤが鳴る音だけが戻ってくる。
そのあとに続いた、鈍い音も。
「神谷さん?」
隣の席から声をかけられた。
「何?」
「これ、確認お願いしていいですか?」
「ああ」
資料を受け取る。
後輩はそれ以上何も言わなかった。
直人も仕事へ戻った。
後悔しているのか。
そう聞かれれば、分からない。
ひったくり犯が逃げ切るよりはよかった。
被害に遭った女性からすれば、バッグも戻る。
犯人も捕まる。
結果だけを見れば、悪いことばかりではない。
ただ。
同じことが起きたら。
自分はまた、数字を上げるのか。
「……」
答えは出なかった。
仕事を終えた頃には、外は暗くなっていた。
マンションへ戻り、階段を上がる。
二階と三階の間。
見慣れた場所に、悠真が座っていた。
「またいる」
「あ、神谷さん」
携帯ゲーム機から顔を上げる。
「今日は何してんの?」
「レベル上げ」
「ボス倒したんじゃなかった?」
「次のとこ」
「終わらないな」
「ゲームだからね」
「ゲームって大変だな」
「神谷さん全然分かってないでしょ」
「分かってない」
「堂々と言わないでよ」
悠真が笑う。
直人はその隣を通り過ぎようとして、止まった。
「寒くない?」
「ちょっと」
「家帰れば?」
「まだいい」
その答えだけで。
家へ戻りたくないのだと分かった。
「翔太いるの?」
「いる」
「喧嘩してる?」
「今日はしてない」
「じゃあ帰ればいいじゃん」
「ゲームしてるから」
「家でもできるだろ」
「……」
悠真が画面へ視線を落とした。
直人はそれ以上聞かなかった。
隣の段に腰を下ろす。
「神谷さん、暇なの?」
「今帰ってきた」
「じゃあ家入ればいいじゃん」
「お前がいるから座っただけ」
「俺のせい?」
「そう」
「帰ろうかな」
「どうぞ」
「引き止めてよ」
「何でだよ」
悠真が笑う。
ゲーム画面から、小さな効果音が聞こえる。
しばらく黙って見ていた。
ふと。
昼間の出来事を思い出した。
「今日さ」
「うん」
「ひったくり見た」
悠真の手が止まる。
「マジ?」
「うん」
「捕まった?」
「たぶん」
「たぶん?」
「逃げてる途中で車にはねられた」
「え」
悠真が顔を上げる。
「死んだ?」
「死んではない。救急車で運ばれた」
「うわ」
少し驚いたあと。
すぐにゲームへ視線を戻した。
「じゃあいいじゃん」
「何が?」
「捕まったんでしょ?」
「たぶん」
「悪いことしたんでしょ?」
「まあ」
「じゃあ自業自得じゃん」
直人の視線が止まった。
「……自業自得?」
「だって、人のバッグ盗ったんでしょ?」
「そうだけど」
「逃げなきゃ車にもはねられなかったじゃん」
「……」
「違う?」
十歳の言葉だった。
単純で。
分かりやすい。
悪いことをした。
逃げた。
事故に遭った。
自業自得。
直人自身も、昼間同じ言葉を口にした。
「まあ、そうだな」
「でしょ」
悠真は納得したようにゲームへ戻る。
直人はその横顔を見る。
そのとき。
悠真がゲーム機の持ち方を変えた拍子に、袖が少し上がった。
以前見た場所とは違う。
手首より少し上。
青紫色の痣。
「……悠真」
「何?」
「それ」
視線で示す。
悠真も自分の腕を見る。
「ああ」
「ああ、じゃないだろ」
「ぶつけた」
「また?」
「うん」
「どこに」
「机」
「机にそんなぶつけ方する?」
「するよ」
「しないだろ」
「するって」
悠真は袖を引っ張り、痣を隠した。
「翔太?」
「違う」
「本当に?」
「違うって」
声が少し強くなった。
直人は黙る。
前にも聞いた。
追い詰めれば話さなくなる。
それも分かっている。
「……分かった」
それ以上は聞かなかった。
悠真がちらりとこちらを見る。
「怒ってる?」
「別に」
「顔怖いよ」
「元から」
「それはそう」
「失礼だな」
悠真が小さく笑う。
直人も息を吐いた。
「神谷さん」
「何?」
「今日、翔太なんか機嫌悪いんだよね」
「何で?」
「知らない」
「じゃあ、帰りたくない?」
悠真はすぐには答えなかった。
ゲーム機のスティックへ親指を乗せたまま、小さく言う。
「もうちょっとここにいる」
「そう」
「駄目?」
「別に」
直人は階段の窓へ目を向けた。
外はもう暗い。
冷たい空気が隙間から入り込んでくる。
「寒くなったら、この前言った通り来れば」
「神谷さんち?」
「うん」
「ゲームしていい?」
「音小さくするなら」
「またそれ?」
「嫌なら来なくていい」
「行く」
「じゃあ静かに」
「細かいなあ」
悠真が笑う。
その顔を見ながら。
直人は袖の下に隠れた痣を思った。
翔太がつけたものなのか。
本当にどこかへぶつけただけなのか。
確かめようとすれば。
何か問いを作ることはできるのかもしれない。
――あの痣を翔太がつけた確率。
「……」
そこまで考えて、やめた。
そもそも、そんな問いに数字が出るのかも分からない。
それ以上に。
今、知ってどうする。
もし翔太が悠真を傷つけていると分かったら。
自分は何をする。
昼間。
悪いことをして逃げた男の、怪我をする確率を上げた。
結果として、その男は車にはねられた。
では。
翔太なら。
怪我をする確率。
事故に遭う確率。
仕事を失う確率。
この家からいなくなる確率。
問いなら、いくらでも思いつく。
「神谷さん?」
悠真の声で思考が途切れた。
「何?」
「ぼーっとしてた」
「考え事」
「仕事?」
「違う」
「じゃあ何?」
「面倒なこと」
「神谷さん、いつも面倒って言ってるじゃん」
「そうだな」
直人は立ち上がった。
「俺、部屋戻るわ」
「うん」
「寒くなったら来いよ」
「分かった」
数段上がる。
そこで一度、振り返った。
悠真はもうゲームへ戻っていた。
袖は下がっていて。
痣は見えない。
「悠真」
「何?」
「……何でもない」
「何それ」
「ゲームやってろ」
「やってるよ」
直人は自分の部屋へ戻った。
鍵を閉める。
静かな部屋。
腕時計を外し、テーブルへ置く。
昼間の男。
悠真の痣。
頭の中に二つが並んだ。
悪いことをした人間が怪我をする。
自業自得。
そう言ってしまえば簡単だ。
けれど。
自分には、その「自業自得」が起きる確率を上げられる。
直人はソファへ腰を下ろした。
右手を見る。
数字に触れるとき。
必要なのは、指を少し動かすことだけだ。
力はいらない。
血を見る必要もない。
相手に触れる必要すらない。
だから。
「……簡単すぎるんだよな」
昼間。
63.8%へ動かしたとき。
自分の手には、何の感触もなかった。
それでも。
一人の男が道路へ倒れた。
直人はしばらく、自分の右手を見ていた。
数字は何も浮かんでいなかった。
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